表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
序章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/21

第0話 序章「入廊」——足音が、まだ一つだった

後宮とは、悪意ある誰かが支配する場所ではない。

誰もが「正しく」振る舞った結果、静かに人を呑み込む巨大な装置です。

これは、その装置に一度記憶された女と、再びそこへ辿り着いてしまった少女の物語。


【あとがき】

 後宮は、誰かが動かしているのではない。


 皇帝が命じるわけでもなく、

 皇后が操るわけでもなく、

 妃が企むわけでもない。

 ただ、反応する。

 

 巨大な水のように、

 外から加えられた力に、

 音もなく、形を変えながら、応じる。


 誰かが怯えれば、階層が動く。

 誰かが沈黙すれば、噂が生まれる。

 誰かが似ていれば、記憶が揺れる。

 誰かが消えれば、空間がそれを覚える。


 後宮の中にいる者は、

 自分が装置の一部であることを知らない。

 妃たちは感情で動いていると思っている。

 宦官たちは命令に従っていると思っている。

 皇后は秩序を守っていると思っている。

 皇帝は愛していると思っている。


 しかし実際には、誰も何も動かしていない。


 後宮という装置が、ただ、流れているだけだ。


 その流れに飲み込まれた女がいた。


 名を、泠蘭リンランという。


 声が小さく、争いの音が苦手で、

 言葉よりも沈黙を選んで生きた女だった。


 誰をも傷つけず、

 誰にも媚びず、

 ただ静かに、

 後宮の片隅に在ろうとした。


 その静けさが、後宮では「不気味」と解釈された。

 その沈黙が、「何かを隠している」と読まれた。

 誰も彼女を憎まなかった。

 しかし誰も、彼女を助けなかった。


 装置は、音もなく動いた。


 噂が生まれ、人が遠ざかり、空間が閉じ、

 最後に——誰も命じていないのに——泠蘭は禁足区域へ送られた。

 処罰ではなかった。

 ただの、流れだった。

 後宮という装置の、自然な、流れ。


 泠蘭は誰にも見送られずに死んだ。


 殺されたのではない。ただ、誰も助けなかった。


 後宮は、それを覚えている。回廊が覚えている。

 旧居の壁が覚えている。

 禁足区域の石畳が覚えている。

 空間というものは、そこで起きたことを忘れない。

 人が忘れても、場所は忘れない。


 そして後宮という装置は、覚えたものを——繰り返す。


     * * *


 私がここに来たのは、春の終わりだった。


 荷物は少なかった。着替えが二枚と、小さな茶器。

 母から受け継いだものだと聞いたが、母のことを私は知らない。

 名前も、顔も、声も。

 ただその茶器だけが、母というものの、唯一の形だった。


 後宮の門をくぐるとき、振り返った。


 空は白かった。春の終わりの、薄い白。その白さの中に、

 これから私が歩む場所の影が、すでに差していた気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも、あの白い空を、私はずっと覚えているだろうと思った。


 名前を、まだ誰も呼ばなかった。

 ここでは、私は憶華イーファだ。

 それ以外の何かは、まだ、ない。


 教育が始まった。

 礼の仕方、歩き方、目の伏せ方、声の大きさ。

 後宮には、作法という名の沈黙がある。

 どこで声を出してよいか、どこで黙らなければならないか。

 それは教えられるのではなく、空気として身体に染み込んでくるものだった。


 私は、すんなりと覚えた。


 なぜ覚えられたのか、自分でもわからなかった。

 まるで以前にも知っていたような、そんな感覚。

 声を小さくすること、足音を立てないこと、

 感情を表に出さないこと。

 誰かに教わったわけではないのに、

 私の身体はそれを知っていた。


 おかしいとは、思わなかった。


 ただ、時々、回廊を歩くとき、

 ふと、誰かの気配を感じることがあった。

 隣を、誰かが歩いているような。

 振り返っても、誰もいない。

 足音も、聞こえない。


 気のせいだと思った。


 春が終わり、夏が来ようとしていた。

 後宮の庭では、名も知らない花が咲いていた。

 白い花だった。香りはなかった。

 あるいは、私がまだ気づいていなかっただけかもしれない。


 私はここで、何かを探している。

 何を探しているのか、まだわからない。

 ただ、この場所は——

 最初から、私を待っていたような気がする。


 それが、怖かった。

「誰も殺していないのに、誰も助けなかった」という構造が、この後宮の恐ろしさでした。

怨霊や陰謀ではなく、“空間が記憶を反復する”ことで人が追い込まれていく。

憶華が感じる既視感は、転生なのか、残留なのか、それとも後宮そのものの記憶なのか——

その曖昧さが、とても美しく不穏でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ