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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第2章 蘭の香、漂う

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第16話 「無名」 ——私の名前は、まだここにない

 女官になって、少しずつ変わったことがある。


 声をかけられることが増えた。下女のときは、誰も私に話しかけなかった。上役から指示を受けるだけで、それ以外に声をかけてくる者はいなかった。でも女官になると、同じ層の者が話しかけてくるようになった。仕事の確認、廊の情報、他愛のない言葉。


 それは、悪くなかった。


 ただ——誰も、「憶華イーファ」と呼ばなかった。


     * * *


 最初に気づいたのは、三日目だった。


 晩蘅妃の宮の廊で、別の棟の女官とすれ違った。その女官が、私を見て少し立ち止まった。第一話の宦官のように、第三話の晩蘅妃の女官のように。


 でも今回は、声をかけてきた。


「晩蘅妃さまのところの、新しい方ですね」

「はい」と私は答えた。


 女官は私をじっと見た。それから言った。


「......よく似ていらっしゃる」


 何に、とは言わなかった。


 私も聞かなかった。


 女官は頭を下げて、歩いていった。私は廊に立ったまま、その言葉を聞いていた。


 よく似ていらっしゃる。


 何に。誰に。


     * * *


 その日の夕方、晩蘅妃の宮で掃除をしていると、女官の一人が別の女官に囁くのが聞こえた。


 声を落としていたが、後宮で生活していると、そういう声が拾えるようになってくる。


「......泠蘭様に」


 そう聞こえた。

 二文字だけ。でも確かに聞こえた。


 私は掃除の手を止めなかった。止めてはいけなかった。聞こえなかったふりをして、箒を動かし続けた。


 泠蘭様に——似ている、ということだろうか。


 泠蘭という名前が、今度は私に向けられた言葉の中にあった。宦官の囁きの中にあった名前が、今度は私を指す言葉として使われていた。


 それが何を意味するのか。


 まだ、理解したくなかった。


     * * *


 夜、暁燕に会いに行った。


 女官になってから、暁燕に会う機会が減った。仕事の場所も、食事の時間も、少しずれた。それでも、廊でたまに会うことがあった。


 今日は意識して会いに行った。


「ねえ」と私は言った。「泠蘭という人のことを、知っていますか」


 暁燕が、少し固まった。


 固まり方が、いつもと違った。驚いたのではなく——怖じ気づいたような固まり方だった。


「......どこで聞いたの」と暁燕は小声で言った。

「少し前から、その名前が耳に入ってきていました」


 暁燕は周囲を見た。廊に誰もいないことを確かめてから、さらに声を落とした。


「あまり、口にしない方がいい名前だよ」

「なぜですか」

「昔——ここにいた方で」暁燕は言葉を選んでいた。「いなくなった方で。その名前を出すと、ろくなことがないって、古い人は言う」


 いなくなった方。


「いなくなった、というのは」

「死んだ」と暁燕は言った。声が、ほとんど聞こえないくらい小さかった。「後宮で。でも詳しいことは、誰も言わない」


 沈黙があった。


「それで」と暁燕は続けた。「憶華は——その人に似てるって、言われてない」


 問いではなかった。確認だった。


 私は少し間を置いてから「似ていると言われました」と答えた。


 暁燕が、小さく息を吐いた。


「気をつけて」と暁燕は言った。それ以上は言わなかった。


     * * *


 部屋に戻って、鏡を出した。


 今度は、伏せなかった。


 自分の顔を見た。女官の衣を着た自分の顔を。目元に影が落ちている。黒目が大きい。伏し目がちになる癖がある。


 泠蘭様に、似ている。


 私が知らない誰かに、私は似ているらしい。その誰かは後宮で死んで、名前を囁くのも憚られる存在になっていて、その誰かに私は似ている。


 鏡の中の自分を、長く見た。


 どこが似ているのか、わからなかった。自分の顔を見ても、誰かとの比較はできない。ただ、見た。


 やがて鏡を伏せた。


 伏せてから、気づいた。


 今日、誰も私を「憶華」と呼ばなかった。声をかけてきた女官も、囁いていた女官も、暁燕でさえも——名前では呼ばなかった。


 下女のときは、名前がなかった。


 でも今は違う。名前がないのではなく——別の名前で、埋められようとしている。


 私の名前は、まだここにない。


 泠蘭という名前が、代わりに置かれようとしている。

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