第56話
※R15描写があります。ご注意ください。
青の大陸に旦那が転移した後は特に混乱もなく、武闘会(ま、武闘会っていうより親睦会だけどな)はお開きになった。
観客は試合の中断よりも、目の前で行われた転移に驚いたようだった。
確かに初めて転移を見ると驚くだろう。
術式の使えない竜族には、出来ないことだからな。
餓鬼の頃から旦那と付き合いのあった俺は、転移を見慣れている。
だが赤の竜族の多くは『ヴェルヴァイド様って、転移ができるんでしょう?』程度しか知らない。
転移だけでなく、は珍獣並みに激レアな存在であるヴェルヴァイドも見られたんだ。
竜帝の親族や側近、竜騎士以外は生涯に一度も旦那に会えない竜族だっている。
その旦那だけでなく、異世界人でありながらつがいになった姫さんにも会えた。
異世界人は旦那以上に稀少……本来は監視者の処分対象だから、この世界に異世界人は姫さんしかいない。
ヴェルヴァイドと、そのつがいの異世界人。
竜族の中でも赤の竜族は、好奇心が強いほうだ。
俺との試合がなくなっても二人を間近で見ることが出来て、文句どころか大満足だろう。
不平不満の声は聞こえてくることなく、赤の竜騎士達の誘導によって観客達は城の食堂に移動した。
俺はカイユ達と部屋に戻りながら、マーレジャルに昼食を部屋に運ぶよう携帯電鏡で頼んだ。
前を歩くカイユは姫さんの手を握り、穏やかな口調で話しかけている。
二人の後ろを歩く俺に聞こえてきたのは、父さんのところにいるジリギエのことや朝食に出たマンゴーが美味しかったこと、庭園の花のこと、明日の天気のこと……。
いつもと変わらない、日常の会話。
いつもと変わらないからこそ、姫さんはそっと後ろを振り向き、何か言いたげな視線で俺を見上げたんだろう。
部屋につくと、茶の支度をしようとしたカイユの手を姫さんはぐいぐいと引いてソファーに座らせ、自分がすると言って備えつけの簡易キッチンへ足早に向かった。
そのさいに「カイユ、ダルフェといてくださいね!?」と念押しまでして……。
青の陛下、陛下の側近であるカイユの父親……この二人の安否だけでなく、自分の爪の変化もカイユの心労となっている。
姫さんはそれをわかっているから、カイユのことを俺に任せたんだろう。
カイユは姫さんの気遣いを素直に受け入れ、一度は浮かせた腰を座面へ戻し……。
「ダルフェ、手を洗いたいから洗面器と水差し。突っ立ってないで、早くして」
手袋を外しながら、俺を見ることなく言った。
「うん。すぐ持ってくるよ、ハニー」
俺が準備した手洗いセットで手を洗い終えると、カイユはすぐに次の指示を出してきた。
「ブーツ、ふいて」
「了解、すぐやるよ」
ゆったりと腰掛け、ブーツを履いた長く細い脚を優雅に組み替えながら命じるその姿は、まさに女王様。
踵で俺を踏みつけながら、罵ってください!
と、足にすがり懇願したくなるほど、俺のつがいは美しい。
「衣装部屋に靴の手入れ用品があるはずだから、取ってくるよ」
衣装部屋の棚にあった、靴の手入れ用品が一式入った木箱を手に戻り。
ソファーに座っているカイユの前に片膝をつき、木箱の中を確認した。
馬毛と豚毛のブラシとクリームとワックス、数枚のフランネルクロス。
うん、じゅうぶんだ。
っていうか、拭く布一枚あればたりる。
カイユのブーツは汚れてないからな。
城の中を通って武闘会の会場に行って帰ってきただけのカイユのブーツが、汚れるはずがない。
「さて、始めますかね~」
手袋を外し、ポケットにしまい。
立てた片膝にカイユの足先を乗せ。
汚れていないブーツにブラシをかけ、丁寧に拭いた。
そんな俺を見下ろし、カイユは顎を動かした。
「ブーツはもういいわ。あそこの花瓶、あっちに移動してちょうだい」
「ん? あれをこっちか? 了解」
言われた通りに花瓶を移動すると。
「やっぱり前のままがいいわ。もどして」
花瓶を見ることなく、そう言った。
「うん、わかった」
言われるがまま、また花瓶を移動した俺に。
間髪入れず、カイユは次々と指示してきた。
「トリィ様とヴェルヴァイド様の舞踏会の衣装、寝室に出しておいて」
「衣装部屋のハンガーラックごと? 姿見のところでいいよな」
「今朝届いた髪飾り用の薔薇の棘、全てチェックしてちょうだい」
「処理してるものを持ってきてるはずだけど、取り残しがないか確認しておくよ」
「あのキャビネット、窓の横に移動して」
「うん、窓の横って、あそこでいい?」
「違うわ。あそこじゃなくて、左の窓の横」
「あぁ、ごめん。そっちか、すぐやるよ」
「やっぱそのままいいわ。……ダルフェ」
「ん? ……カイユ?」
右袖を引かれたので、足を止めた。
振り向くと、カイユは空色の瞳をゆっくりと閉じ。
「肩」
ぽつり、と。
言った。
「……そっか、肩か。いろいろあったら、こっちゃった? よし、俺の極上テクで天国にお連れいたしましょう♡」
ウィンクしつつ答え。
ソファーの後ろに回り屈んで、カイユの肩に手を置くと。
「…………カイユ?」
両手の甲に、温度が重なった。
重ねられたのは、カイユの手。
「…………」
「……そっか、うん」
言葉にしなくても。
重ねられた手から、伝わってくる。
触れ合う皮膚から、染み込む。
「いいんだ、カイユ。言ってくれよ、もっと。我が儘、俺にもっと言ってくれ、カイユ……」
「……」
カイユは良くも悪くも、頼られる側だ。
守られるのではなく、守るために戦う竜騎士だ。
『あのセレスティスとミルミラの娘であるカイユは、優秀な青の竜騎士』
カイユはそうあろうとし、そうでなければいけないと強く思っている。
父親にとって自慢の、誇れる娘でいなければ、と――。
けれど、舅殿は愛娘の心がどれほど脆く繊細かを、よく理解している。
カイユが弱音を吐こうが泣き言を口にしようが、娘を想う気持ちは変わらないのに……。
弱さを表に出してはいけないと、少女のような繊細さは奥底に押し込めて……傷だらけの手で蓋をして、カイユは一生懸命それを隠している。
気づかれないように。
知られてはいけないと。
押し込めて、力一杯押し込めて……壊れてしまった、カイユの心。
そんなカイユが、俺には言ってくれるんだ。
俺だけに、言ってくれるんだ。
我が儘を押さえることなく、我慢しないで口にしてくれる。
それは誰よりも俺を信頼し、甘えてくれているということだ。
甘えてくれる君が、どうしようもなく愛おしい。
だから君は、いくらでも俺を罵り殴り、蹴り飛ばしていいんだ。
君になら八つ裂きにされても、感じるのは痛みではなく歓びだろう。
あぁ、俺のつがいは可愛いな。
可愛い。
可愛い。
君は可愛いよ、カイユ。
なんて可愛い女なんだろう。
俺にだけ我が儘を言い、暴君な女王様でいてくれる君が心底愛おしい。
「カイユ……アリーリア」
後ろから覆い被さるようにして、キスをした。
両手だけじゃなく、唇も重ね。
奥まで招いて欲しいと、舌先で執拗にねだった。
根負けしたように、ほんの少し開いた歯の間から侵入し。
逃げられる前に、温かく柔らかなそれを捕まえる。
触れることを許されたことに歓喜して、さらに繋がりを深めると。
快楽以上の幸福感に、あっと言う間に満たされていく。
「…………ん? だ~め、俺がする」
口の端から溢れた唾液を、拭おうと動いたカイユの右手を押さえ。
顎先から、ゆっくりと舐めあげる。
「カイユ、カイユ……アリーリア、君が欲しい」
つがいの体液の甘さに酔わされ湧き出た情欲を、隠さず露わにして告げた。
今が真っ昼間だろうが青の陛下が緊急事態中だろうが、誘う言葉を止められない。
「最高に気持ち良くして、泣かせてあげるよ……」
泣かせたい、大切な君を。
泣かせてあげる、愛しい君を。
「どんなに泣いても、君はなにも悪くない……悪いのは、君を泣かせる俺なんだから」
辛くても、悲しくても。
心細くて、不安でも。
泣けない君を。
泣かせてあげるよ、俺が。
溜め込んでしまった涙で、君の心がこれ以上溺れないように――。
「笑顔も泣き顔も。どんな君も、俺は好きだ」
「……テオ」
「アリーリア、君のすべてを愛してる」
再度、艶やかに濡れた唇を貪るべく寄せた瞬間。
――トン、トトンッ、トン。
軽やかなノック音が、無粋に響き。
「ダルフェ、お・待・た・せ♪ ご飯、持ってきたよ~! エキザリがランチボックスにしてくれたの! ダルフェの好きなサボテンの実も、たくさん持ってきたよ! ダルフェ、ダルフェ、ダルフェ~♡」
扉の向こうで、甘えを全面に出した声が俺の名を連呼した。
「………………」
「あー、うん、こっちが優先! カイユ、ね? お願い! 頼む! させてください!」
「……馬鹿なの? するわけないでしょう!?」
懇願する俺の腕を勢い良くはらって、カイユはソファーから起ち上がった。
「ま、待ってくれ、カイユ! ちょっと、ちょっとだけでもいいからさ!」
「ちょっと? そう言って"ちょっと”で済んだこと、今まであったかしら?」
「え? あ、それはまぁ、ほら、”ちょっと”の解釈違いっつーか、個人差?」
「…………」
「カ、カイユ、カイユさーん?」
俺に向けられたカイユの視線は、それはそれは冷たいものだった。
いっ……いい、その蔑むような目、すげぇいいです!
さすが俺の女神!
「……その顔やめて、気持ち悪いわよ?」
「あぁ、ごめん。幸せすぎて、つい」
「………………あなたのその奇病は、医者も治せないわね」
奇病?
正確には対象者がカイユ限定の性癖なんだけど、ここでそれを言うのは得策じゃないので黙って頷き、緩んだ顔を引き締めた。
「まったく、もう……。さっさとドアを開けて、受け取ってきなさい。マーレジャルさんも今日はとても忙しいのだから、待たせてはいけないわ」
溜め息をつきながらそう言いうと、茶を淹れることを口実にして俺達が二人で過ごす時間を作ってくれた姫さんがいるキッチンへ、振り返ることなく行ってしまった。
けれど、見えてしまったんだ。
俺には、ちゃんと見えたんだ。
「…………うわっ!? やべぇでしょうが、あれはっ!」
銀の髪の間から、ちらりと見えたカイユの耳は。
咲き始めの花のように、淡く色づいていた。
「あ~、ほんと可愛いよなぁ~。俺のカイユは」
マーレジャルからランチボックスを受け取るために、扉に歩み寄り……ドアノブに手をかけた時だった。
――ごほっ。
咳がひとつ、出て。
口の中に、すっかり慣れた錆の味が広がった。
いつもと違うのは、その量と濃度だ。
うわ~、軽い咳ひとつでこれかよ!?
内臓、溶け始めてんのか?
「ははっ、なんだよ、これ……まっずいなぁ~」
吐き出すわけにもいかず、嚥下して。
右手で、口を拭った。
甲に、わずかだが血がついていて。
素手だったことを、思い出した。
胸の内ポケットから、予備の手袋を出し。
両手に、はめた。
「………………旦那、ヴェルヴァイドッ……俺、もう……こんなでさ……どうしたらいいか、わかんねぇよ」
白い手袋は、着いた血を隠してくれたが。
「俺、まだ……まだ死にたくねぇよ、ヴェルヴァイドッ」
漏れ出した本心を、隠してはくれなかった。
「……………………聞こえちまったのか?」
開けた扉の向こうには、マーレジャルの姿は無く。
床に敷かれた赤い外套の上に、籐製のランチボックスと黄緑のサボテンの実が入っている籠が置かれていた。