表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第2幕 追い、溢れ、零れる/第1章 追う

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/30

第25話 「変質」——噂は、通るたびに別の形になる

 同じ話を、三度聞いた。


 三度とも違う話だった。


     * * *


 最初は、下女の口から聞いた。


 名前も知らない下女で、厨房の隅で壺を磨きながら、仲間の女と話していた。憶華は水を運ぶふりをして、その横を通り過ぎた。


「……泠蘭さまは、お世継ぎを産もうとしていたんですって」


「知ってる。だから邪魔をされたって話でしょ」


「そう。だから毒を。誰かが——」


 声が落ちて、聞こえなくなった。


 憶華は廊の角を曲がってから、立ち止まった。


 世継ぎ。


 それは昨日の話にはなかった言葉だった。昨日聞いたのは、毒殺という事実の輪郭だけだった。今日はそこに、理由が加わっていた。世継ぎを産もうとしていた——だから殺された、という筋書きが。


 話に、骨が生えていた。


      * * *


 二度目は、昼過ぎの物置で聞いた。


 棚から布を取り出していると、向こうの棚の陰で声がした。女官ではなく、年嵩の宦官の声だった。


「……泠蘭さまは、ご自分で飲んだというお話もある」


「自分で?」


「追い詰められていたのだ、と。世継ぎを望まれたが、叶わなかった。それで——」


「それは、また別の話ではないですか」


「そうとも言える。しかし、よく似た話が二つあれば、どちらかは本当かもしれない」


 布を取り終えた憶華は、足音を立てないように物置を出た。


 廊に出てから、息をゆっくりと吐いた。


 今度は、毒を盛られたのではなく、自分で飲んだという話だった。理由は同じ——世継ぎ——だが、方向が逆になっていた。殺された者から、死を選んだ者へ。


 話が枝分かれしていた。


     * * *


 三度目は、夕暮れの井戸端だった。


 珠英がいた。昨日毒殺説を教えてくれた、あの女官だ。珠英は別の女官と話していて、憶華が近づいたことに気づくと、少し顔色を変えた。


「憶華。聞いてた?」


「いいえ、水を汲みに来ただけです」


「そう」


 珠英は少し間を置いてから、また話し始めた。今度は声を低くしなかった。


「さっき話してたんだけどね。泠蘭さまって、子どもがいたって聞いたことがある?」


 憶華の手が、つるべの上で止まった。


「……いいえ」


「あたしも確かなことは知らないの。でも、そういう話もあるって」


「子どもが、いた」


「産まれた、とも、産まれなかった、とも言われていて。そこはわからないんだけど」


 珠英の声はいつも通り、気軽だった。重さを感じていないのか、重さに慣れているのか、どちらかわからない。


「ただ、もし子どもが産まれていたなら——その子は今どこにいるのかな、って思って」


     * * *


 夜、憶華は灯りも点けずに部屋にいた。


 三つの話を並べてみた。


 一つ目——泠蘭は世継ぎを産もうとしていた。だから誰かに毒を盛られた。


 二つ目——泠蘭は世継ぎを望んだが叶わなかった。追い詰められて、自分で死を選んだ。


 三つ目——泠蘭には子どもがいた。あるいは、いなかった。その子は今どこかにいる、かもしれない。


 三つはどれも、最初の「病死」という言葉とは遠かった。そして三つとも、互いに矛盾していた。全部が本当ということはない。全部が嘘という可能性も、捨てきれなかった。


 話は通るたびに形を変える。


 最初に誰かの口から出たとき、それは何だったのか。事実の欠片だったのか。それとも、誰かが意図して流した種だったのか。種が水に溶けて、後宮の土に染み込んで、十七年かけて変質した何かが今も流れている——そういうことなのか。


 もし子どもがいたなら。


 珠英の言葉が、部屋の暗がりに浮かんだ。


 もし、と憶華は思った。もし、子どもがいたなら。その子は今どこにいるのか。


 答えは出なかった。出るはずがなかった。


 ただ、問いの形が、少し変わった気がした。


 泠蘭という人の死を追うことと、その人の生を探すことが、今夜初めて同じ方向を向いた。

                (約2,000字)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ