第30話 「無罪」——妃が、初めて泠蘭の名を声に出した
碗を包む手が、温かかった。
憶華はその温度の中で、動けなかった。動かなかった。妃の手が碗ごと自分の手を包んでいる。灯りが揺れている。部屋は静かだった。
やがて妃が、手を離した。碗を憶華に返した。そして、椅子に戻った。
憶華も動かなかった。
妃が口を開くまで、待った。
* * *
「泠蘭は」
妃が言った。
その名前が、妃の口から出た。これまで憶華の前で、妃はその名を直接呼んだことがなかった。いつも「あの方」か「その人」か、あるいは何も言わずに沈黙だけを置いた。
名前が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。
「泠蘭は、病でも毒でも、自らの意志でも、死んだのではありません」
妃は正面を向いていた。憶華ではなく、部屋の奥の暗がりを見ていた。
「産褥で、逝きました」
* * *
産褥。
その言葉は静かだった。爆発するわけでも、崩れるわけでも、なかった。ただ、ゆっくりと、憶華の胸の中に降りてきた。
「子どもを産んで」と憶華は言った。声が出た。「——逝った」
「はい」
「その子どもが」
「あなたです」
* * *
沈黙があった。
憶華は碗を持ったまま立っていた。手の中の白磁が、急に重くなった気がした。重くなったのではなく、重さを初めて感じた、というべきかもしれない。
「わたしは——」
声が出た。どこから出たのかわからなかった。
「泠蘭さまの、子」
「そうです」
妃の声は揺れなかった。揺れないように、長い時間をかけて準備してきた声だった。
「あなたが産まれたとき、泠蘭はもう意識がなかった。わたしは傍にいました。産まれた子を見て、泠蘭に告げようとして——告げられなかった」
一息ついた。
「あなたを抱いたのは、わたしが最初です」
* * *
憶華は何も言えなかった。
言葉が見つからないのではなく、言葉より先に何かが来ていた。名前のない何かが、胸の奥から喉の手前まで来て、そこで止まっていた。
妃が続けた。
「泠蘭の死後、記録は消されました。子どもの存在も、消されました。あなたを後宮の外に出したのは——ここにいれば、同じように消されると思ったから」
「妃さまが」
「はい」
「わたしを、逃がした」
「逃がした、というより——預けた。いつか返せると思って」
妃の目が、初めて憶華を正面から見た。
「返せるときが来るまで、あなたが無事でいてくれることだけを、十七年、思っていました」
* * *
しばらく、二人とも黙っていた。
灯りが揺れた。外で風が鳴った。回廊のどこかで、かすかな足音がした——一つ、二つ。今夜は気のせいではないかもしれない、と憶華は思った。
「泠蘭さまは」
憶華はようやく言った。
「どんな人でしたか」
妃が少し、目を細めた。
「笑う人でした」
静かに言った。
「よく笑って、よく話して、茶を点てるのが好きで——あの碗を、とても大切にしていた」
一息ついた。
「あなたに、よく似ています」
* * *
憶華は碗を見た。
蘭の絵。薄墨で、ごく細く。摩耗してほとんど見えなくなっていたけれど、確かにそこにある。
この碗を持っていた手があった。この碗で茶を点てた人がいた。笑って、話して、そして——子どもを産んで、逝った。
その人を、憶華は知らない。声も顔も知らない。ただ、この碗だけが、繋いでいた。
泠蘭。
初めて、その名前を自分のものとして、胸の中で呼んだ。
誰かが消そうとした。しかし消えなかった。欠片が残った。記憶が残った。碗が残った。そして——子どもが残った。
無罪だ、と憶華は思った。
意味のない言葉かもしれない。誰かを赦すわけでも、何かを裁くわけでも、ない。ただ——泠蘭という人は、何も悪いことをしていなかった。生きて、笑って、産んで、逝った。それだけだった。
それだけのことが、消されようとした。
消えなかった。
* * *
憶華は碗を胸に抱いた。
妃がそれを見ていた。何も言わなかった。言葉はもう、必要なかった。
灯りの下で、二人はしばらく、ただそこにいた。
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