第4話 「水桶」——重さだけが、確かにある
後宮では、痕跡はすぐに消えます。
こぼれた水も、揺れた感情も、誰にも気づかれないまま乾いていく。
それでも身体だけは、確かに覚えているものがあります。
水は、重い。
当たり前のことだ。わかっていた。
でも実際に毎朝抱えてみると、わかっていたのとは違う重さがある。
頭でわかっている重さと、手が知っている重さは、別のものだと気づいた。
両手で桶を持つ。
指が冷たくなる。肩に力が入る。
背筋を伸ばさないと傾く。
膝を柔らかくしないとこぼれる。
身体のあちこちが、水の重さに応えようとして、じっと働いている。
その感覚が、私は嫌いではなかった。
むしろ——唯一、確かなものだと思っていた。
* * *
昨夜、灯替えのとき炎に話しかけてみた。
声には出さなかった。
心の中で、ただ「ここにいる」と思った。
炎は揺れなかった。
返事もしなかった。
当たり前だ。
炎は炎で、私の言葉など聞こえない。
でも、消えなかった。
それだけで、少し、よかったと思えた。
暁燕の言う「返事」とは、そういうことかもしれないと思った。
答えを求めるのではなく、消えないことを確かめる。
そういうことかもしれない。
確かめることができるものが、ここにはほとんどない。
名前は呼ばれない。
輪郭は薄れる。
自分がここにいるのかどうか、時々わからなくなる。
でも水桶は重い。
この重さは、誰かが呼んでくれるかどうかに関係なく、ある。
私の手がここにある証拠として、ただ、重くある。
* * *
今朝の水運びで、初めて少しこぼした。
泠廊の中ほどで、石畳の継ぎ目につまずいた。
大きくよろけたわけではない。
ほんの少し、桶が傾いた。
それだけで、水は溢れた。
石畳に広がった水が、朝の光を受けて光った。
しまった、と思った。
しかし怒られなかった。
上役の女官は見ていなかったようで、
後ろを歩いていた別の下女も特に何も言わなかった。
私はしゃがんで、袖で石畳を拭こうとした。
そのとき、声がした。
「拭かなくていい」
低い声だった。女の声ではなかった。
顔を上げると、武官が立っていた。若い。
後宮の内廷を警備する武官の装束を着ていた。
私より少し年上に見えた。
背が高く、表情がよく見えなかった。
目だけが、真っ直ぐに私を見ていた。
「すぐ乾く」と武官は言った。「石畳は乾くのが早い」
それだけ言って、武官は歩いていった。
私はしばらく、その場に屈んだままでいた。
声をかけてきた理由がわからなかった。
親切なのか、それとも早く立ち去れということなのか。
判断できなかった。
ただ、あの武官が私を見た目が——何かを探すような目ではなかった、
と気づいた。
ただ、見ていた。
私を、ただの私として。
そういう目で見られたのは、後宮に来て初めてだった気がした。
* * *
昼、暁燕に話した。出会った武官のことを。
「廷烽さんかな」と暁燕は言った。すぐに名前が出てきた。
「知っているんですか」
「最近来た人でしょ。新任の。あたし、一回すれ違ったことある。無口だよね」
「無口......」
「うん。でも感じ悪いわけじゃない。なんか、普通に見てくる」
普通に見てくる。
暁燕の言葉が、私が感じたことと重なった。
普通に。ただ普通に。
それが後宮では珍しいことなのだと、この数週間で少しずつわかってきていた。
「名前は」と私は聞いた。「廷烽というのが名前ですか」
「そう。廷烽。なんか強そうな名前だよね」
廷烽。
私はその名前を、心の中で繰り返した。
泠廊という名前を繰り返したときとは、違う重さだった。
あのときは重くて、飲み込めないような感覚があった。
でも廷烽という名前は——するりと、入ってきた。
* * *
夕方、もう一度泠廊を通った。
朝こぼした水は、もう乾いていた。
武官の言う通りだった。
石畳はどこもかしこも同じ色をしていて、
どこに水がこぼれたのか、もうわからなかった。
痕跡がない。
水がここにあったという証拠が、もうどこにもない。
私はその場所に立って、少し考えた。
水は乾いた。
でも私の手は、あの重さを覚えている。桶が傾いたときの感覚を、
手が覚えている。
石畳には残らなくても、手には残る。
それでいいのかもしれない、と思った。
誰かに見えなくても。痕跡が残らなくても。重さは手が知っている。
水桶を、また抱えた。
重かった。確かに、重かった。
名前を呼ばれなくても、水は重い。
痕跡が消えても、手は感覚を忘れない。
憶華は少しずつ、「誰かに証明されること」とは別の形で、自分の存在を測り始めています。
そして後宮もまた、静かに彼女を見始めています。




