第9話 十倍
ボルクは口を開けたまま、自分の喉に手をやった。
もう一度両手を広げる。唇が同じ形に動く。しかと見な、灯実はこの三つのどれかの下だ。何百回、何千回と繰り返してきたはずの文句が、やはり一音も声にならなかった。見物人のざわめきがすっと静まっていく。誰かが小さく「神前だ」と呟いた。
ボルクがはじかれたように振り向いた。祠の軒下で、一番大きな灯明が煌々と燃えていた。その明かりは飴色の石畳を越えて、ボルクの足元まで、台の上まで、まっすぐに届いていた。隣の屋台の蝋燭は風の中でまだぴたりと立ったままだった。
「な、なんで、まだ日も沈みきってねえのに」
声は出た。本当のことだからだ。ボルクの額にみるみる汗が浮いてくる。
「ボルクさん」
透の声は穏やかだった。昨日、ネネの前にしゃがみ込んだときと同じ声だった。
「両手を、そのまま台の上に置いてください。それから椀を三つとも開けてくれますか。俺はまだ選んでいないので、全部見せてもらえれば、それで選んだことにします」
「て、てめえ」
「開けてください。ここにいるみんなが見てます」
見物人はボルクの両手を見つめていた。ボルクは椀の上で手を浮かせたまま、しばらく動かなかった。指が小刻みに震えているのが伊吹にも見えた。やがてボルクは左手だけで、一つ目の椀を持ち上げた。
空だった。
二つ目の椀。空。
三つ目の椀を持ち上げる手はもう誰が見ても分かるくらいに震えていた。椀の下には何もなかった。
見物人の間からどよめきが上がった。さっきまで何度も勝っていた赤い泥の靴の男が、人混みの後ろへそっと下がろうとして、周りの客に肩を掴まれた。
「おい、今まで俺が負けた分は何だったんだ」
「三つとも空だぞ。どの椀を選んだって、当たるわけがねえ」
「ち、違う、これは」
ボルクが叫びかけて、そこで声が詰まった。言い訳の最初の一音だけが漏れて、あとは喉の奥に引っかかったまま出てこない。ボルクは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせて、それから黙った。黙るしかなかったのだ。
透が台の脇に回って、立てかけてあった板の札を指さした。
「いかさま無し。見破った者には十倍払う。そう書いてありますよね。ボルクさん、さっきこの時計に、自分で金貨三枚の値をつけた。みんなの前で」
「そうだ、聞いたぞ!」
「金貨三枚だって、はっきり言ってたよな」
見物人が口々に声を上げた。透は時計を掲げたまま、ゆっくりとボルクに向き直った。
「十倍で、金貨三十枚です」
「ふざけるな!」
ボルクが台を叩いた。椀が跳ねて地面に転がった。
「そんな札は」
そこで、また声が止まった。ただの飾りだとでも言いたかったのだろう。札を立てたのはいかさまを見破れる者などいないと高をくくっていたからだ。払うつもりなど、最初から一枚もなかった。だからその言葉は声にならない。ボルクは喉を押さえて、恨めしそうに祠の灯明を睨んだ。見物人の誰かが噴き出して、それが笑い声になって広がっていった。
ボルクの顔から、すっと表情が消えた。
「おい」
低い声で、台の後ろの手下二人に呼びかける。手下たちが腰の後ろに手を回した。抜かれたのは刃の厚い短い刃物だった。ボルクも懐から同じものを引き抜いた。見物人の笑い声が悲鳴に変わって、人だかりがさっと割れた。
「書いたもんは書いたもんだ。払えと言うなら、まずはそいつを取り立ててみやがれ、兄ちゃん」
透が半歩下がった。その前に、伊吹が出た。
手首から黒い髪ゴムを抜き取る。伊吹は刃物を構えた三人を順番に見ながら、髪を後ろでひとまとめにして、きゅっと結んだ。それからボルクの顔をまっすぐに見た。
「刃物しまってください。今なら、まだ間に合いますよ。次に一歩でも近づいたら、容赦しない」
「小娘がなめた口を」
右の手下が踏み込んできた。
伊吹は刃が届く前に相手の手首を掴んで、そのまま体ごと回した。男の体が宙に浮いて、背中から石畳に落ちる。左から来たもう一人の膝を蹴り払って、倒れかけた首筋に肘を落とす。二人目が地面に伸びたときにはボルクの刃物が伊吹の脇腹めがけて突き出されていた。伊吹は半身でそれをかわして、太い手首を両手で捕まえた。ひねる。ボルクの体がくの字に折れて、刃物が音を立てて落ちた。
伊吹はボルクの腕を背中にねじり上げたまま、膝で地面に押さえつけた。
「痛え、痛え、離せ!」
そのときボルクの袖口から何かがころりと転がり出た。
小さな、光る木の実だった。灯実だ。石畳の上で一度跳ねて、透の靴の先で止まった。見物人が息を呑んで、それから誰も何も言わなくなった。てらてらと光っていた袖口の内側に、油を塗った小さな隠しが縫いつけてあるのが見えた。
「謝ってください」
伊吹はボルクの耳元で言った。自分でも声が震えているのが分かった。怒りで震えていた。
「さっきの子に。ネネに、ちゃんと謝って」
「わ、分かった、分かったから。ネネ、わる」
声が止まった。
ボルクの喉で、悪かった、の続きが引っかかっていた。言わされているだけで、少しも悪いと思っていないのだ。伊吹はボルクの腕をもう一段ねじり上げた。
「あんた、本気で謝ることもできないの? あの子、あんたのために毎日走り回ってんのよ。朝から晩まで働いて、藁の中で寝て、客の食べ残しかじって、それで蹴られて、手首焼かれて、それでも泣かないのよ! なんで、ごめんの一言も言えないのよ!」
「伊吹」
透の声がした。伊吹は唇を噛んで、腕をねじる手を止めた。これ以上ひねったら、本当に折れる。折れてもいいと思っている自分がいて、それが少しだけ怖かった。
衛兵が駆けつけてきたのはそのすぐあとだった。
槍を持った衛兵が三人、人だかりをかき分けて入ってきた。若い衛兵が一人、先頭に立っていた。地面に転がった男三人と、その一人を膝で押さえつけている伊吹を見比べて、目を丸くしている。
「な、何があった。誰が先に手を出した」
「先に刃物を抜いたのは、あっちだ」
見物人の一人がボルクを指さして言った。祠の軒下からの灯りがまだここまで届いている。神前だ。その言葉ははっきりと声になった。
「俺も見た。その娘さんはしまえって言ってたよ」
「三つとも空の椀で、ずっと金を巻き上げてやがったんだ。袖から灯実が出てきたのを、みんな見てる」
次々と声が上がった。一つ残らず、まっすぐに声になった。若い衛兵はしばらく呆然としていたが、やがて咳払いをして、ボルクと手下たちに縄をかけるように仲間に言いつけた。それから伊吹のほうをちらりと見て、なぜか慌てたように目を逸らした。
縄をかけられたボルクの前に、透がしゃがみ込んだ。
「金貨三十枚。払えますか」
ボルクは答えなかった。払えないのだ。払えると言えば、声にならない。
「十倍のうち、半分は勘弁します」
透が言った。ボルクが驚いたように顔を上げた。
「その代わり、そこの祠の軒下で誓ってください。ネネに、二度と手を上げない。足でも、物でも、誰かに言いつけてでも。それができるなら、残りの金貨十五枚だけで手を打ちます」
「分かった」
その一言はちゃんと声になった。
「ちょっと待って」
伊吹は透の腕を掴んだ。
「それだけ? ネネの誓いは? ここで、あいつに『もういい』って言わせればいいじゃない。あの子を解放させなさいよ。今なら言わせられるでしょ!」
「言わせても声にならないよ」
透は伊吹を振り返った。
「ここは神前なんだ。ボルクが本心からもういいと思わない限り、その言葉は出てこない。さっきの謝罪と同じだよ。脅して言わせられるのは、本当に思ってることだけだ」
「じゃあ、どうすんのよ。このまま、あの子をこいつのところに置いとけって言うの?」
「今はそうするしかない」
「透!」
「伊吹」
透はまっすぐに伊吹を見返した。
「解放させたとして、ネネは今夜、どこで寝るの」
伊吹は言葉に詰まった。昨日の夜、祠の灯明の前で自分が何を言ったのか、まだはっきり覚えていた。あの子の明日の寝る場所を用意できるようになったら、その日に。伊吹は唇を噛んで、透の腕を離した。
「……分かってるわよ」
それ以上は何も言えなかった。悔しかった。透が正しいのが一番悔しかった。
ボルクは衛兵に引かれて祠の軒下に立ち、灯明の前で誓いを立てた。ネネに二度と手を上げない。足でも、物でも、人に言いつけても。一言一句、透が言ったとおりに繰り返した。言い終えると、ボルクの手首にうっすらと赤い印が浮かんだ。ネネの手首にあるのと同じ形だった。
ネネは祠の石段に座っていた。
伊吹が隣に腰を下ろすと、ネネは蹴られた脇腹を押さえたまま、ぎこちなく笑った。袖をまくると、腕にも大きな痣ができていた。伊吹はポケットから昨日の軟膏の壺を取り出して、そっと塗っていった。
「大丈夫、痛く」
言いかけたところで、胸の奥がちくりと焼けた。
伊吹は顔をしかめて、言葉を飲み込んだ。痛くないわけがない。ネネの脇腹は赤黒く腫れていて、触れるたびに小さな肩がびくりと揺れる。痛くない、なんて、言えるはずがなかった。
「……痛いよね。でも我慢しな。すぐ効くから」
「うん」
ネネは小さく頷いた。伊吹は軟膏を塗り終えると、壺の蓋を閉めて、ネネの手をぎゅっと握った。
「ネネ。一緒に来る?」
言ってしまってから、自分でも驚いた。昨日、あれだけ透に言われて、自分でも分かっていたはずなのに。ネネは伊吹の手を握り返して、それからゆっくりと首を横に振った。
「行けないよ。ネネ、誓ったもん。それにボルクさん、もう蹴らないって誓ったんでしょ。だったら、ネネ、平気だよ」
「平気じゃないでしょ」
「平気だよ。お姉ちゃんのおかげで、平気になったんだよ」
ネネはそう言って、前歯の抜けた口で笑った。それから少しだけ迷うように目を泳がせて、小さな声で聞いた。
「お姉ちゃん。いつか、ネネのこと、迎えに来てくれる?」
伊吹は口を開きかけて、閉じた。来る、と言いたかった。必ず来る、と言ってやりたかった。でもいつ来られるのか、本当に来られるのか、今の伊吹には何も分からなかった。守れるかどうか分からない約束だけは、この子にしたくなかった。
「……覚えとく」
ネネはきょとんとして、それからうれしそうに、何度も頷いた。そんな曖昧な返事で、この子は喜んでくれる。そう思ったら胸の奥がきゅっと痛んで、伊吹はネネの手をもう一度強く握った。
祠を離れるとき、伊吹はふと人混みの中に視線を感じた。
見物人の輪の外側に、一人の少女が立っていた。伊吹たちと同じくらいの歳で、すすけた鼠色の鳥打ち帽を目深にかぶっている。指の上で銅貨を一枚、くるくると転がしていた。こちらを見て、面白いものを見つけたように、くすりと笑っていた。伊吹が瞬きをすると、もうそこには誰もいなかった。どんな顔の子だったのか、思い出そうとしても思い出せなかった。指の背を渡っていく銅貨の光だけが、妙に目に残っていた。
宿へ戻る道はもうすっかり暗くなっていた。
二つの月が石畳を白く照らしている。透は腕時計を左手首に戻して、懐の金貨の袋をときどき確かめるように叩いていた。伊吹はしばらく黙って隣を歩いていたが、我慢できなくなって口を開いた。
「最初から、全部分かってたの」
「二回負けるまでは、分かってなかったよ」
「嘘でしょ」
「本当だよ」
伊吹は透の顔を覗き込んだ。瞬きは止まらなかった。
「一回目で椀の動きを見て、二回目でボルクさんの手を見た。わざと早く選んだら、灯実が出てくるのが遅れたんだ。椀の下から出したんじゃなくて、袖から落としてたから。それで、三つとも空なんだって分かった」
「あの油、神頼みじゃなかったでしょ」
「頼んだ相手は神さまじゃなくて、祠のおばあちゃんだけどね。合図をしたら一番大きな灯明に、一番太い芯で火を入れてくださいって。灯りが届くところまで神前になる。ボルクさんは昼の境目しか見てなかった」
「昨日、蝋燭持ってぐるぐる歩いてたの、それ」
「うん。あの芯の太さなら、台まで届くかどうか、確かめておきたかったから」
伊吹は鼻を鳴らした。散歩が聞いて呆れる、と昨日思ったことを、もう一度思った。それから少しだけ声を落とした。
「ネネの話、聞いてたんだ。昨日、私とボルクがやり合ってたとき」
「聞いてた」
「そっか」
伊吹はそれ以上何も聞かなかった。透がどこまで考えて、何を黙っているのか、全部は分からない。それでもあの台の前で伊吹の手首を掴んでいた透の拳が白くなっていたのは、嘘じゃなかった。
「ていうか、宿代、全部なくなったんだけど」
「金貨十五枚になって戻ってきただろ」
「それ、円にしたらいくらなのよ」
「千五百万くらいかな」
「……え?」
伊吹は立ち止まった。透は笑いながら先に歩いていく。伊吹は慌ててその背中を追いかけた。
「ちょっと、透! それ、ちゃんと計算した? 銅貨が百円で、銀貨が」
「宿代と、伊吹の服の分は残して、あとは大事にしまっとくよ。明日はさすがにその格好じゃまずいから」
「明日?」
透が振り返った。二つの月を背にして、少しだけ真面目な顔をしていた。
明日の正午は名乗りの儀だった。




