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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第2章 蘭の香、漂う

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第13話 「筆跡」 ——字を書けと、言われた

 晩蘅妃は、また字を書かせた。


 五日目の朝だった。茶を点てて、盆を前に置いて、頭を下げていると、晩蘅妃が言った。


「昨日の紙を、持ってきなさい」


 女官が昨日イーファが書いた紙を持ってきた。晩蘅妃はそれをしばらく見ていた。それから言った。


「もう一度、書きなさい。同じものを」


 私は筆を取って、また「憶華」と書いた。


 晩蘅妃が二枚を並べて見た。止まった。今度は目を細めた。老いた目が、二枚の紙の間を行き来した。


「癖がある」と晩蘅妃は言った。

「はい」と私は答えた。

「直そうとしたことは」

「あります。でも直りませんでした」


 晩蘅妃は何も言わなかった。二枚の紙を見続けた。


     * * *


 六日目、晩蘅妃は別のものを書かせた。


「蘭、と書きなさい」


 私は筆を取って、蘭と書いた。


 晩蘅妃が止まった。今までで一番長く止まった。紙から目を離さなかった。私は筆を持ったまま、膝をついたまま、動かなかった。部屋の空気が、止まっているようだった。


 やがて晩蘅妃が言った。


「もう一枚」


 私はもう一枚、蘭と書いた。


 晩蘅妃が二枚を並べた。また見た。今度は目を閉じた。長く、閉じていた。


 何かを、思い出しているのだと思った。


 目を閉じて、遠い場所へ行っているのだと思った。私の字が、その場所への道を作っている。


 晩蘅妃が目を開けた。


「上手いわけではない」と晩蘅妃は言った。「でも——」


 そこで止まった。言葉を選んでいるような間があった。


「迷いがない」と、ゆっくりと言った。


     * * *


 迷いがない。


 廊を歩きながら、その言葉を繰り返した。


 私の字に、迷いがない。上手くはない。でも迷いがない。それが晩蘅妃を止める何かと、繋がっているのだろうか。


 自分の字のことを、考えたことがなかった。


 字を習ったのは後宮に来る前だった。誰に習ったのか、あまり覚えていなかった。気づいたら書けていた。それだけだった。癖があると言われたことはあったが、直そうとしても直らなかった。手が、その形しか知らなかった。


 手が知っている形。


 水の重さを手が知っているように、この字の形も、手が知っている。教わったのではなく、最初からそこにあったような形。


 そうすると——この字も、誰かから受け継いだものかもしれない。


     * * *


 七日目、晩蘅妃はまた字を書かせた。


「廊、と書きなさい」


 私は廊と書いた。


「泠、と書きなさい」


 私は筆を持ったまま、少し止まった。


 泠——さんずいに令。宦官が囁いていたあの名前の、最初の字。第七話で耳に入った、水のような字。


 書いた。


 晩蘅妃が見た。長く見た。今度は目を閉じなかった。ただ、じっと見た。


「もう一度」


 もう一度、泠と書いた。


 晩蘅妃が二枚を並べた。それから「廊」の紙と並べた。三枚が並んだ。晩蘅妃の手が、わずかに震えているように見えた。老いのせいかもしれなかった。でも——老いだけではない気がした。


 晩蘅妃が紙を伏せた。


 私を見た。


「あなたは」と晩蘅妃は言った。それから止まった。また言いかけて、止まった。


 長い沈黙があった。


 最後に晩蘅妃は言った。


「明日も、来なさい」


 それだけだった。


     * * *


 部屋に戻って、茶器を手に取った。

 泠廊、と頭の中で言った。


 泠と廊。二つの字を、今日初めて別々に書いた。晩蘅妃に言われるまま、その字の意味を考える前に書いた。でも書いた後で気づいた。泠廊——あの冷たい回廊の名前。足音が二つになった廊の名前。蘭の香りが漂った廊の名前。


 そしてもう一つ。


 泠——この字は、名前の一部かもしれない。宦官が囁いていた、あの名前の。


 泠蘭。


 泠と書いたとき、晩蘅妃の手が震えた。


 繋がっている、と思った。全部が、どこかで繋がっている。泠廊と、蘭の香りと、茶器と、晩蘅妃の止まる目と、宦官の囁きと——全部。


 でも繋がりの中心に何があるのか、まだ見えなかった。


 この字を、誰かが書いていた。


 私より前に、この字を知っていた誰かが、いた。

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