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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第1章 水を運ぶ手

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第3話 「灯替え」——誰も私の名を呼ばない

後宮には、誰かに傷つけられる痛みだけではなく、

誰にも触れられないまま薄れていく怖さがあります。

名前を呼ばれないこと。

存在を確認されないこと。

今回は、そんな静かな揺らぎの話です。

 灯替えは、夕暮れの仕事だ。


 後宮内の各所に下げられた灯籠の油を補い、

 芯を整え、必要があれば新しい蝋燭に換える。

 黙々とした仕事だった。

 音がない。

 誰とも話さない。

 ただ一つひとつの灯籠と向き合って、手を動かす。


 私はこの仕事が、嫌いではなかった。


 水運びよりも静かで、身体への負担も少ない。

 なにより、灯籠の芯に火が戻る瞬間が好きだった。

 小さな炎が、ふっと生まれる。

 揺れて、落ち着いて、やがて安定する。

 その一連の変化が、見ていて飽きなかった。


 ただ、この仕事を始めて気づいたことがある。


 誰も、私の名前を呼ばない。


     * * *


 灯替えは複数人でまわる仕事だが、互いにほとんど話さない。

 上役の女官が指示を出すとき、「そこの」と言う。

 「あなた」と言う。

 「次の棟へ」と言う。

 名前を呼ぶ必要がない仕事だから、呼ばれない。

 それだけのことだと、最初は思っていた。


 しかし水運びでも同じだった。


 食事の配膳でも、

 掃除でも、どの仕事でも——

 上役は私を名前で呼ばなかった。

 「そこ」「あなた」「新入り」。

 それで十分だった。

 私が理解し、返事をすれば、それでよかった。


 おかしなことではないのかもしれない。


 下女などというものは、そういうものなのかもしれない。

 名前よりも、手が動くかどうかの方が重要で、

 誰であるかよりも、何ができるかの方が問われる。

 それが後宮の底の層というものだと、頭ではわかっていた。


 でも。


 夕暮れの灯籠の前に屈んで、油を注ぎながら、私はふと思った。


 私は今、ここにいる。

 この場所で、この仕事をしている。

 それは確かだ。

 でも——私が「憶華」であることを、誰も知らない。

 知っていても、呼ばない。

 呼ばれなければ、私は「憶華」である必要がない。

 ただ、手が動く誰かであればいい。


 灯籠の炎が、風もないのに少し揺れた。


     * * *


 その日の灯替えの最中、廊の角で年配の女官とすれ違った。


 華やかな衣をまとった女官だった。

 灯替えの私たちとは格が違う、上の位の女官。

 すれ違いざまに立ち止まり、私の顔をじっと見た。


 視線が、痛かった。


 品定めをするような目ではなかった。

 何かを探すような、あるいは何かを見つけようとするような——

 そういう目だった。

 私は会釈をした。女官はしばらく私を見てから、

 何も言わずに歩いていった。


 後ろ姿が廊の角に消えてから、隣にいた下女が小声で言った。


晩蘅妃ばんこうひさまのところの女官だよ」


 晩蘅妃。


 その名前を、私はまだ知らなかった。

 どの妃なのか、どの棟にいるのか、どんな人なのか。

 何も知らなかった。

 ただ、その名前だけが、夕暮れの廊に静かに落ちた。


「なんで私を」と聞きかけて、やめた。


 聞かなくていいことは聞かない。

 それが、ここの作法だった。


---


 夜、暁燕に話した。名前を呼ばれないという話を。


 暁燕は少し考えてから「そうだね」と言った。


「慣れちゃった」

「慣れるんですか?」

「慣れるよ。あたしも最初は気になってた。

 でも、呼ばれなくても仕事はできるし、

 仕事ができれば別にいいかなって」


 別にいい。


 暁燕はそう言えるのだ、と思った。

 それが羨ましいのか、それとも羨ましくないのか、

 私にはよくわからなかった。


「でも」と私は言った。

「名を呼ばれないと、自分がここにいるのかどうか、

 わからなくなる気がします」


 暁燕が、少し黙った。


「それは」と暁燕は言った。「ちょっとわかるかも」


 ちょっとだけ、と付け加えた。

 それから、いつもの調子で笑った。


「でも灯替えのときって、灯籠が返事してくれる気がしない?

 火が灯ったら、ここにいるよって」


 火が灯ったら、ここにいるよ。


 私は暁燕の言葉を、しばらく黙って聞いていた。

 そういう受け取り方があるのか、と思った。

 灯籠の火が返事をする。

 名前を呼ばれなくても、火が答える。


 私には、まだそう思えなかった。


 でも——そう思えるようになる日が来るだろうか、とは思った。


     * * *


 床に就く前に、また茶器を手に取った。


 毎晩、そうしていた。

 意識しているわけではないのに、気づくと手の中にある。

 冷たく、軽い。亀裂が一本。


 誰かがこれを使っていた。


 その誰かは、名前で呼ばれていただろうか。

 ここで、この後宮で、名前を持っていただろうか。

 呼ばれていただろうか。


 わからなかった。


 灯籠の火のことを思った。

 あの炎は、芯が整っていれば揺れない。

 油が十分あれば消えない。

 私の名前も、誰かが呼んでくれれば——揺れずにいられるだろうか。


 消えずにいられるだろうか。


 天井を見た。低い天井。空のない夜。


 明日も、灯を替えに行く。


 炎が、私に返事をするかどうか、試してみようと思った。

灯籠に火を戻すたび、憶華は少しずつ「ここにいる」という感覚を探しています。

けれど後宮は、人を受け入れる場所ではなく、形を変えて飲み込む場所でもあります。

名前を呼ばれない日々の中で、彼女が何を失い、何を見つけるのか。

次回も、静かな回廊を歩いていきます。

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