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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第2幕 追い、溢れ、零れる/第1章 追う

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第23話 「聴噂」——母の死を、誰かが知っている

 回廊の掃除は、夜明け前に始まる。


 蝋燭の残り香と湿った石の匂いが混じる時間帯、憶華イーファは廊の隅から隅へ刷毛を走らせながら、耳だけを醒ましていた。後宮に来て最初に覚えたのは礼の作法でも歩き方でもなく、聴くことだった。声を立てずに、息を詰めるようにして、流れる言葉の欠片を拾い集める技術。


 今朝も、誰かが話していた。


 廊の角の向こう、女官が二人、足を止めている。声を抑えているようで、しかし石の壁が音を反射させる。夜明けの回廊はそういう場所だ——声を隠しているつもりで、かえって届く。


「......ご存知ですか。あの晩蘅妃さまのところの、新しい子」


「憶華という子でしょう。茶を点てるのが上手いと聞きました」


「それだけではないのです」


 女官の声が、一段低くなった。


「あの子の顔を、ご覧になりましたか。以前いた方に——とても、似ているのだそうで」


 刷毛を動かす手が、一瞬だけ止まった。


 憶華は気づかれないよう、ゆっくりと石の壁に近づいた。聴こえる、聴こえる。


「以前いた方、とは」


「......泠蘭さまのことです」


 その名前を口にするとき、女官は声をさらに小さくした。まるで名前そのものが危険であるかのように。あるいは、名前を呼ぶことが何かを呼び覚ますかのように。


「泠蘭さま。お亡くなりになって、もう——」


「もう十七年ほど前になりましょうか。あの方がお隠れになったのは」


 十七年。


 憶華は胸の中で、その数字を転がした。自分の年齢と重ねて、何かを確かめようとして、やめた。


「泠蘭さまのことは、あまり話すものではありませんよ」


「ええ、ええ、わかっております。ただ——あの子の出自が、少し気になって」


「出自とは」


「どこから来たのかということです。晩蘅妃さまが急に引き上げたでしょう。街から来た下女だという話もあれば、どこかの商家の出だという話もある。でも、誰も確かなことを知らない」


「知らなくて当然でしょう。妃さまが詮索を好まれないことは、皆が知っているのですから」


「そうですね。ただ......」


 また、声が低くなった。


「泠蘭さまのお亡くなりになった理由について、ご存知ですか」


 沈黙があった。長い沈黙。


「病死と聞いております」


「そうです、表向きは。でも——」


「もうよしなさい」


 もう一人の女官が、きっぱりと遮った。声に棘はなかったが、有無を言わせない静けさがあった。


「あの方のことを掘り返しても、誰も得をしません。晩蘅妃さまのお耳に入れば、それだけで終わりです。それ以上は、いけません」


「......はい」


「参りましょう」


 足音が遠ざかった。


     * * *


 憶華は壁に手をついたまま、しばらく動けなかった。


 刷毛が手の中にある。石の冷たさが手のひらに伝わる。どこかで鳥が鳴いている。夜明けが近い。


 泠蘭。


 その名前を自分の中で繰り返した。以前から知っていた名前——晩蘅妃の口から初めて聞いたあの日から、何度か耳にしてきた名前。でも、それについて話す者はいつもどこかで言葉を飲み込んだ。話すことを、恐れていた。あるいは話すことを禁じられていた。


 泠蘭という人が、ここにいた。


 この回廊を歩いた。この廊の空気を吸った。そして十七年前に——何かがあって——消えた。


 病死。


 表向きは。


 女官はそう言って言葉を止めた。でも、と続けようとして、止められた。その「でも」の先に何があるのか、憶華には知る術がない。知る術がない、と今は思う。


 だが、誰かが知っている。


 そのことだけは、確かだった。この後宮のどこかに、泠蘭という人の死について知っている者がいる。話せない理由がある者が。話したくない理由を持つ者が。


 刷毛を動かし始めた。夜明けの光が石の床に滑り込んでくる。


 母の死を、誰かが知っている。


 その考えが頭の中に入り込んできたとき、憶華は自分でも気づかないまま、「母の」という言葉を使っていた。


     * * *


 その日の午後、晩蘅妃の部屋で茶を点てながら、憶華は妃の横顔を盗み見た。


 妃は書物に目を落としていた。光が窓から差し込んで、妃の輪郭を淡く縁取る。


 この人は、知っているだろうか。泠蘭の死について。あの女官が途中で飲み込んだ「でも」の先を。


 茶碗を置く音が、小さく響いた。


「......憶華」


 妃が顔を上げずに呼んだ。


「はい」


「今朝、廊で何かを聞きましたか」


 憶華の手が、止まった。


 妃はまだ書物を見ている。顔を上げない。でも、知っている。この人はいつも、知っている。


「......少しだけ」


「そうですか」


 妃が書物を閉じた。膝の上に置いて、ゆっくりと窓の外に目を向ける。


「この後宮では、様々なことが言われます。昔のことも、今のことも。その多くは、半分しか正しくない。残りの半分は——語る者の恐れが形を変えたものです」


「......はい」


「あなたが何かを知りたいと思うのは、当然のことです」


 妃の声に、珍しく何かが混じっていた。惜しむような、あるいは詫びるような、どちらとも言い切れない温度。


「ただ——今は、まだ早い」


 その一言が、静かに部屋に落ちた。


 今は、まだ早い。


 それはどういう意味か。いつになれば、早くなくなるのか。そもそも妃は何を知っていて、何を言わないでいるのか。


 憶華は問えなかった。問うことが許されているのかどうか、わからなかったから。


 ただ頷いて、次の茶碗を手に取った。


     * * *


 夜、部屋に戻ってから、憶華は窓の外の暗闇を眺めた。


 泠蘭という名前の人がいた。ここで生きて、ここで死んだ。十七年前に。そして誰もその死をまっすぐに語らない。


 自分はなぜ、その人に似ているのか。


 晩蘅妃はなぜ、自分を引き上げたのか。


 あの茶器——母から受け継いだと聞いた、あの小さな白磁の碗——は、なぜ妃の手が止まるほど、見知ったものだったのか。


 問いが増えるばかりで、一つも答えがない。


 でも、と思う。


 誰かが知っている。それだけは、確かだ。


 夜の後宮はしんと静まっていた。回廊のどこかで足音がした。一つ、二つ——いや、気のせいかもしれない。


 憶華は目を閉じた。明日もまた、耳を醒ましていよう。


 聴くことだけが、今の自分にできることだから。

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