第27話 「三説」 ——泠蘭の名前を、初めて老宦官が口にした
老宦官の名は、顕明といった。
後宮に四十年いる、と誰かから聞いたことがある。四十年という時間の重さを、憶華はうまく想像できなかった。ただ、その人が歩くとき、廊の石が少し沈むような気がした。それだけの年数が、足の裏に染み込んでいるのだと思った。
* * *
声をかけられたのは、中庭の端だった。
憶華が水桶を運んでいると、木陰の縁台に顕明が座っていた。こちらを見ていた。ただ座って、見ていた。それだけなのに、足が自然に止まった。
「少し、置きなさい」
逃げることも、通り過ぎることも、なぜかできなかった。桶を地面に置いた。
「あなたが憶華ですね」
「はい」
「晩蘅妃さまのところの」
「はい」
顕明は目を細めた。深い皺の中で、目が光っていた。品定めをしているのでも、試しているのでもない。何か別のものを、ただ確かめている目だった。
「泠蘭さまのことを、調べているそうですね」
憶華は息を詰めた。
「……調べている、というほどのことは」
「耳を立てている、と言い換えてもよい」
顕明は静かに言った。責めている様子はなかった。
「隠すことはありません。この後宮で耳を立てれば、いつかわたしのところに届く。そういうものです」
* * *
顕明は縁台の横を手で示した。座れということらしかった。憶華は少し迷ってから、端に腰を下ろした。
「泠蘭さまについて、あなたはどこまで聞きましたか」
「……毒殺という話と、自ら死を選んだという話を」
「そして、晩蘅妃さまがそのどちらも否定した」
憶華は顕明の顔を見た。顕明は正面の木を見ていた。
「妃さまから聞いたのですか」
「いいえ。ただ、そうなるだろうと思っていました」
老宦官は少し間を置いた。
「では、三つ目の話をしましょう」
風が木の葉を揺らした。遠くで鳥が鳴いた。
「泠蘭さまは、消されたのです」
* * *
憶華は黙っていた。
消された、という言葉は、毒殺とも自死とも違う温度を持っていた。毒殺は一人の手を指す。自死は一人の意志を指す。しかし消された、という言葉は——誰の手とも言わず、ただ結果だけを語る。
「消された、とは」
「記録から、です」
顕明がゆっくりと言った。
「泠蘭さまは、おられた。確かに、この後宮に。しかし今、その痕跡はほとんどない。名前を記した文書も、肖像も、仕えていた者たちの証言も——きれいに、なくなっている」
「死んだから、では」
「死んだ者の痕跡がこれほど綺麗に消えることは、普通はない」
顕明は初めて憶華の方を向いた。
「誰かが、意図して消した。それだけは確かです」
* * *
しばらく、二人とも黙っていた。
木漏れ日が縁台の上を動いた。顕明の手の甲に、老いた静脈が浮いていた。
「なぜ、わたしにそれを話してくださるのですか」
憶華はようやく、その問いを口にした。
顕明はすぐには答えなかった。木の葉が揺れるのを見ていた。
「わたしは四十年、ここにいました」
ゆっくりと言った。
「泠蘭さまのことも、知っていました。直接お仕えしたわけではない。しかし、おられた。笑われた。話された。そういうことを、知っている」
一息ついた。
「知っている者が黙り続けると、その人はほんとうに消えてしまう。記録からだけでなく、誰かの記憶からも」
顕明は立ち上がった。膝に手をついて、ゆっくりと。
「あなたが何者かは、わたしには関係ない。ただ、泠蘭さまのことを知りたいと思う者が一人いる。それで十分です」
老宦官は縁台を離れ、廊の方へ歩いていった。足音は静かだった。
* * *
憶華は一人、中庭に残った。
消された。記録から。意図して。
毒でも自死でもない、という妃の言葉と、今の話が重なった。泠蘭という人の死そのものよりも、その後に起きたことの方が、ずっと大きな何かを示している気がした。
誰かが、この人を消そうとした。
しかし完全には消えなかった。顕明のような人の記憶の中に、珠英のような人の何気ない言葉の中に、廊の気配の中に——断片が残った。水のように形を変えながら、それでも流れ続けた。
泠蘭さまは、おられた。笑われた。話された。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
憶華は水桶を持って立ち上がった。
空は高く、雲が遠かった。




