第23話 「聴噂」——母の死を、誰かが知っている
回廊の掃除は、夜明け前に始まる。
蝋燭の残り香と湿った石の匂いが混じる時間帯、憶華は廊の隅から隅へ刷毛を走らせながら、耳だけを醒ましていた。後宮に来て最初に覚えたのは礼の作法でも歩き方でもなく、聴くことだった。声を立てずに、息を詰めるようにして、流れる言葉の欠片を拾い集める技術。
今朝も、誰かが話していた。
廊の角の向こう、女官が二人、足を止めている。声を抑えているようで、しかし石の壁が音を反射させる。夜明けの回廊はそういう場所だ——声を隠しているつもりで、かえって届く。
「......ご存知ですか。あの晩蘅妃さまのところの、新しい子」
「憶華という子でしょう。茶を点てるのが上手いと聞きました」
「それだけではないのです」
女官の声が、一段低くなった。
「あの子の顔を、ご覧になりましたか。以前いた方に——とても、似ているのだそうで」
刷毛を動かす手が、一瞬だけ止まった。
憶華は気づかれないよう、ゆっくりと石の壁に近づいた。聴こえる、聴こえる。
「以前いた方、とは」
「......泠蘭さまのことです」
その名前を口にするとき、女官は声をさらに小さくした。まるで名前そのものが危険であるかのように。あるいは、名前を呼ぶことが何かを呼び覚ますかのように。
「泠蘭さま。お亡くなりになって、もう——」
「もう十七年ほど前になりましょうか。あの方がお隠れになったのは」
十七年。
憶華は胸の中で、その数字を転がした。自分の年齢と重ねて、何かを確かめようとして、やめた。
「泠蘭さまのことは、あまり話すものではありませんよ」
「ええ、ええ、わかっております。ただ——あの子の出自が、少し気になって」
「出自とは」
「どこから来たのかということです。晩蘅妃さまが急に引き上げたでしょう。街から来た下女だという話もあれば、どこかの商家の出だという話もある。でも、誰も確かなことを知らない」
「知らなくて当然でしょう。妃さまが詮索を好まれないことは、皆が知っているのですから」
「そうですね。ただ......」
また、声が低くなった。
「泠蘭さまのお亡くなりになった理由について、ご存知ですか」
沈黙があった。長い沈黙。
「病死と聞いております」
「そうです、表向きは。でも——」
「もうよしなさい」
もう一人の女官が、きっぱりと遮った。声に棘はなかったが、有無を言わせない静けさがあった。
「あの方のことを掘り返しても、誰も得をしません。晩蘅妃さまのお耳に入れば、それだけで終わりです。それ以上は、いけません」
「......はい」
「参りましょう」
足音が遠ざかった。
* * *
憶華は壁に手をついたまま、しばらく動けなかった。
刷毛が手の中にある。石の冷たさが手のひらに伝わる。どこかで鳥が鳴いている。夜明けが近い。
泠蘭。
その名前を自分の中で繰り返した。以前から知っていた名前——晩蘅妃の口から初めて聞いたあの日から、何度か耳にしてきた名前。でも、それについて話す者はいつもどこかで言葉を飲み込んだ。話すことを、恐れていた。あるいは話すことを禁じられていた。
泠蘭という人が、ここにいた。
この回廊を歩いた。この廊の空気を吸った。そして十七年前に——何かがあって——消えた。
病死。
表向きは。
女官はそう言って言葉を止めた。でも、と続けようとして、止められた。その「でも」の先に何があるのか、憶華には知る術がない。知る術がない、と今は思う。
だが、誰かが知っている。
そのことだけは、確かだった。この後宮のどこかに、泠蘭という人の死について知っている者がいる。話せない理由がある者が。話したくない理由を持つ者が。
刷毛を動かし始めた。夜明けの光が石の床に滑り込んでくる。
母の死を、誰かが知っている。
その考えが頭の中に入り込んできたとき、憶華は自分でも気づかないまま、「母の」という言葉を使っていた。
* * *
その日の午後、晩蘅妃の部屋で茶を点てながら、憶華は妃の横顔を盗み見た。
妃は書物に目を落としていた。光が窓から差し込んで、妃の輪郭を淡く縁取る。
この人は、知っているだろうか。泠蘭の死について。あの女官が途中で飲み込んだ「でも」の先を。
茶碗を置く音が、小さく響いた。
「......憶華」
妃が顔を上げずに呼んだ。
「はい」
「今朝、廊で何かを聞きましたか」
憶華の手が、止まった。
妃はまだ書物を見ている。顔を上げない。でも、知っている。この人はいつも、知っている。
「......少しだけ」
「そうですか」
妃が書物を閉じた。膝の上に置いて、ゆっくりと窓の外に目を向ける。
「この後宮では、様々なことが言われます。昔のことも、今のことも。その多くは、半分しか正しくない。残りの半分は——語る者の恐れが形を変えたものです」
「......はい」
「あなたが何かを知りたいと思うのは、当然のことです」
妃の声に、珍しく何かが混じっていた。惜しむような、あるいは詫びるような、どちらとも言い切れない温度。
「ただ——今は、まだ早い」
その一言が、静かに部屋に落ちた。
今は、まだ早い。
それはどういう意味か。いつになれば、早くなくなるのか。そもそも妃は何を知っていて、何を言わないでいるのか。
憶華は問えなかった。問うことが許されているのかどうか、わからなかったから。
ただ頷いて、次の茶碗を手に取った。
* * *
夜、部屋に戻ってから、憶華は窓の外の暗闇を眺めた。
泠蘭という名前の人がいた。ここで生きて、ここで死んだ。十七年前に。そして誰もその死をまっすぐに語らない。
自分はなぜ、その人に似ているのか。
晩蘅妃はなぜ、自分を引き上げたのか。
あの茶器——母から受け継いだと聞いた、あの小さな白磁の碗——は、なぜ妃の手が止まるほど、見知ったものだったのか。
問いが増えるばかりで、一つも答えがない。
でも、と思う。
誰かが知っている。それだけは、確かだ。
夜の後宮はしんと静まっていた。回廊のどこかで足音がした。一つ、二つ——いや、気のせいかもしれない。
憶華は目を閉じた。明日もまた、耳を醒ましていよう。
聴くことだけが、今の自分にできることだから。




