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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第1章 水を運ぶ手

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第2話 「門内」——ここから、出られない

後宮に入るということは、門が閉じる音を背中で聞くことなのかもしれません。

外へ続く道を見てしまった瞬間、人は初めて「ここから出られない」と理解する。

今回は、憶華が後宮という巨大な閉鎖空間を、静かに自覚していく回です。

 回廊の名前は、思いがけない形で知れた。


 翌朝、水桶を抱えて同じ道を歩いていたとき、

 前を歩く年上の下女が独り言のように言った。

 「泠廊は朝が冷える」と。


 泠廊。


 私はその名前を、口の中で繰り返した。

 声には出さなかった。

 出せなかった。

 なぜかはわからない。

 ただ、その二文字が、舌の上で妙に重かった。

 泠——冷たい水を思わせる字。

 廊——回廊の廊。

 冷たい水の、回廊。


 たしかに、朝は冷える。


 水桶の中の水が、指先から冷やしていく。

 石畳も冷たい。

 でも他の回廊と、そう変わらないような気もした。

 この廊だけが特別に冷えているのか、

 それとも私がそう感じるだけなのか、

 まだわからなかった。


 泠廊、と、もう一度、心の中で呼んだ。


 何も答えなかった。

 ただ、冷たい空気が、静かにそこにあった。


     * * *


 その日の午後、初めて後宮の外郭を歩く機会があった。


 上役の女官に連れられて、

 数人の下女が外郭の門まで荷を運ぶ仕事だった。

 後宮の外から届いた物資を、

 門で受け取り、指定の倉へ運ぶ。

 単純な仕事だったが、

 私にとっては初めて門の近くまで行く機会だった。


 門は、大きかった。


 想像していたよりずっと大きかった。

 高い壁に、重い扉。扉には金具が打たれていて、

 朝の光を鈍く反射していた。

 門の前には武官が二人、微動だにせず立っていた。


 荷の受け渡しが済んで、女官が「戻るよ」と言った。


 私は一歩、踏み出せなかった。


 門の外が、見えた。わずかな隙間から、外の道が見えた。

 石畳ではなく、土の道。

 後宮の中とは違う、乾いた茶色の土。

 その道の向こうに、何があるのか、私には見えなかった。

 でも、道があった。

 どこかへ続く、道が。


「憶華」


 女官に名を呼ばれて、私は振り返った。

 女官は怪訝そうな顔をしていた。

 他の下女たちはもう歩き出していた。


「すみません」と言って、私は歩いた。


 門が、背後で閉じる音がした。

 重い、低い音だった。


     * * *


 夕方、暁燕に言った。「門を見た」と。


「どの門」と暁燕は聞いた。


「外郭の。荷運びで」


「ああ」と暁燕は言った。特に驚かない。

「あたしも最初に見たとき、おっきいなって思った」


「外が、少し見えた」


 暁燕はしばらく黙った。

 それから「見えたね」と言った。

 声が、少しだけ静かになった。


「ここから、出られないんだな、と思いました」


 言ってしまってから、言い過ぎたかと思った。

 後宮でそういうことを口にするのは、

 あまりよくないかもしれない。

 教育の中でそう明示されたわけではないが、

 なんとなくそう感じていた。


 でも暁燕は怒らなかった。咎めもしなかった。


「そうだよ」と、静かに言った。「出られない。あたしたちは」


 その「あたしたち」という言葉が、妙に胸に刺さった。

 私だけではなく、あたしたちは、と。

 暁燕もそれを知っている。

 知った上で、毎朝足音を立てて歩いている。

 笑っている。

 喋っている。


「怖くないですか」と聞いた。

「怖い、かな」暁燕は少し考えた。

「でも、ここにいるしかないじゃない。だったら怖がってても仕方ないかなって」


 仕方ない。

 その言葉の軽さと重さが、私にはまだうまく測れなかった。


「憶華は、怖い?」


 問いではなく、確認のような言い方だった。


「怖いというより」と私は言った。

「まだよくわからない、という感じです。自分がここにいる理由が」

「理由なんてないよ」と暁燕はあっさり言った。「みんな、そんなもんじゃない。あたしだって、気づいたらここにいたもん」


 気づいたら、ここにいた。


 私も、そうかもしれない。

 気づいたら後宮にいて、

 気づいたら門が閉じていて、

 気づいたら名前を呼ばれていた。

 憶華、と。

 それが私の、ここでの名前だった。


     * * *


 夜、眠れなかった。


 天井を見ていた。

 宿舎の天井は、低い。

 外にいれば空が見えるのに、建物の中にいると見えない。

 夜の空も、星も、月も、見えない。


 門の外の、あの土の道を思った。


 どこへ続いていたのだろう。


 私には行く場所がない。

 帰る場所もない。

 それはわかっている。

 後宮に来る前の私には、大した場所がなかった。

 それでも——外には道があった。

 どこかへ続く道が。


 ここには、道がない。


 あるのは回廊だけだ。

 廊と廊が繋がって、どこまでも続いているが、どれも後宮の中で終わる。

 出口のない、回廊。


 泠廊、という名前を、また思った。


 冷たい水の回廊。

 あそこで足音が二つになった。

 あそこで宦官が立ち止まった。

 名前を知ったのに、まだあの廊のことがわからない。


 明日も、あそこを歩くだろう。


 水桶を抱えて、足音を立てないように、膝を柔らかくして。


 足音は、また二つになるだろうか。

「ここには道がない。あるのは回廊だけだ」という一文が、とても強く残りました。

後宮そのものが、出口を持たない循環構造として描かれている。

そして“泠廊”という名前を知ったことで、ただの違和感だった足音が、

少しずつ輪郭を持ち始めているのが恐ろしい。

名前を与えることは、存在を定着させることでもあるので。

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