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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第2章 蘭の香、漂う

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第17話 「空気」 ——何かが、変わり始めた

 変わったのは、言葉ではなかった。


 言葉は何も変わっていない。仕事の指示は変わらない。挨拶の言葉も変わらない。晩蘅妃の宮での仕事の内容も変わらない。


 変わったのは——間だった。


 私が廊を歩くとき、すれ違う人の足が、以前よりわずかに遅くなる。立ち止まるほどではない。でも、確かに遅くなる。私が通り過ぎてから、また普通の速さに戻る。気づかない人には気づかないだろう。でも私には、わかった。


 何かが変わり始めた。


     * * *


 晩蘅妃の宮の女官たちの、私への接し方が変わった。


 丁寧になった。以前より丁寧になった。それは悪いことのように聞こえないかもしれないが——後宮での「丁寧さ」は、必ずしも好意を意味しない。怖れからくる丁寧さがある。距離を置くための丁寧さがある。


 私への丁寧さは、後者に近かった。


 言葉は丁寧になった。でも目が、少し遠くなった。


 女官の一人が、私に何かを渡すとき、手が少し早く離れた。触れる時間が短くなった。それだけのことだった。でも私には、はっきりとわかった。


 この人は、私を怖れている。


 怖れながら、丁寧にしている。


     * * *


 徐総管と、また廊ですれ違った。


 今回は止まらなかった。普通に通り過ぎた。でもすれ違う瞬間に、視線だけが私に向いた。一瞬だけ。それから前を向いた。


 その一瞬の視線が——重かった。


 何かを確かめるような目だった。何かを計算しているような目だった。徐総管は後宮のことを一番よく知っている古参だと、暁燕が言っていた。その目が、私を測っていた。


 何を測っているのか。


 私がここにいることの、意味を。危険を。影響を。


 後宮という装置が、私という存在を処理しようとしているのかもしれない、と思った。処理——というのは、排除ではない。ただ、どこに置くべきかを決めようとしている。私を「泠蘭に似た者」として、どこに配置するか。


     * * *


 暁燕に会ったとき、気づいた。


 暁燕の声が、少し変わっていた。


 明るさは変わらない。よく喋ることも変わらない。でも私への言葉の中に、以前はなかった何かが混ざっていた。気遣い、というより——慎重さ、とでも言うべきもの。言葉を選んでいた。以前の暁燕は、言葉を選ばずに話した。それが暁燕の良いところだった。


「最近どう?」と暁燕が聞いた。

「仕事には慣れてきました」と私は答えた。

「そっか」と暁燕は言った。「なんか、あったら言って」


 なんか、あったら。


 以前なら、もっと具体的に聞いてきた。何があったか、誰に何を言われたか、面白いことはあったか。でも今日は、ぼんやりとした言葉だった。


「暁燕さんは」と私は言った。「私のことを、変だと思いますか」


 暁燕が少し黙った。


「変じゃないよ」と暁燕は言った。「でも——」


 そこで止まった。


「でも、なんですか」

「なんか、遠くなった気がする」と暁燕は言った。「憶華が、じゃなくて——憶華の周りの空気が。うまく言えないけど」


 憶華の周りの空気が、遠くなった。

 暁燕も、感じていた。


     * * *


 その夜、旧居の掃除をしながら考えた。


 空気が変わっている。私が変わったわけではない。でも私の周りが変わっている。人の目が変わり、間が変わり、触れ方が変わり、暁燕の言葉が変わった。


 私は何もしていない。


 ただここにいるだけで、周りが変わっていく。


 これが——装置というものかもしれない、と思った。誰かが動かしているのではない。ただ、私という存在が後宮の中に置かれることで、周りが反応する。私に泠蘭の影を見た者が、その影に反応する。反応が連鎖して、空気になる。


 空気が私の形を変えようとしている。


 私を「泠蘭に似た者」から、「泠蘭そのもの」へと変えようとしている。


 旧居の文机の筆の跡を、指で触れた。


 この部屋で字を書いていた誰かも、こうして空気に変えられていったのだろうか。気づかないうちに、少しずつ。


 私は今、気づいている。


 気づいているのに——止められない気がした。

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