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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第2幕 追い、溢れ、零れる/第1章 追う

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第29話 「懐玉」——顕明が、小さな白磁の欠片を持っていた

 顕明が、手の中に何かを持っていた。


 憶華がそれに気づいたのは、二度目に廊で会ったときだった。老宦官の指の間から、白いものが少し見えた。陶器の、欠片のような。


「それは?」


 顕明は隠さなかった。開いた手のひらに、小さな白磁の破片が乗っていた。親指の爪ほどの大きさで、縁が鋭く割れている。薄く、軽そうで、しかし顕明はそれを丁寧に、落とさないように持っていた。


「泠蘭さまの茶碗の、欠片です」


     * * *


 風が止まった。


 憶華は自分の胸の奥に、何かが動くのを感じた。茶碗。白磁。欠片。


「……割れたのですか」


「割られたのです」


 顕明は欠片を見たまま言った。


「泠蘭さまがお隠れになった後、部屋の道具はすべて処分されました。記録と同じように。しかし——これだけは、拾いました。処分の場に居合わせたとき、足元に落ちていた」


「四十年、持ち続けていたのですか」


「持っていなければ、何も残らなかった」


 顕明の声は平らだった。感傷を押さえているのではなく、感傷の向こうに辿り着いた声だった。


     * * *


 憶華は、自分の部屋にある茶碗のことを思った。


 母から受け継いだと聞いた、あの小さな白磁の碗。晩蘅妃が初めて目にしたとき、手が止まった、あの茶碗。


「……顕明さま」


「何ですか」


「泠蘭さまの茶碗は——どのような形でしたか」


 顕明がゆっくりと顔を上げた。憶華を見た。初めて、まっすぐに。


「小さく、白く、縁が薄かった」


 一息おいた。


「蘭の絵が、入っていました。薄墨で、ごく細く」


 憶華の息が、止まった。


     * * *


 止まったことを、顕明は見ていた。見て、何も言わなかった。問わなかった。ただ、また欠片に目を落とした。


 憶華は声を出せなかった。


 蘭の絵。薄墨で、ごく細く。


 自分の部屋の棚に置かれた碗の縁を、指でなぞったことがある。そこに細い線がある。何かを描いたような、けれど摩耗してほとんど見えなくなった線が。


 あれが。


 頭の中で、何かが重なろうとしていた。重なりきらないまま、ぎりぎりのところで止まっていた。


「顕明さま」


 声が出た。思ったより落ち着いた声だった。


「わたしは——泠蘭さまの、何なのでしょうか」


 問いは、口から出た瞬間に、ずっと前からそこにあったものだとわかった。


 顕明は少し間を置いた。


「それは」


 静かに言った。


「わたしが答えることではありません」


     * * *


 その夜、憶華は晩蘅妃の部屋を訪ねた。夜に訪ねることは、これまでなかった。


 妃は驚いた様子を見せなかった。灯りの下で書物を読んでいて、憶華が入ると静かに閉じた。


「来るだろうと思っていました」


 憶華は部屋の中央に立ったまま、言った。


「茶碗を、見ていただけますか」


 持ってきた白磁の碗を、両手で差し出した。


 妃は立ち上がった。受け取らずに、ただ近づいて、灯りの下で見た。縁の細い線を、指でそっとなぞった。


 長い沈黙だった。


 妃が顔を上げた。その目に、憶華はこれまで見たことのないものを見た。悲しみとも、安堵とも、言い切れない何か。長い時間の重さが、一度に滲み出てくるような。


「妃さま」


 憶華は言った。


「わたしは、誰の子ですか」


 妃はすぐには答えなかった。


 答える代わりに、憶華の手ごと、碗を両手で包んだ。


 温かかった。

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