第18話 「霧噂」 ——誰も言っていないのに、広がっていく
噂というものは、誰かが言い始めるのではない、と知った。
霧のようなものだと思った。霧は誰かが作るのではない。ただ、条件が揃ったときに、そこに生まれる。気温と湿気と、風のなさ。それが揃えば、霧は来る。
私についての噂も、そうやって生まれた。
* * *
最初に気づいたのは、晩蘅妃の宮の外だった。
別の棟の廊を歩いていると、前を歩いていた二人の女官が、私の気配に気づいて言葉を止めた。振り返って私を見た。それから互いに目を見合わせた。
その目配せの中に、何かがあった。
「あの人だ」という確認があった。
あの人——私のことを、すでに知っていた。名前は知らないかもしれない。でも「あの人」として、すでに認識されていた。
私は頭を下げて通り過ぎた。背中で、二人がまた話し始めるのを感じた。
* * *
昼過ぎ、晩蘅妃の宮で文書の整理をしていると、隣の部屋から声が聞こえた。
女官同士の話し声だった。私がいることを知らないのか、声が少し大きかった。
「......晩蘅妃さまが引き上げた方、見た?」
「見た。似てるって聞いてたけど、本当に似てる」
「あの横顔、特に」
「歩き方も」
「声も聞いた。低くて、静かで」
私は文書を手に持ったまま、動かなかった。
続きが聞こえた。
「怖くない?」
「怖い。正直、怖い。なんか、戻ってきたみたいで」
戻ってきたみたいで。
私は息を、ゆっくりと吐いた。音を立てないように。
* * *
夕方、廊を歩いていると、知らない宦官が私を見て立ち止まった。
徐総管ではない。若い宦官だった。私を見て、目を大きくした。それから何かを思い出すような顔をして、また歩き始めた。
この宦官は、私のことを知らないはずだった。
でも——何かを知っていた。
噂は、私が動く前に動いていた。私が廊を歩く前に、廊の向こうまで届いていた。どこを通ったのか、誰が運んだのか、わからなかった。でも確実に、広がっていた。
霧のように。
* * *
夜、暁燕に会った。
「みんな、話してるよ」と暁燕は言った。珍しく、単刀直入だった。
「何をですか?」
「憶華が泠蘭様に似てるって。晩蘅妃さまが引き上げたのも、そのせいだって」
そのせい。
「晩蘅妃さまが私を引き上げたのは、似ているからだと、みんな思っているんですか」
「思ってる人が多い」と暁燕は言った。「違うの」
違うのか、どうか——私にはわからなかった。晩蘅妃が何を見て私を選んだのか、まだ本当のことはわからなかった。茶と字で止まったことは知っている。でもその理由が「似ているから」なのか、それとも別の何かなのか。
「わかりません」と私は答えた。
「そっか」と暁燕は言った。「でも、みんなはそう思ってる。だから——」
暁燕が少し止まった。
「だから、気をつけて」と言った。
また、その言葉だった。気をつけて。何に、とは言わない。
* * *
部屋に戻って、茶器を手の中で握った。
私は何も言っていない。泠蘭という名前を、誰かに向けて発したことはない。自分が泠蘭に似ていると、主張したこともない。
でも噂は、もうそこにある。
私が何かをしたわけではない。ただここにいるだけで、噂が生まれた。噂は私の意思に関係なく、後宮の中を動いている。階層を通って、棟を越えて、私が行ったことのない場所まで届いている。
暁燕が言った言葉を思い出した。
*噂が態度を作り、態度がまた噂になる。*
第五話で聞いた言葉だった。そのとき私は、他人事として聞いていた。でも今は——私自身が、その構造の中心にいる。
私はまだ何も言っていない。
でも噂は、もうそこにある。
霧の中に、立っているようだった。




