第8話 灯実当て
三日目の朝、透は市場の入口の油屋で、灯実の油を一瓶買った。
手のひらに収まるくらいの、素焼きの小さな瓶だった。油屋の主人は透が差し出した銅貨を一枚ずつ数えて、満足そうに瓶に栓をした。伊吹はそれを横で見ていて、自分の目を疑った。透が払ったのは宿代として残しておいたはずの銅貨だった。
「ちょっと。それ、宿代でしょ。宿代で、油?」
「神頼み」
「は?」
「だから神頼み。こっちの世界の神さまは、灯が好きらしいから」
透は瓶を懐にしまうと、さっさと祠のほうへ歩き出した。伊吹は残りの銅貨を頭の中で数えた。今夜の分はもうぎりぎり足りるかどうかだ。円に直すと六百円も残っていないかもしれない。昨日ネネに言われた「お金、大事にしなきゃだめだよ」を、今になって思い出した。
祠の石段では今日も祠守のおばあさんが日向ぼっこをしていた。透は瓶を両手で差し出して、何か小声で話しかけた。伊吹のいるところまでは聞こえなかった。おばあさんは瓶を受け取って栓を抜き、匂いを確かめると、皺だらけの顔をくしゃっとさせて何度も頷いた。うれしそうだった。透が頭を下げると、おばあさんも同じくらい深く頭を下げ返した。
「何頼んだの?」
「内緒」
即答だった。伊吹が文句を言おうとしたとき、祠の脇の通りから馬の蹄の音がした。
栗毛の馬を引いた、乗馬服の少女だった。伊吹たちと同じくらいの歳で、栗色の髪を一つに束ね、背筋がまっすぐに伸びている。後ろには白髪の老人が一人、黙って付き従っていた。少女は祠の前で足を止めると、迷いもなく透の顔を見た。
「昨日の夕方、風の中で蝋燭の火を見ていた方ですね。祠の周りを、何度も行ったり来たりしていた」
「見られてましたか。恥ずかしいな」
「境目を測っていたのでしょう。火が揺れなくなるところから内側が神前になる。昼の境目は石の色で分かりますが、夜の境目は灯明の明るさで変わります。それを自分の目で確かめようとした人を、私は初めて見ました」
「本で読んだだけじゃ、どうしても信じきれない性分なんです。灯明の芯を太くしたら、境目はどこまで広がるのか。風が強い日はどうなるのか。祠守さんに聞いても、半分くらいは『そういうもんだよ』で終わっちゃって」
「祠守は理屈を知らずとも、火の機嫌は知っています。それで十分なのです」
「確かにそうかもしれません」
透は穏やかに笑った。少女もほんの少しだけ口元を緩めた。二人はそれから神前で立てた誓いはどこまで人を縛るのか、言葉と文字では何が違うのかを、伊吹にはついていけない早さで話し続けた。難しい授業を横で聞かされているみたいだった。伊吹は少し離れた石段に腰かけて、二人の横顔を眺めていた。透は自分が何をしているのか伊吹には一言も教えてくれないくせに、この子とは楽しそうに喋る。瞬きは一度も止まらない。嘘を一つもついていないのだ。それが分かってしまうのがなぜか面白くなかった。
そのとき祠の前の通りを、果物売りの女が籠を抱えて通りかかった。
「今朝もいだばかりの林檎だよ! 甘いよ!」
少女がちらりとそちらを見た。
「今のお言葉は、少しだけ傾いておりましたわ」
「傾いてる?」
透が聞き返すと、少女は籠の底のほうへ目をやった。
「上の林檎は、確かに今朝のものでしょう。けれど下のほうは、きっと昨日の残りです。あの方は嘘をついてはおりません。それでも、心と言葉が少しだけ食い違っている」
透は果物売りを呼び止めて、銅貨を一枚渡した。籠の一番下から林檎を一つ取り出す。へたがすっかり乾いていた。果物売りは悪びれもせずに笑った。
「今朝もいだのは上のほうさ。嘘は言ってないよ」
透は乾いたへたを指でつまんだまま、少女のほうを向いた。
「どうして分かったんですか?」
「人の胸には、灯がございます」
少女は自分の胸に、そっと手を当てた。
「口にする言葉と心が同じ向きなら、灯はまっすぐに立っております。食い違えば、天秤の皿のように、どちらかへ傾く。嘘でなくとも、です。わたくしには生まれつき、その傾きが少しだけ感じ取れますの。神前で声になる言葉でも、傾いていることはございますのよ」
伊吹は石段に座ったまま、思わず背筋を伸ばした。嘘でなくても分かる。それはつまり、本当のことだけを並べて人をだます言い方まで、この子には見えるということだった。
やがて少女は手綱を引き直して、透をまっすぐに見た。
「あなたの言葉には、傾きがない。……珍しいことです」
それだけ言うと、名乗りもせずに馬を引いて去っていった。老人は透と伊吹のほうへ向き直り、右手の指先を左の胸に軽く添えて、浅く頭を下げた。どこかで見たことのある礼だった。透が一瞬だけその手元を見つめたのを、伊吹は見た。透は何も言わず、老人は静かに少女の後ろに続いていった。
「傾きがないって……要するに、言ってることと思ってることがずれてないってこと?」
「たぶんね。褒められたんだと思うけど」
透は少女の背中を見送りながら、手の中の林檎を転がしていた。笑っているのに、どこか考え込んでいるようにも見えた。少しして、透は伊吹のほうを振り返って、何かに気づいたように目を細めた。
「伊吹、もしかして、やきもち?」
「うるさい」
自分でも驚くくらい、早く声が出た。透が笑いをこらえているのが分かって、伊吹はもう一度「うるさい」と言った。
夕方、市場の端にはいつもの人だかりができていた。
ボルクの台は祠のすぐそばにあった。昨日まで気にも留めていなかったが、こうして見ると、台が置かれているのは飴色の石畳の、ちょうど一歩外だった。神前の境目から、半歩もずれていない。台の正面には板の札が立てかけてあって、太い字で何か書いてある。
「いかさま無し。見破った者には十倍払う」
透が小声で読み上げた。伊吹には読めない字だった。
「書いてあるだけでしょ、それ」
「うん。書いてあるだけ」
台の向こうで、ボルクが三つの木の椀を伏せていた。灯実を一粒、指先でつまんで見物人に見せ、一つの椀の下に滑り込ませる。椀をくるくると入れ替えて、ぴたりと止める。そして両手を大きく広げて、歌うように声を張り上げる。
「さあさあ、しかと見な。灯実はこの三つのどれかの下だ。神さまに誓ってもいいぜ」
毎回、同じ文句だった。一言一句変わらない。手を広げる角度まで同じだった。もう体に染みついていて、本人は言っていることにさえ気づいていないように見えた。
ボルクは人だかりの中に伊吹を見つけると、指輪だらけの手を止めて、にやにやと笑った。ボルクは伊吹の手首に目を落とした。王都の人たちが巻いている色とりどりの紐が、伊吹の手首には一本もなかった。
「昨日の威勢のいい嬢ちゃんじゃねえか。徳紐の一本も巻いてねえとはな。告解の謝礼も払えねえ家の娘か」
見物人の何人かが笑った。伊吹は眉一つ動かさなかった。顔が熱くなるのは分かったけれど、ここで言い返せば、困るのはネネのほうだ。台の脇で客を呼んでいたネネが心配そうにこちらを見ている。手首には今朝見たときより新しい布が巻いてあった。
「一回、いいですか」
透が人だかりの前に出て、銅貨を台に置いた。
「おう、兄ちゃん。昨日からずっと見物してただろう。いい加減、見てるだけじゃ退屈になったか」
「ずっと見てたのに、まだ一回も当てられる気がしなくて。だからやってみようと思って」
ボルクは機嫌よく笑って、椀を回した。透は椀が止まると、しばらくじっと三つを見比べてから、真ん中を指さした。
ボルクが椀を持ち上げる。空だった。右の椀の下から、灯実がころりと転がり出た。
「惜しかったな、兄ちゃん」
透は表情を変えずに、もう一枚銅貨を置いた。椀が回る。今度は止まった瞬間に、ほとんど迷わず左を指さした。空だった。
「ちょっと、透!」
伊吹は思わず透の袖を掴んでいた。
「今の、ちゃんと見てなかったでしょ。止まった瞬間に選んだじゃない。それ、宿代の残りよね? 今夜、どこで寝んのよ。また路地で野宿する気?」
「見てたよ」
「どこを!」
「ボルクさんの手」
透はそれだけ言うと、伊吹の手をそっと袖からはずして、またボルクのほうに向き直った。手元を見て、足元を見て、それから祠のほうを見る。また手元に戻る。伊吹もつられて、透が見ているものを見た。
ボルクの袖口だけが油を塗ったようにてらてらと光っていた。椀を回し終えたあとの右手の指はずっと軽く握られたまま開かない。台の周りを歩き回るとき、ボルクは飴色の石を一度も踏まなかった。見物人の中に、さっきから何度も勝っている男が一人いた。その男の靴には台の後ろの手下たちと同じ赤い泥がこびりついていた。
一つずつは何でもないことだった。それが何を意味するのか、伊吹には分からなかった。ただ透がそれらを順番に見ていくのだけは分かった。
ボルクがそれに気づいた。
ボルクは椀を回す手を止めて、ゆっくりと首を回し、透の視線の先を追った。自分の袖口を見下ろしてから、台の脇に立つネネに目を移した。ボルクの顔から笑いが消えた。
「ネネ。てめえ、喋ったな」
「え」
「昨日から、こいつらとずっとつるんでやがっただろう。何を喋った。言え」
「しゃべってないよ、ネネ、何も」
言い終わる前に、ボルクがネネの腹を蹴り上げた。小さな体が地面を転がって、水瓶にぶつかって止まる。見物人の間から短い悲鳴が上がった。
「誓いを忘れたか。俺の商売の邪魔をしたら、また焼けるぞ」
ネネの手首の布の下で、印が赤く光った。ネネは体を丸めたまま、手首を押さえて歯を食いしばっていた。泣かなかった。泣かないことに、慣れていた。
伊吹の中で何かが切れた。
気づいたときには一歩踏み出して、拳を固く握りしめていた。台までは三歩。ボルクの顎の位置も、手下の二人がどちらから回り込んでくるかも、全部見えていた。
その手首を、透が掴んだ。
「まだだ」
「離して」
「伊吹、まだだ。全部取る」
「まだって何よ! ネネが蹴られてんのよ! あんた、見えてないの? あの子、今、手首焼かれてんのよ!」
自分の声が震えているのが分かった。透の手を振り払おうとした。振り払えなかった。いつもなら簡単にほどける力だったのに、透は伊吹の手首を強く掴んだまま、少しも力を緩めなかった。
「見えてる」
透の声は低かった。いつもの穏やかな声ではなかった。
「見えてるから言ってるんだ。今ここで伊吹があいつを殴ったら、あいつは衛兵を呼ぶ。伊吹が牢屋に入って、ボルクは明日もここで椀を回して、ネネは明日も蹴られる。それじゃ何も変わらない。あいつの台を、ここで終わらせる。二度とネネに手を出せないようにする。だからあと少しだけ待ってくれ」
伊吹は透の顔を見た。唇の色がなかった。透も拳を握っていたのだ。伊吹の手首を掴んでいないほうの手が、白くなるくらい強く。
伊吹は長く息を吐いて、拳をほどいた。
「……あと少しって、どれくらい」
「すぐだよ」
透は伊吹の手首を離すと、何事もなかったように台の前に戻った。左手の袖をまくって、腕時計の留め金をはずす。
「これを賭けたい」
透が台の上に腕時計を置いた。夕日を受けて、銀色の文字盤がきらりと光った。細い針が音もなく回り続けている。見物人がどよめいて、後ろのほうの人たちが首を伸ばした。ボルクも目を見開いて、指輪だらけの手で時計を持ち上げた。耳に当てて、かすかな音を聞いて、もう一度文字盤を覗き込む。
「何だこりゃあ。どこの細工だ」
「東方の細工ですよ。向こうじゃ、そう珍しいものでもないです」
透の瞬きが一度だけ止まった。
嘘だ。神前の外だから、声にはなる。ボルクはまるで気づかずに、時計を手の中で転がしていた。
「それ、高いんじゃないの」
伊吹は小声で聞いた。時計に詳しくない伊吹にも、高級であることはわかっていた。
「使ってないから」
透は短く答えた。それからボルクに向かって声を張った。
「この時計に、あなたが値をつけてください。ここにいるみんなの前で。いくらなら、この一回を受けてくれます?」
ボルクは唇を舐めた。どうせ勝つのだ。高く値をつけるほど、自分の懐に入る。見物人の手前、けちな値もつけられない。ボルクがそう計算しているのは顔を見ればすぐに分かった。
「金貨三枚だ。見物の衆、聞いたな。この細工に、俺は金貨三枚の値をつけた」
見物人がまたどよめいた。伊吹は頭の中で円に直しかけて、桁が大きすぎてやめた。
ボルクが椀を伏せた。灯実をつまんで見せ、真ん中の椀の下に滑り込ませる。くるくると、いつもより長く回す。止める。
そのとき透が台の上の腕時計を取り上げて、高々と掲げた。
「みんな、よく見ててくれ。これが金貨三枚の時計だ!」
見物人が一斉に時計を見上げた。ボルクも得意そうにそれを見上げた。
伊吹だけがその向こうを見ていた。
ボルクの背後、祠の軒下で、おばあさんが立ち上がっていた。今朝、透が渡した素焼きの瓶を傾けて、軒の一番大きな灯明に油を注いでいる。いつもより太い芯に、火打ちの火が移った。ぼっ、と音がして、炎が大きく伸びた。まだ日は沈みきっていないのに、その灯りは飴色の石畳を越えて、市場の端まで届いた。
隣の屋台に置かれた蝋燭の火がぴたりと揺れなくなった。風は吹いているのに、炎がまっすぐに立っている。昨日の夕方、透が蝋燭を持って祠の周りを歩いていたときと、同じ止まり方だった。
伊吹は息を呑んだ。
ボルクは何も気づいていなかった。背中の灯りにも、止まった炎にも。台は昼の境目の一歩外にある。ボルクはそう信じきって、両手を椀の上にかざしている。
「さあ、兄ちゃん。選びな」
「その前に、いつものやつ、言ってくれませんか」
透は時計を下ろして、人懐っこく笑った。
「あれを聞かないと、賭けた気がしないんですよ。昨日から何十回も聞いてたら、すっかり耳に馴染んじゃって」
「はっ、物好きな兄ちゃんだ」
ボルクは鼻で笑って、いつものように両手を大きく広げた。体に染みついた角度で。一言一句変わらない、あの口上を言うために。
「さあさあ、し」
そこで声が途切れた。
ボルクの口はまだ動いていた。しかと見な、灯実はこの三つのどれかの下だ。唇の形で、伊吹にもそう言おうとしているのが分かった。それなのに声だけがどこにも出てこなかった。




