第24話 「一説」 ——毒殺された、と言う者がいる
話は、水のように広がる。
誰が最初に言ったのかわからない。言葉というものは、口から口へ渡るたびに形を変え、源を失い、いつの間にか「もともとそういうものだった」という顔をして後宮を漂う。
憶華がそれを知ったのは、洗い場でのことだった。
* * *
朝の洗い場は騒がしい。盥の水音、布を叩く音、笑い声と小言が入り交じる。憶華は壁際で絹地を絞りながら、隣の女官の背中を見ていた。
珠英という名の女官だった。年は憶華より五つほど上で、物事をよく知っていて、よく話す。悪意はないが、聞いたことをそのまま流す性質があった。
「ねえ、憶華。聞いた?」
珠英が振り返らずに言った。
「何をですか」
「泠蘭さまのことよ」
憶華の手が、絹の中で止まった。止まったことを悟られないよう、すぐに動かし直す。
「……どんなことですか」
「毒殺されたって言う人がいるのよ」
珠英の声は低かったが、洗い場の水音がうまく掻き消してくれた。周囲の女官たちは聞いているのか聞いていないのか、それぞれの手を動かしている。
「毒を盛ったのは誰だ、って話になってね。ある人は、皇后さまだって言う。別の人は、宦官の長が関わっていたって言う。どっちにしても、誰かが意図的にやったっていう話なの」
「……誰がそう言っているのですか」
「それがわからないのよね。気づいたらそういう話になってたから」
珠英は特に気にした様子もなく、手の布をまた水に沈めた。
「でも、ほんとうかどうかはわからないわ。昔のことだもの。あたしはただ、そういう話があるってことを話してるだけ」
* * *
その日の夕方、憶華は厨房の裏手で水を汲みながら、さっきの話を頭の中で転がした。
毒殺。
その言葉は重かった。病死という言葉より、ずっと重かった。病死は装置の話だ——誰も殺していないが、誰も助けなかった。しかし毒殺は違う。毒殺には、意図がある。手がある。選んだ者がいる。
本当だろうか。
憶華には判断できなかった。判断するための材料がなかった。ただ、その言葉を飲み込んだまま、夕暮れの空を見上げた。空は赤く、遠く、何も答えない。
一つのことだけは確かだと思った。
この後宮では、死んだ人の話は消えない。十七年経っても、どこかで息をしている。形を変えながら、人の口から口へ、水のように流れていく。
* * *
翌朝、廊で別の声を聞いた。
今度は偶然ではなかった。憶華は意図して、耳を立てていた。廊の角に立ち、物音に紛れながら、流れてくる言葉を待った。
宦官が二人、足早に歩きながら話していた。
「……泠蘭妃のことだが」
「ああ。また出回っているのか」
「毒という話だ。皇后さまが——という筋と、あの宦官が——という筋と、どちらも根拠はない。だが面白がる者がいる」
「消えない話というのは、必ずそういうものだ。面白いから残る。真実だから残るのではない」
もう一人の宦官が、低い声で言った。
「面白がるのは構わない。ただ、晩蘅妃さまのお耳に入れば、また面倒なことになる」
「わかっている」
足音が遠ざかった。
* * *
憶華は壁に背を預けたまま、しばらく考えた。
面白いから残る。真実だから残るのではない。
その言葉は、何かを解放するようでいて、何かを余計に重くした。毒殺という説が真実かどうかはわからない。しかし真実でないとも言い切れない。どちらの可能性も、今の憶華には確かめる術がなかった。
ただわかるのは、この話がいまも後宮の中を流れているということ。誰かが意図して流しているのか、それとも自然に漂っているのか——それすら、憶華には見えなかった。
晩蘅妃の「今は、まだ早い」という言葉が、また耳の底に戻ってきた。
妃は、毒殺という説を知っているだろうか。おそらく、知っている。知っていて、何も言わなかった。
なぜ。
問いはまた増えた。答えは一つも減らなかった。
* * *
夜、憶華は自分の部屋の暗闇の中で、膝を抱えていた。
毒殺された、と言う者がいる。
その「者」は誰なのか。なぜ今も語り続けるのか。語ることで、何かを守ろうとしているのか。あるいは、何かを壊そうとしているのか。
泠蘭という人は、どのように死んだのか。
どのように生きたのか。
憶華はまだ、その人の顔を知らない。声も知らない。ただ名前と、いくつかの断片だけを知っている。回廊の気配。蘭の香。茶器。十七年という時間。そして今日新たに加わった、毒という言葉。
断片は増えていくが、像にならない。
像にならないまま、その人はどこかで息をしている——後宮という場所の記憶の中に、かたちを持たないまま、漂い続けている。
夜が深くなった。回廊は静かだった。今夜は足音がしなかった。
それが、なぜかかえって寂しかった。




