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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第2章 蘭の香、漂う

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第18話 「霧噂」 ——誰も言っていないのに、広がっていく

 噂というものは、誰かが言い始めるのではない、と知った。


 霧のようなものだと思った。霧は誰かが作るのではない。ただ、条件が揃ったときに、そこに生まれる。気温と湿気と、風のなさ。それが揃えば、霧は来る。


 私についての噂も、そうやって生まれた。


     * * *


 最初に気づいたのは、晩蘅妃の宮の外だった。


 別の棟の廊を歩いていると、前を歩いていた二人の女官が、私の気配に気づいて言葉を止めた。振り返って私を見た。それから互いに目を見合わせた。


 その目配せの中に、何かがあった。


 「あの人だ」という確認があった。


 あの人——私のことを、すでに知っていた。名前は知らないかもしれない。でも「あの人」として、すでに認識されていた。


 私は頭を下げて通り過ぎた。背中で、二人がまた話し始めるのを感じた。


     * * *


 昼過ぎ、晩蘅妃の宮で文書の整理をしていると、隣の部屋から声が聞こえた。


 女官同士の話し声だった。私がいることを知らないのか、声が少し大きかった。


「......晩蘅妃さまが引き上げた方、見た?」

「見た。似てるって聞いてたけど、本当に似てる」

「あの横顔、特に」

「歩き方も」

「声も聞いた。低くて、静かで」


 私は文書を手に持ったまま、動かなかった。

 続きが聞こえた。


「怖くない?」

「怖い。正直、怖い。なんか、戻ってきたみたいで」


 戻ってきたみたいで。

 私は息を、ゆっくりと吐いた。音を立てないように。


     * * *


 夕方、廊を歩いていると、知らない宦官が私を見て立ち止まった。


 徐総管ではない。若い宦官だった。私を見て、目を大きくした。それから何かを思い出すような顔をして、また歩き始めた。


 この宦官は、私のことを知らないはずだった。


 でも——何かを知っていた。


 噂は、私が動く前に動いていた。私が廊を歩く前に、廊の向こうまで届いていた。どこを通ったのか、誰が運んだのか、わからなかった。でも確実に、広がっていた。


 霧のように。


     * * *


 夜、暁燕に会った。


「みんな、話してるよ」と暁燕は言った。珍しく、単刀直入だった。

「何をですか?」

「憶華が泠蘭様に似てるって。晩蘅妃さまが引き上げたのも、そのせいだって」


 そのせい。


「晩蘅妃さまが私を引き上げたのは、似ているからだと、みんな思っているんですか」

「思ってる人が多い」と暁燕は言った。「違うの」


 違うのか、どうか——私にはわからなかった。晩蘅妃が何を見て私を選んだのか、まだ本当のことはわからなかった。茶と字で止まったことは知っている。でもその理由が「似ているから」なのか、それとも別の何かなのか。


「わかりません」と私は答えた。

「そっか」と暁燕は言った。「でも、みんなはそう思ってる。だから——」


 暁燕が少し止まった。


「だから、気をつけて」と言った。


 また、その言葉だった。気をつけて。何に、とは言わない。


     * * *


 部屋に戻って、茶器を手の中で握った。


 私は何も言っていない。泠蘭という名前を、誰かに向けて発したことはない。自分が泠蘭に似ていると、主張したこともない。


 でも噂は、もうそこにある。


 私が何かをしたわけではない。ただここにいるだけで、噂が生まれた。噂は私の意思に関係なく、後宮の中を動いている。階層を通って、棟を越えて、私が行ったことのない場所まで届いている。


 暁燕が言った言葉を思い出した。


 *噂が態度を作り、態度がまた噂になる。*


 第五話で聞いた言葉だった。そのとき私は、他人事として聞いていた。でも今は——私自身が、その構造の中心にいる。


 私はまだ何も言っていない。


 でも噂は、もうそこにある。


 霧の中に、立っているようだった。

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