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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第2幕 追い、溢れ、零れる/第1章 追う

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第28話 「虚言」——誰が、最初に種を撒いたのか

 噂には、根がある。


 水のように広がるとしても、水は降らなければ流れない。誰かが雲を呼び、誰かが雨を降らせた。そういうことを、憶華は中庭から戻ってから、ずっと考えていた。


     * * *


 翌朝、憶華は顕明を探した。


 昨日のことを思い返すと、顕明は「消された」とだけ言って立ち去った。記録が消えたということ、意図があるということ——それだけを置いて。もう少し聞けたはずだったと、今になって思う。


 顕明は厨房の裏手の廊にいた。何かを確かめるように、壁に沿ってゆっくり歩いていた。


「また来ましたか」


 振り返らずに言った。来ることがわかっていたような声だった。


「昨日の話の続きを、聞かせていただけますか」


「何を聞きたいのですか」


「噂を流したのは、誰ですか」


 顕明が立ち止まった。壁を見たまま、少し考えるように間を置いた。


「なぜそれを聞きたいのですか」


「誰が種を撒いたかがわかれば、なぜ撒いたかがわかる。なぜ撒いたかがわかれば——何が本当かに、少し近づける気がして」


 顕明がゆっくりと振り返った。目が細くなった。


「よく考えましたね」


     * * *


 二人は廊の端に立ったまま、話した。


「噂を流したのは、一人ではありません」


 顕明が静かに言った。


「最初に流した者と、途中から乗った者と、意図せず広めた者と——少なくとも三層ある。あなたが聞いてきたような話は、最後の層です。悪意がなく、面白がっているだけの者たちの口を渡った話」


「では最初の層は」


「意図した者です」


「誰が」


 顕明はすぐには答えなかった。


「わたしには、確かなことは言えません」


 静かに、しかしはっきりと言った。


「ただ——泠蘭さまが消えたとき、最も得をした者が誰かを考えれば、絞られてくる」


「得をした者」


「妃の位が空いた。寵が空いた。記録が消えた。それで都合がよくなった者がいる」


 憶華は黙って聞いていた。


「ただしそれは推測です。証拠はない。証拠があれば、わたしはとうにここにいない」


      * * *


 風が廊を抜けた。遠くで水を運ぶ音がした。


「もう一つ、聞かせてください」


「何ですか」


「顕明さまは——泠蘭さまが消えたとき、何をされていましたか」


 顕明の顔が、わずかに変わった。変わった、というより——何かが通り過ぎた、という感じだった。


「何も、できませんでした」


 それだけだった。


 続きを語る気配はなかった。憶華も問い重ねなかった。その一言の中に、四十年分の何かが入っていることが、わかったから。


     * * *


 その日の夕方、憶華は晩蘅妃の部屋で茶を点てながら、今日聞いたことを飲み込んでいた。


 意図した者がいる。得をした者がいる。しかし証拠はない。


 妃は今日も静かだった。書物を読んでいる。風が入る。茶の湯気が立つ。


 ふと気になった。


 妃は——泠蘭が消えたとき、どこにいたのか。


 すぐに飲み込んだ。今は問えない、と思った。問うべき時がいつかあるとすれば、今ではない。


 ただ、妃の横顔を見ながら思った。


 この人もまた、何かを持ち続けている。噂の中には入らず、しかし噂の外にも立たず——どこか、噂と現実の境目のような場所に立っている。


「憶華」


 妃が突然、言った。


「はい」


「今日、顕明と話しましたね」


 憶華は驚かなかった。驚かないことに、もう慣れていた。


「はい」


「何を聞きましたか」


「……誰が噂を流したか、ということを」


「わかりましたか」


「わかりませんでした。確かなことは何も」


 妃が書物を閉じた。


「それが正直なところでしょう」


 静かに、しかし何かを確かめるように言った。


「確かなことは、何もない。それだけが、この話の本当のことです」


     * * *


 夜、憶華は今まで集めた断片を並べた。


 病死(表向き)。毒殺説。自死説。記録の抹消。意図した者。得をした者。そして——確かなことは何もない。


 断片は増えた。しかし像にはまだなっていない。


 ただ、一つのことが変わっていた。


 最初、憶華は泠蘭という人の死を追っていた。しかし今、追っているのは死だけではなかった。消し方を追っていた。消した者を追っていた。そして——なぜ消さなければならなかったほど、その人は何かを持っていたのかを、追っていた。


 泠蘭という人は、消されるほどの何者かだった。


 その事実だけが、今夜の暗闇の中で、静かに光っていた。

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