↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第2幕 追い、溢れ、零れる/第1章 追う

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/31

第30話 「無罪」——妃が、初めて泠蘭の名を声に出した

 碗を包む手が、温かかった。


 憶華はその温度の中で、動けなかった。動かなかった。妃の手が碗ごと自分の手を包んでいる。灯りが揺れている。部屋は静かだった。


 やがて妃が、手を離した。碗を憶華に返した。そして、椅子に戻った。


 憶華も動かなかった。


 妃が口を開くまで、待った。


     * * *


「泠蘭は」


 妃が言った。


 その名前が、妃の口から出た。これまで憶華の前で、妃はその名を直接呼んだことがなかった。いつも「あの方」か「その人」か、あるいは何も言わずに沈黙だけを置いた。


 名前が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。


「泠蘭は、病でも毒でも、自らの意志でも、死んだのではありません」


 妃は正面を向いていた。憶華ではなく、部屋の奥の暗がりを見ていた。


「産褥で、逝きました」


     * * *


 産褥。


 その言葉は静かだった。爆発するわけでも、崩れるわけでも、なかった。ただ、ゆっくりと、憶華の胸の中に降りてきた。


「子どもを産んで」と憶華は言った。声が出た。「——逝った」


「はい」


「その子どもが」


「あなたです」


     * * *


 沈黙があった。


 憶華は碗を持ったまま立っていた。手の中の白磁が、急に重くなった気がした。重くなったのではなく、重さを初めて感じた、というべきかもしれない。


「わたしは——」


 声が出た。どこから出たのかわからなかった。


「泠蘭さまの、子」


「そうです」


 妃の声は揺れなかった。揺れないように、長い時間をかけて準備してきた声だった。


「あなたが産まれたとき、泠蘭はもう意識がなかった。わたしは傍にいました。産まれた子を見て、泠蘭に告げようとして——告げられなかった」


 一息ついた。


「あなたを抱いたのは、わたしが最初です」


     * * *


 憶華は何も言えなかった。


 言葉が見つからないのではなく、言葉より先に何かが来ていた。名前のない何かが、胸の奥から喉の手前まで来て、そこで止まっていた。


 妃が続けた。


「泠蘭の死後、記録は消されました。子どもの存在も、消されました。あなたを後宮の外に出したのは——ここにいれば、同じように消されると思ったから」


「妃さまが」


「はい」


「わたしを、逃がした」


「逃がした、というより——預けた。いつか返せると思って」


 妃の目が、初めて憶華を正面から見た。


「返せるときが来るまで、あなたが無事でいてくれることだけを、十七年、思っていました」


     * * *


 しばらく、二人とも黙っていた。


 灯りが揺れた。外で風が鳴った。回廊のどこかで、かすかな足音がした——一つ、二つ。今夜は気のせいではないかもしれない、と憶華は思った。


「泠蘭さまは」


 憶華はようやく言った。


「どんな人でしたか」


 妃が少し、目を細めた。


「笑う人でした」


 静かに言った。


「よく笑って、よく話して、茶を点てるのが好きで——あの碗を、とても大切にしていた」


 一息ついた。


「あなたに、よく似ています」


     * * *


 憶華は碗を見た。


 蘭の絵。薄墨で、ごく細く。摩耗してほとんど見えなくなっていたけれど、確かにそこにある。


 この碗を持っていた手があった。この碗で茶を点てた人がいた。笑って、話して、そして——子どもを産んで、逝った。


 その人を、憶華は知らない。声も顔も知らない。ただ、この碗だけが、繋いでいた。


 泠蘭。


 初めて、その名前を自分のものとして、胸の中で呼んだ。


 誰かが消そうとした。しかし消えなかった。欠片が残った。記憶が残った。碗が残った。そして——子どもが残った。


 無罪だ、と憶華は思った。


 意味のない言葉かもしれない。誰かを赦すわけでも、何かを裁くわけでも、ない。ただ——泠蘭という人は、何も悪いことをしていなかった。生きて、笑って、産んで、逝った。それだけだった。


 それだけのことが、消されようとした。


 消えなかった。


     * * *


 憶華は碗を胸に抱いた。


 妃がそれを見ていた。何も言わなかった。言葉はもう、必要なかった。


 灯りの下で、二人はしばらく、ただそこにいた。

---

                (約2,100字)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。