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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第2章 蘭の香、漂う

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第15話 「旧居」 ——この部屋は、私を知っている

 女官になって最初の仕事の一つは、古い宮の管理だった。


 晩蘅妃の宮から少し離れた場所に、使われていない宮がある。以前は誰かが住んでいたが、今は空になっている。定期的に掃除をして、空気を入れ替えて、荒れないようにしておく。それが私に与えられた仕事の一つだった。


 女官の先輩が、初日に連れていってくれた。


 廊を歩きながら、先輩は言った。「しばらく使われていない部屋だから、丁寧に」と。それだけで、誰が使っていたかは言わなかった。私も聞かなかった。


 扉の前に立ったとき、少し止まった。


 見覚えがあるような気がした。


     * * *


 扉を開けた。


 空気が、変わった。


 廊の空気とも、晩蘅妃の宮の空気とも違った。古く、静かで、しかし荒れていなかった。誰かが長い時間をかけて作った空気が、そのまま残っていた。閉じ込められた空気。誰も吸わなくなった空気。


 蘭の香りがした。


 かすかに、でも確かに。


 私は入口で立ち止まった。先輩が中へ入るのを、少し遅れて追った。


 部屋は、広くも狭くもなかった。窓が一つ、北向きに開いていた。光が少なかった。調度は残っていた。文机が一つ、衣架が一つ、小さな棚が一つ。それだけだった。


 文机の位置が——なぜか、わかった気がした。


 文机はあの場所にある、と、部屋に入る前から、知っていた気がした。


     * * *


 掃除をしながら、部屋の中を観察した。


 壁に、細い染みがあった。雨漏りの跡かもしれなかった。窓の枠が、少し黒ずんでいた。衣架の足元の床に、微かな擦り跡があった。よく使われていた証拠だった。


 文机の上に、小さな跡があった。


 筆を置いていた跡だった。長い時間、同じ場所に筆を置き続けた跡。木の色が、そこだけ少し違った。


 誰かがここで、字を書いていた。


 毎日、同じ場所に筆を置いて、字を書いていた。


 私は文机の前に立って、その跡を見た。指で触れてみた。木の感触だけがあった。


 晩蘅妃が「泠」と書かせたとき、手が震えた。あの震えと、この跡が——繋がっている気がした。


     * * *


 窓を開けた。


 北向きの窓から、後宮の庭が少し見えた。今の季節、庭には花がなかった。乾いた土と、枯れた草だけがあった。しかし窓の前に立ったとき、この景色を前にも見た気がした。


 見たことがない景色のはずだった。


 でも——知っている気がした。


 この窓から外を見る感覚を、私の身体が知っていた。立ち方を知っていた。どこに手を置くか、どこに目を向けるか、身体が先に知っていた。


 先輩が「窓を開けたら戻してね」と言った。


 私は頷いて、しばらくそのまま立っていた。


     * * *


 帰り道、廊を歩きながら考えた。


 あの部屋は、誰の部屋だったのか。


 聞けなかった。聞いてはいけない気がした。でも——知っている、という感覚が、身体に残っていた。知っているのに、知らない。見たことがないのに、見たことがある。


 泠蘭。


 その名前が、今日は声に近い形で浮かんだ。頭の中で、はっきりと。


 あの部屋は、泠蘭の部屋だったのかもしれない。


 証拠はなかった。でも、身体が知っていた。文机の位置も、窓の向きも、筆の跡も——全部、身体がすでに知っていた。


 それはつまり。


 私の身体が、誰かの記憶を持っている。その誰かが、あの部屋で生きていた。


 その誰かが、泠蘭なのかもしれない。


 そしてもし泠蘭が——


 そこまで考えて、止まった。


 廊の中ほどで、足が止まった。


 先に進んでいい考えなのか、わからなかった。先に進んだら、何かが変わる気がした。変わってしまったら、戻れない気がした。


 しばらく、廊に立ち尽くした。


 やがて歩き始めた。


     * * *


 夜、茶器を手に取った。

 底の蘭の香りを、もう一度嗅いだ。


 あの部屋の香りと、同じだった。


 この茶器は、あの部屋にあったのかもしれない。あの文机の上に置かれていたのかもしれない。あの窓の景色を見ながら、この茶器で茶を点てた誰かがいたのかもしれない。


 この部屋は、私を知っていた。


 私より先に、私を知っていた。


 それが何を意味するのか——まだ、言葉にできなかった。


 でも、知っていた。


 この部屋は、最初から、私を待っていた。

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