第25話 「変質」——噂は、通るたびに別の形になる
同じ話を、三度聞いた。
三度とも違う話だった。
* * *
最初は、下女の口から聞いた。
名前も知らない下女で、厨房の隅で壺を磨きながら、仲間の女と話していた。憶華は水を運ぶふりをして、その横を通り過ぎた。
「……泠蘭さまは、お世継ぎを産もうとしていたんですって」
「知ってる。だから邪魔をされたって話でしょ」
「そう。だから毒を。誰かが——」
声が落ちて、聞こえなくなった。
憶華は廊の角を曲がってから、立ち止まった。
世継ぎ。
それは昨日の話にはなかった言葉だった。昨日聞いたのは、毒殺という事実の輪郭だけだった。今日はそこに、理由が加わっていた。世継ぎを産もうとしていた——だから殺された、という筋書きが。
話に、骨が生えていた。
* * *
二度目は、昼過ぎの物置で聞いた。
棚から布を取り出していると、向こうの棚の陰で声がした。女官ではなく、年嵩の宦官の声だった。
「……泠蘭さまは、ご自分で飲んだというお話もある」
「自分で?」
「追い詰められていたのだ、と。世継ぎを望まれたが、叶わなかった。それで——」
「それは、また別の話ではないですか」
「そうとも言える。しかし、よく似た話が二つあれば、どちらかは本当かもしれない」
布を取り終えた憶華は、足音を立てないように物置を出た。
廊に出てから、息をゆっくりと吐いた。
今度は、毒を盛られたのではなく、自分で飲んだという話だった。理由は同じ——世継ぎ——だが、方向が逆になっていた。殺された者から、死を選んだ者へ。
話が枝分かれしていた。
* * *
三度目は、夕暮れの井戸端だった。
珠英がいた。昨日毒殺説を教えてくれた、あの女官だ。珠英は別の女官と話していて、憶華が近づいたことに気づくと、少し顔色を変えた。
「憶華。聞いてた?」
「いいえ、水を汲みに来ただけです」
「そう」
珠英は少し間を置いてから、また話し始めた。今度は声を低くしなかった。
「さっき話してたんだけどね。泠蘭さまって、子どもがいたって聞いたことがある?」
憶華の手が、つるべの上で止まった。
「……いいえ」
「あたしも確かなことは知らないの。でも、そういう話もあるって」
「子どもが、いた」
「産まれた、とも、産まれなかった、とも言われていて。そこはわからないんだけど」
珠英の声はいつも通り、気軽だった。重さを感じていないのか、重さに慣れているのか、どちらかわからない。
「ただ、もし子どもが産まれていたなら——その子は今どこにいるのかな、って思って」
* * *
夜、憶華は灯りも点けずに部屋にいた。
三つの話を並べてみた。
一つ目——泠蘭は世継ぎを産もうとしていた。だから誰かに毒を盛られた。
二つ目——泠蘭は世継ぎを望んだが叶わなかった。追い詰められて、自分で死を選んだ。
三つ目——泠蘭には子どもがいた。あるいは、いなかった。その子は今どこかにいる、かもしれない。
三つはどれも、最初の「病死」という言葉とは遠かった。そして三つとも、互いに矛盾していた。全部が本当ということはない。全部が嘘という可能性も、捨てきれなかった。
話は通るたびに形を変える。
最初に誰かの口から出たとき、それは何だったのか。事実の欠片だったのか。それとも、誰かが意図して流した種だったのか。種が水に溶けて、後宮の土に染み込んで、十七年かけて変質した何かが今も流れている——そういうことなのか。
もし子どもがいたなら。
珠英の言葉が、部屋の暗がりに浮かんだ。
もし、と憶華は思った。もし、子どもがいたなら。その子は今どこにいるのか。
答えは出なかった。出るはずがなかった。
ただ、問いの形が、少し変わった気がした。
泠蘭という人の死を追うことと、その人の生を探すことが、今夜初めて同じ方向を向いた。
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