第2話 「門内」——ここから、出られない
後宮に入るということは、門が閉じる音を背中で聞くことなのかもしれません。
外へ続く道を見てしまった瞬間、人は初めて「ここから出られない」と理解する。
今回は、憶華が後宮という巨大な閉鎖空間を、静かに自覚していく回です。
回廊の名前は、思いがけない形で知れた。
翌朝、水桶を抱えて同じ道を歩いていたとき、
前を歩く年上の下女が独り言のように言った。
「泠廊は朝が冷える」と。
泠廊。
私はその名前を、口の中で繰り返した。
声には出さなかった。
出せなかった。
なぜかはわからない。
ただ、その二文字が、舌の上で妙に重かった。
泠——冷たい水を思わせる字。
廊——回廊の廊。
冷たい水の、回廊。
たしかに、朝は冷える。
水桶の中の水が、指先から冷やしていく。
石畳も冷たい。
でも他の回廊と、そう変わらないような気もした。
この廊だけが特別に冷えているのか、
それとも私がそう感じるだけなのか、
まだわからなかった。
泠廊、と、もう一度、心の中で呼んだ。
何も答えなかった。
ただ、冷たい空気が、静かにそこにあった。
* * *
その日の午後、初めて後宮の外郭を歩く機会があった。
上役の女官に連れられて、
数人の下女が外郭の門まで荷を運ぶ仕事だった。
後宮の外から届いた物資を、
門で受け取り、指定の倉へ運ぶ。
単純な仕事だったが、
私にとっては初めて門の近くまで行く機会だった。
門は、大きかった。
想像していたよりずっと大きかった。
高い壁に、重い扉。扉には金具が打たれていて、
朝の光を鈍く反射していた。
門の前には武官が二人、微動だにせず立っていた。
荷の受け渡しが済んで、女官が「戻るよ」と言った。
私は一歩、踏み出せなかった。
門の外が、見えた。わずかな隙間から、外の道が見えた。
石畳ではなく、土の道。
後宮の中とは違う、乾いた茶色の土。
その道の向こうに、何があるのか、私には見えなかった。
でも、道があった。
どこかへ続く、道が。
「憶華」
女官に名を呼ばれて、私は振り返った。
女官は怪訝そうな顔をしていた。
他の下女たちはもう歩き出していた。
「すみません」と言って、私は歩いた。
門が、背後で閉じる音がした。
重い、低い音だった。
* * *
夕方、暁燕に言った。「門を見た」と。
「どの門」と暁燕は聞いた。
「外郭の。荷運びで」
「ああ」と暁燕は言った。特に驚かない。
「あたしも最初に見たとき、おっきいなって思った」
「外が、少し見えた」
暁燕はしばらく黙った。
それから「見えたね」と言った。
声が、少しだけ静かになった。
「ここから、出られないんだな、と思いました」
言ってしまってから、言い過ぎたかと思った。
後宮でそういうことを口にするのは、
あまりよくないかもしれない。
教育の中でそう明示されたわけではないが、
なんとなくそう感じていた。
でも暁燕は怒らなかった。咎めもしなかった。
「そうだよ」と、静かに言った。「出られない。あたしたちは」
その「あたしたち」という言葉が、妙に胸に刺さった。
私だけではなく、あたしたちは、と。
暁燕もそれを知っている。
知った上で、毎朝足音を立てて歩いている。
笑っている。
喋っている。
「怖くないですか」と聞いた。
「怖い、かな」暁燕は少し考えた。
「でも、ここにいるしかないじゃない。だったら怖がってても仕方ないかなって」
仕方ない。
その言葉の軽さと重さが、私にはまだうまく測れなかった。
「憶華は、怖い?」
問いではなく、確認のような言い方だった。
「怖いというより」と私は言った。
「まだよくわからない、という感じです。自分がここにいる理由が」
「理由なんてないよ」と暁燕はあっさり言った。「みんな、そんなもんじゃない。あたしだって、気づいたらここにいたもん」
気づいたら、ここにいた。
私も、そうかもしれない。
気づいたら後宮にいて、
気づいたら門が閉じていて、
気づいたら名前を呼ばれていた。
憶華、と。
それが私の、ここでの名前だった。
* * *
夜、眠れなかった。
天井を見ていた。
宿舎の天井は、低い。
外にいれば空が見えるのに、建物の中にいると見えない。
夜の空も、星も、月も、見えない。
門の外の、あの土の道を思った。
どこへ続いていたのだろう。
私には行く場所がない。
帰る場所もない。
それはわかっている。
後宮に来る前の私には、大した場所がなかった。
それでも——外には道があった。
どこかへ続く道が。
ここには、道がない。
あるのは回廊だけだ。
廊と廊が繋がって、どこまでも続いているが、どれも後宮の中で終わる。
出口のない、回廊。
泠廊、という名前を、また思った。
冷たい水の回廊。
あそこで足音が二つになった。
あそこで宦官が立ち止まった。
名前を知ったのに、まだあの廊のことがわからない。
明日も、あそこを歩くだろう。
水桶を抱えて、足音を立てないように、膝を柔らかくして。
足音は、また二つになるだろうか。
「ここには道がない。あるのは回廊だけだ」という一文が、とても強く残りました。
後宮そのものが、出口を持たない循環構造として描かれている。
そして“泠廊”という名前を知ったことで、ただの違和感だった足音が、
少しずつ輪郭を持ち始めているのが恐ろしい。
名前を与えることは、存在を定着させることでもあるので。




