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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第2章 蘭の香、漂う

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第20話 「蘭衣」——断れなかった。香りが、した

 晩蘅妃が、衣を出した。


 それは、ある朝のことだった。


 私がいつものように宮に入ると、文机の前ではなく、衣架の前に晩蘅妃が立っていた。珍しかった。晩蘅妃がああして立っているのを、初めて見た。老いた手が、衣の端をそっと触れていた。


 私が入ったことに気づいて、晩蘅妃は振り返った。


 何も言わなかった。ただ、私を見た。それから衣を見た。また私を見た。


 女官が一人、静かに衣を取り出した。


     * * *


 衣は古かった。


 今の後宮で使われているものよりも、少し古い形の衣だった。色は深い水色——泠廊の朝の空気に似た色だと思った。刺繍は細かかった。蘭の花が、衿のあたりに繊細に縫われていた。


 女官が私の方へ近づいてきた。


 衣を持って。


 私は少し後ずさりたかった。でも、後ずされなかった。物理的に後ずされないのではなかった。後ずさることを、この場所が許さなかった。晩蘅妃が見ていた。女官が近づいてきた。空気が——断ることを、許さなかった。


 断れなかった。


 女官が衣を私の肩にかけた。


     * * *


 その瞬間、香りがした。


 蘭の香りだった。


 泠廊で嗅いだものと、茶器の底で嗅いだものと、旧居で嗅いだものと——同じ香りだった。でも今日は、今までより濃かった。衣に染み込んでいたのだろう。長い時間をかけて、誰かが纏い続けた衣に、染み込んでいた香り。


 息が止まりそうだった。


 止まりそうになって、でも止まらなかった。ゆっくりと、息を吸い続けた。


 晩蘅妃が私を見ていた。


 その目が——今まで見たどの目とも違っていた。測る目でも、探す目でも、怖れる目でもなかった。ただ、静かに、何かを確かめるような目。確かめて、何かを諦めるような目。あるいは——受け入れるような目。


 私は動けなかった。


     * * *


 しばらくして、晩蘅妃が言った。


「よく似ている」


 今まで誰も、私に直接そう言わなかった。「似ていらっしゃる」と言った女官はいた。でも晩蘅妃は、私に向かって直接言った。


「何に」と聞きたかった。


 でも、聞けなかった。


 晩蘅妃が続けた。


「着ていなさい。今日は、それで」


 私は頭を下げた。「はい」と言った。


 声が、少し震えた。


     * * *


 その日の仕事を、蘭衣を着たままこなした。


 廊を歩くとき、衣の裾が石畳に触れた。妃の行列を初めて見た第五話のことを思い出した。妃の衣の裾が、石畳に一瞬触れて離れた。あのとき私は、痕跡を残さないと思った。


 でも今日の私の衣は——痕跡を残す気がした。


 石畳には残らなくても、この廊の空気には残る。私が蘭衣を着て歩いたという記憶が、廊に残る。泠廊の空間記憶に、また何かが積み重なる。


 廊ですれ違う人たちが、いつもより早く足を止めた。


 早く止まって、早く頭を下げた。


 私を見る目が、今日は違った。「あの人だ」という認識ではなく——「戻ってきた」という、もっと深い何かがあった。怖れに近いもの。敬いに近いもの。その二つが混ざったような目。


 私は何も言わなかった。ただ歩いた。


     * * *


 夕方、旧居の掃除をした。


 蘭衣を着たまま、旧居に入った。


 文机の前に立った。筆の跡に、手を触れた。


 この部屋で字を書いていた誰かも、こういう衣を着ていたのかもしれない。この部屋で、この文机の前に立って、同じ香りをまとっていたのかもしれない。


 衣の裾が、床に触れた。


 蘭の香りが、部屋の中に広がった。


 旧居が——静かに、深呼吸したような気がした。


     * * *


 夜、衣を脱いだ。


 女官に返そうとしたが、女官は「明日も着ていなさい」と言った。晩蘅妃の指示だということだった。


 衣を抱えて、部屋に戻った。


 茶器を手に取った。


 茶器の底の香りと、衣の香りと、同じだった。


 私はしばらく、両方を手に持ったままでいた。茶器と、衣と。どちらも、誰かが長い時間をかけて使っていた。どちらにも、同じ香りが染み込んでいた。


 その誰かのことを、私はまだ知らなかった。


 その香りが何の香りなのかを、私はまだ知らなかった。


 ただ——知っている気がした。


 初めてなのに、初めてではない気がした。


 これが母の匂いだと、私は知らなかった。

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