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追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第2章 蘭の香、漂う

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第12話 「止杯」 ——妃が、杯を置いて止まった

 晩蘅妃の宮に通い始めて、三日が経った。


 毎朝、同じ時刻に宮へ行く。女官から指示を受けて、掃除をするか、茶の準備をするか、文書の整理を手伝うかする。下女の仕事と大きく変わらないが、場所が変わった。空気が変わった。


 そして、晩蘅妃がいた。


 毎日、そこにいた。窓際か、文机の前か、時には床に座って何かを読んでいた。私が入っても、すぐには顔を上げない。仕事をしていると、やがてゆっくりと視線を向ける。それだけだった。言葉は少なかった。


 でも、茶だけは、必ず飲んだ。


     * * *


 二日目の朝、また茶を点てた。


 前日と同じ茶葉、同じ湯加減、同じ手順。違ったのは、私が少し落ち着いていたことだった。初日は緊張していた。でも二日目は手が慣れていた。茶筅を動かす感覚が、少し身体に入っていた。


 晩蘅妃が茶碗を取った。


 一口飲んで——また、止まった。


 前日と同じだった。茶碗を口に当てたまま、動かなくなった。目が遠くなった。どこか見えない場所を見るような目。


 私は頭を下げたまま待った。


 しばらくして、晩蘅妃が茶碗を置いた。

 何も言わなかった。私も何も言わなかった。

 それだけで、その日の茶の時間は終わった。


     * * *


 三日目、私は少し意識して茶を点てた。


 何が晩蘅妃を止めるのか、確かめたかった。茶葉の量を前日より少し変えた。湯の温度も、わずかに変えた。


 晩蘅妃が茶碗を取った。


 一口飲んで——止まらなかった。


 普通に飲んだ。二口、三口。最後まで飲んで、茶碗を置いた。それだけだった。


 私は、その違いを、頭の中で記録した。


 止まるときと、止まらないときがある。茶葉の量か、湯の温度か、あるいは別の何か。私の点て方の、何かが、晩蘅妃の中で何かを呼び起こす。そしてその何かが呼び起こされたとき、晩蘅妃は止まる。


 何が呼び起こされるのか——わからなかった。


     * * *


 四日目、元の点て方に戻した。


 茶葉の量も、湯の温度も、初日と同じに。意識して、丁寧に、手順通りに。茶筅を動かしながら、この茶器のことを考えた。母から受け継いだと聞いた茶器。底に蘭の香りが残っている茶器。


 茶を点てながら、蘭の香りと茶の香りが混ざった。


 昨日は混ざらなかった。茶葉を変えたから、香りも変わったのだろう。でも今日は混ざった。宮の空気の中で、静かに混ざった。


 晩蘅妃が茶碗を取った。


 一口飲んで——止まった。


 長かった。今日は特に長かった。茶碗を口に当てたまま、目を閉じた。私は息を詰めて待った。


 やがて、晩蘅妃が目を開けた。

 茶碗を、ゆっくりと置いた。


 それから私を見た。いつもの測るような目ではなかった。何か——痛みに似たものが、その目の奥にあった。痛みというより、懐かしさかもしれなかった。あるいは、その両方かもしれなかった。


 晩蘅妃が言った。


「あなたは、どこから来たの」


 予想外の問いだった。


「外からです」と私は答えた。「後宮の外から参りました」

「家は?」

「もうありません」


 晩蘅妃は、少し眉を動かした。眉というより、目の端が、わずかに動いた。


「そう」


 それだけだった。また沈黙になった。


 晩蘅妃は窓の外を見た。私は頭を下げたまま待った。


 しばらくして、晩蘅妃が言った。


「明日も、来なさい」


     * * *


 宮を出て、廊を歩きながら考えた。


 どこから来たか、と聞かれた。家はあるか、と聞かれた。晩蘅妃が私に問いを向けたのは、初めてだった。茶と字以外で。


 なぜ聞いたのか。


 家がない、と答えたとき、眉が動いた。あの動きが何を意味するのか、わからなかった。驚いたのか、それとも何かを確かめたのか。


 聞けなかった。聞いてはいけない気がした。


 でも——晩蘅妃は何かを知っている、と思った。茶を飲んで止まるたびに、何かを思い出している。私のことを、あるいは私ではない誰かのことを。


 その誰かが誰なのか。

 泠蘭、という名前が、また頭の中に浮かんだ。

 打ち消さなかった。打ち消せなかった。


     * * *


 その夜、茶器を手に取って、底の香りを嗅いだ。

 蘭の香りは、まだあった。


 この茶器を使っていた誰かは、家がなかっただろうか。後宮に来る前、どこにいたのだろうか。どこから来て、どこへ行ったのだろうか。


 わからなかった。


 でも、晩蘅妃は止まった。

 今日も、また、止まった。

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