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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第1章 水を運ぶ手

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第1話 「泠廊」——足音が、二つある

後宮では、知らないことが恐怖になる。

そして時に、“名前がわからない”というだけで、場所は異界に変わる。

今回は、憶華が初めて「後宮がこちらを見返してくる感覚」に触れる回です。

 足音が、二つある。


 気づいたのは、回廊の中ほどだった。


 水を満たした桶を両手で抱え、

 足元だけを見ながら歩いていた。

 こぼしてはいけない。

 揺らしてはいけない。

 朝の仕事の中でも水運びが一番難しいと、

 先輩の下女に教わったばかりだった。


 膝を柔らかく、

 重心を低く、

 足裏で床を確かめながら進む。

 そうすれば水面は揺れない。


 だから最初は、聞こえていなかった。


 自分の足音しか、耳に入っていなかった。


 それが——いつからか、もう一つ、重なっていた。


 私の一歩に、もう一歩が続く。

 私が止まれば、それも止まる。

 私が再び歩き出せば、また重なる。

 ぴたりと、影のように。


 振り返った。


 誰もいなかった。


 回廊は長く、朝の光がまだ低い角度から差し込んでいた。

 石畳の上に私の影だけが伸びている。

 細長く、静かに。

 ほかには何もない。

 風もなく、人もなく、音もなく。


 聞き間違いだったのかもしれない。


 そう思って、また歩き始めた。


 足音は、また二つになった。


     * * *


 この回廊の名前を、私はまだ知らない。


 後宮には名前のついた場所がたくさんある。

 どの殿もどの廊も、どの庭も、それぞれに名を持っている。

 しかし私にはまだ、そのほとんどがわからない。

 教育の中で地図を見せてもらったが、覚えられたのはほんの一部だった。

 自分がどこにいるのか、毎朝少しずつ確かめながら歩いている。


 今日の仕事は、西の棟への水運びだ。


 どの棟かは覚えた。

 しかし途中の回廊の名前は、まだ覚えていない。


 名前を知らない場所を、毎朝歩く。


 それが少し、怖かった。

 名前を知らないということは、

 その場所に自分が属していないということのような気がして。

 ここは私の知らない誰かの場所で、私はただ通り過ぎているだけで、

 だからいつまでも——足音が二つになるのかもしれない、

 などと、そんなことを考えた。


 おかしな考えだと思った。でも、打ち消せなかった。


     * * *


 水を届け終えて、戻る道を歩いていたとき、宦官とすれ違った。


 年かさの、細い男だった。

 後宮でよく見る種類の顔をしていた。

 感情を読ませない目、薄い唇、整えられた衣。

 私が会釈をすると、男も小さく頭を下げた。

 ごく普通の、すれ違い。


 しかし男は、三歩ほど過ぎたところで、立ち止まった。


 気配でわかった。

 足音が止まったのだ。


 振り返ってはいけない気がした。

 振り返れば、何かが始まるような気がした。

 だから私は、そのまま歩き続けた。

 桶はもう空だった。

 軽い。

 なのに足が、少し重かった。


 男が振り返ったかどうか、私にはわからない。


 ただ、しばらくして——男の足音が、また動き始めた。

 遠ざかっていく、その音を、私は背中で聞いていた。


 なぜ止まったのか。


 なぜ私を見たのか。


 聞けなかった。

 聞いてはいけない気がした。

 後宮とはそういう場所だと、教育の中で何度も言われた。

 聞かなくていいことは聞かない。

 見なくていいものは見ない。

 知らなくていいことは知らない。


 それが、ここで生きるということだ、と。


     * * *


 昼過ぎ、暁燕ギョウエンが私の隣に来た。


 同じ棟に配属された下女で、私より少し後宮歴が長い。

 よく喋る。よく笑う。

 廊を歩くとき足音を立てることを、まだ気にしていない。

 私はその足音が少し羨ましかった。


「今朝の水運び、どうだった?」と暁燕が聞いた。

「こぼさずに届けられました」

「偉いね。私、最初の一週間は毎日こぼしてたよ」


 そう言って、暁燕は笑った。

 屈託のない笑い方をする人だと思った。

 後宮でそういう笑い方ができる人が、

 私にはまだよくわからなかった。

 怖くないのだろうか、この場所が。


「西の棟、どうだった。変なことなかった?」

「変なこと、というのは?」

「なんか、あそこ、独特の空気があるって聞いて」


 暁燕は声を少し低くしたが、怖がっているわけではなさそうだった。

 単純に面白がっているような、そんな声だった。


「独特の、空気......」と、暁燕の言葉を反芻する。

「昔、何かあったとか、なかったとか。あたしは詳しく知らないけど」


 何かあったとか、なかったとか。

 私はその言葉を、心の中で繰り返した。


「私には、わかりませんでした」


 そう答えた。

 嘘ではなかった。

 わからなかった。

 ただ、足音が二つになったことは、言わなかった。

 言えなかった。

 言葉にすると、何かが本当になってしまうような気がして。


「そっか」と暁燕は言った。「まあ、気にしすぎかな」


 そのまま話題は変わった。

 夕餉の献立のことになり、暁燕は好きな食べ物の話を始めた。

 私は相槌を打ちながら、西の棟への回廊を、頭の中でもう一度歩いていた。


 石畳。低い朝の光。伸びる影。


 そして——もう一つの、足音。


     * * *


 夜、床に就く前に、茶器を手に取った。


 母から受け継いだと聞いた、小さな茶器。

 薄い青磁で、縁に細い亀裂が一本入っている。

 古いものだとわかる。

 でもそれ以外のことは何もわからない。

 いつ作られたのか、どこから来たのか、誰が使っていたのか。


 私の母が、使っていたのか。


 茶器は何も教えてくれない。

 ただ、手の中にある。

 冷たく、

 軽く、

 静かに。


 この回廊の名前を、明日は誰かに聞こう、と思った。


 名前を知れば、少しは——

 自分がここにいる理由が、見つかるような気がした。


 足音が二つになった回廊の、名前を。

足音が二つになる——それだけの現象なのに、とても静かで逃げ場のない怖さがありました。

幽霊の気配というより、“場所の記憶に歩幅を合わせられてしまう”感覚。

そして最後に「回廊の名前を知りたい」と願う憶華が、美しいと同時に危うい。

後宮は、名前を知った者から深く呑み込んでいく場所でもあるので。

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