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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第2幕 追い、溢れ、零れる/第1章 追う

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第26話 「二説」——晩蘅妃が、珍しく先に口を開いた

 晩蘅妃が、珍しく先に口を開いた。


    * * *


 その日の朝、憶華はいつもより早く妃の部屋に入った。

 茶の支度をしながら、何も話すつもりはなかった。

 話せることが何もないというより、話し方がわからなかった。三日かけて集めた断片——毒殺、世継ぎ、子ども——を、妃の前でどう並べればよいのか、見当がつかなかった。


 だから黙っていた。


 妃も黙っていた。


 窓から朝の光が入る。茶碗に湯が落ちる音だけが、部屋を満たしていた。


 しばらくして、妃が言った。


「憶華」


「はい」


「最近、よく耳を立てているようですね」


 憶華は手を止めなかった。止めないように、努めた。


「……お気づきでしたか」


「気づかないと思っていましたか」


 妃の声に棘はなかった。責めているのでも、咎めているのでもない。ただ確かめている、という静けさだった。


「いいえ」と憶華は言った。「気づいておられると思っていました」


「そうですか」


 妃が茶碗を受け取った。一口飲んで、膝の上に置く。


「泠蘭について、いくつかの話が出回っているのを聞きましたか」


「……はい」


「毒殺という話と、自ら死を選んだという話と」


 憶華は頷いた。


「どちらが本当だと思いますか」


 問いが、部屋の中に落ちた。


 憶華は少し考えてから、答えた。


「わかりません。どちらも、誰かの恐れが形を変えたものかもしれない、と——妃さまが以前おっしゃっていたことを、思い出しておりました」


 妃がわずかに目を細めた。


「よく覚えていますね」


「忘れられませんでした」


     * * *


 沈黙があった。長い沈黙ではなかったが、密度のある間だった。


 妃が口を開いた。


「一つだけ、話しましょう」


 憶華は息を止めた。


「泠蘭は、毒で死んだのではありません」


 それだけだった。


 それだけ言って、妃は窓の外に目を向けた。続きを話す気配はなかった。話す気があれば、もう少し言葉を重ねるはずだった。この言葉だけを選んで口にしたということは、この言葉が妃の渡せる限界だということを、憶華はなんとなく理解した。


「……では」と憶華は、慎重に言葉を選んだ。「自ら、ということでしょうか」


「それも違います」


 またひと言。


 憶華は次の問いを飲み込んだ。飲み込んで、代わりに茶の支度を続けた。問い続けることが、今この場で許されていることなのかどうか、測りかねたから。


     * * *


 茶の支度が終わって、憶華が部屋を出ようとしたとき、妃が後ろから言った。


「憶華」


「はい」


「あなたが知りたいことは、時間をかければ、いつか辿り着くでしょう」


 振り返ると、妃は窓の外を見ていた。こちらを向かなかった。


「ただ——辿り着いたとき、あなたが何を感じるか。それだけが、わたしには少し、心配です」


 憶華は何も言えなかった。


 お辞儀をして、部屋を出た。


     * * *


 廊を歩きながら、妃の言葉を繰り返した。


 毒ではない。自らでもない。


 では、何なのか。


 病死という最初の言葉が、今は最も遠いところにあった。毒でも自死でもなく、しかし病死でもない何かが、泠蘭という人の最期にはあった。


 それが何なのかを、妃は知っていて、言わなかった。言えない理由があるのか、言う時ではないと判断しているのか——どちらかはわからない。


 辿り着いたとき、あなたが何を感じるか。


 妃の心配の意味が、憶華にはまだ見えなかった。


 ただ、心配という言葉が、胸の中でひっかかったまま離れなかった。

 それは責めでも警告でもなく、もっと近い温度の何かだった。


 光の中を歩いた。廊は静かだった。

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