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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第2幕 追い、溢れ、零れる/第1章 追う

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第21話 「御覧」 ——皇帝が、何も言わなかった

 蘭衣を着て、三日が経った。


 後宮の空気が変わっていた。第一幕の終わりに感じていた変化より、さらに一段深い変化だった。廊ですれ違う者の目が違う。声をかけてくる者の言葉が違う。晩蘅妃の宮での仕事も、少し変わった。何かが——動き始めていた。


 そして、その日が来た。


     * * *


 晩蘅妃に呼ばれた。


 いつもの朝の仕事とは別に、「今日の午後、一緒に来なさい」と言われた。どこへ、とは言わなかった。私も聞かなかった。


 午後、晩蘅妃の後ろについて歩いた。


 晩蘅妃の歩き方は、ゆっくりだった。でも迷わなかった。どこへ向かっているのか、わかっているような歩き方だった。私はその後ろをついて歩いた。蘭衣の裾が、石畳に触れた。


 どこへ行くのか、見当がつかなかった。


 でも廊が変わっていくにつれて、空気が変わっていった。人が少なくなった。静かになった。すれ違う宦官の頭の下げ方が、深くなった。


 ここは、後宮の中でも別の場所だ、と思った。


     * * *


 広い部屋の前に着いた。


 扉が開いていた。


 晩蘅妃が中に入った。私もついて入った。


 部屋の奥に、人がいた。


 男だった。


 文机の前に座っていた。何かを読んでいた。私たちが入っても、すぐには顔を上げなかった。晩蘅妃が頭を下げた。私も頭を下げた。


 しばらくして、男が顔を上げた。


 最初に晩蘅妃を見た。それから——私を見た。


 一瞬だけ、と思った。でも一瞬ではなかった。


 長く、見た。


     * * *


 その目を、私はうまく読めなかった。


 怒っているわけではなかった。驚いているわけでもなかった。ただ——止まっていた。男の時間が、止まっているような目だった。何かを見ているのに、何かを見ていないような目。


 目の奥に、遠い場所があった。


 その遠い場所に、私ではない誰かがいるような気がした。


 男が晩蘅妃に何かを言った。声は低く、私には聞き取れなかった。晩蘅妃が頷いた。また頭を下げた。


 私も頭を下げた。


 床を見た。石畳の模様を見た。自分の蘭衣の裾が見えた。


 男がまた、私を見た。気配でわかった。


 何も言わなかった。


     * * *


 部屋を出た。


 廊を歩きながら、晩蘅妃が言った。


「御覧になった」


 それだけだった。


 御覧になった——見られた、ということだ。誰に、とは言わなかった。でも、わかった。あの男が誰なのかを、私は知らなかった。でも、普通の人ではないことはわかった。宦官の頭の下げ方、廊の静けさ、晩蘅妃の歩き方——全部が、あの男を指していた。


「あの方は」と私は聞いた。


 晩蘅妃が少し間を置いた。


「皇帝さまです」


   * * *


 足が、少し止まりかけた。


 止まらなかった。歩き続けた。でも頭の中が、少し空白になった。


 皇帝。


 蒼冽。


 後宮の頂点にいる人。泠蘭を——その名前を、私はまだ口にしなかった。でも頭の中で、その名前が浮かんだ。


 皇帝が、私を見た。


 長く、見た。


 何も言わなかった。


 その沈黙が——何かを語っていた。言葉より多くのことを語っていた。でも何を語っているのか、私にはまだわからなかった。


     * * *


 夜、茶器を手の中で握った。


 皇帝が私を見た。長く見て、何も言わなかった。


 その目の奥に、遠い場所があった。その遠い場所に、私ではない誰かがいた。


 泠蘭という名前が、また浮かんだ。


 今日から——何かが変わる気がした。


 以前の私は流されていた。後宮という装置に、ただ飲み込まれていた。でも今日から——何かを知りたいと、強く思った。


 皇帝が何も言わなかった。


 だから、私が探す番かもしれない、と思った。

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