表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第2章 蘭の香、漂う

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/21

第14話 「昇格」 ——明日から、ここに来なさい

 八日目の朝、晩蘅妃が言った。


「明日から、女官として来なさい」


 私は頭を下げたまま、少し間を置いてから「はい」と答えた。


 それだけだった。理由は言わなかった。説明もなかった。晩蘅妃はすぐに窓の外に目を戻した。私は盆を持って部屋を出た。


 廊に出てから、少し立ち止まった。


 女官。


 下女ではなく、女官。階層の底ではなく、一段上。第五話で見上げた梯子の、一段上に上がる。それが今、決まった。


 嬉しいかどうか、わからなかった。


     * * *


 午後、上役の女官のところへ行った。


 晩蘅妃からの申し出だと伝えると、女官は少し驚いた顔をした。驚いた、というより——何かを測るような顔をした。私を見て、それから別の何かを考えているような顔。


「わかりました」と女官は言った。「明日から衣を替えます。仕事の内容も変わります」


 手続きはそれだけだった。


 後宮では、上からの言葉は下に伝わる。晩蘅妃が言えば、女官は従う。私の意思は、関係なかった。


 関係ない、ということが——少し、怖かった。


     * * *


 夕方、暁燕に話した。


 暁燕は少し黙った。それから言った。


「すごいじゃない」


 声は明るかった。でも明るさの中に、何かがあった。私にはわかった。暁燕の声の、奥の方にある何かが。


「一緒に水を運べなくなりますね」と私は言った。


「そうだね」と暁燕は言った。「でも、いなくなるわけじゃないし」


 いなくなるわけじゃない。


 その言葉は本当だった。後宮の中にいることは変わらない。でも層が変わる。見える景色が変わる。毎朝水桶を持って同じ廊を歩くことは、なくなる。


「なんで選ばれたと思う」と暁燕が聞いた。


「わかりません」と私は答えた。


 それは本当だった。茶と字で晩蘅妃が止まったことは、暁燕に話していなかった。話せなかった。言葉にすると、何かが変わる気がして。


「晩蘅妃さまって、長くここにいる方だよ」と暁燕は言った。「あの方が誰かを引き上げるのは、珍しいって聞いた」


 珍しい。


「なぜ珍しいんですか」


「よくわからないけど」暁燕は少し考えた。「あの方は、あまり人に近づかない方みたいで。昔、何かあったとか、なかったとか」


 昔、何かあったとか、なかったとか。


 その言葉を、私は静かに聞いた。第一話で暁燕が西の棟について言ったのと、同じ言い方だった。あったとか、なかったとか。後宮では、そういう言い方しかできないことがある。


     * * *


 翌朝、衣が替わった。


 下女の地味な衣から、女官の衣へ。色が変わった。動きが少し制限された。帯の結び方が違った。女官に教わりながら着替えて、鏡を見た。


 鏡の中の自分が、少し違う人に見えた。


 違う人——というより、誰かに近づいた人、という感覚だった。誰に近づいたのか、わからなかった。でもそう感じた。


 鏡を伏せた。九話で鏡を伏せたときと、同じ感覚だった。見続けてはいけない気がする感覚。


     * * *


 晩蘅妃の宮へ行った。

 女官として、初めて入った。


 晩蘅妃は文机の前にいた。私が入ると、ゆっくりと顔を向けた。衣を見た。それから私の顔を見た。


 何も言わなかった。


 でも——目が、少し動いた。微かに。ほんの少し。痛みとも懐かしさとも違う、別の何かが、その目に一瞬だけあった。


 私は頭を下げた。


「本日より、お世話になります」


 晩蘅妃は頷いた。それだけだった。

 仕事が始まった。


     * * *


 昼過ぎ、廊で徐総管とすれ違った。

 徐総管が、私の衣を見た。止まった。私の顔を見た。


 長く、見つめられた。


 私は頭を下げた。徐総管は何も言わなかった。でも今日は、三歩でも二歩でも歩かなかった。すれ違う前から、すでに止まっていた。


 通り過ぎてから、背中で感じた。

 徐総管がまだ見ていることを。


 振り返らなかった。


     * * *


 夜、茶器を手に取った。

 今日から私は女官だ。階梯を、一段上がった。


 上がった理由が、まだわからなかった。晩蘅妃が何を見て私を選んだのか。茶なのか、字なのか、それとも別の何かなのか。


 わからなかった。でも——上がるほど、何かに近づいている気がした。


 何に近づいているのか。


 泠蘭、という名前が、また浮かんだ。


 今日は、打ち消さなかった。


 その名前と、私の昇格と、晩蘅妃の止まる目と——どこかで繋がっている。その繋がりの先に、私がここにいる理由があるかもしれない。


 怖かった。


 でも——知りたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ