第7話 下調べ(後半)
宿に戻ると、透が寝台に腰かけて待っていた。
制服のズボンの裾に市場の土埃がついていて、なぜか袖口が濡れていた。足元にはさっき台の前で抱えていた紙袋が置いてある。透は伊吹の顔を見るなり、何かあったと察したらしかった。それでも何も聞かなかった。代わりに、少しだけ明るい声で言った。
「聖女ってさ、ひと言で言うと、この大陸の公証役場と最高裁判所を、一人で兼ねてる人なんだよ」
伊吹は寝台の向かいに腰を下ろした。ボルクの帳面のことで、頭はまだ熱かった。それでも透の声を聞いていると、少しだけ息がつけた。
「コーショーヤクバって何」
「約束が本物だって証明してくれるところ。家を買うとか、お金を貸すとか、大事な約束をちゃんと書類にして、判子を押してもらう場所。こっちの世界だと、それが全部、聖女の神前なんだ」
透は指を一本ずつ折っていった。
「国と国の条約。王様の跡継ぎ。大きな裁判。大きい商会同士の契約。全部、聖女の神前で誓って初めて本物になる。神前じゃ誰も嘘をつけないし、聖女が執り行った誓いは破れない。だからこの大陸の大きな約束は、最後は全部、聖女のところに集まってくる。祠が町の小さな裁判所なら、聖女は大陸の最高裁ってこと」
「昨日の祠のやつの、もっと大きいのってことね」
「そう。だから、どの国も自分のところから聖女を出したがる。嘘はつけなくても、どの誓いを先に受けるかとか、どの裁判に立ち会うかは、聖女が選べるから。自分の国の聖女がいれば、それだけで大陸じゅうで一歩前に立てる」
「汚っ」
「うん。お祭りの顔をした政治だって、酒場の前で樽を運んでたおじさんたちが笑ってた」
透は少しだけ声を落とした。
「ルーヴェもね、何十年も前に、大きな隣の国とすごく損な条約を結ばされてるらしいんだ。そのときの聖女の神前で。誓いは破れないから、ずっと払い続けてる。でも、聖女なら誓いを解ける」
伊吹は屋敷の食堂を思い出した。ぎりぎりの数のパンと、司祭の震える手と、布袋の中の銀貨一枚。
「だから、あの人たち、あんなに必死だったんだ」
「たぶんね。あの魔導師は別として」
透は窓の外に目をやった。宿の屋根の向こうに、大聖堂の尖塔が白く突き出ている。てっぺんの大きな火は夕方の光の中でも揺れずに燃えていた。
「祠のおばあさんが、昔話もしてくれたよ。五十年くらい前の話」
「昔話?」
「東のほうに、小さな国があったんだって。その国が、隣の大きな国と和平の誓いを結んだ。そのときの聖女の神前で。でも、その誓いが破られた。破られた夜に、その国は灯ごと消えたんだって。町も、人も」
伊吹は息を止めた。
「誰が破ったの」
「それが、どこにも残ってないんだって。どっちの国が破ったのか、記録に書いてない。おばあさんも知らなかった。ただ、王都の年寄りはみんな、誓いを破るとそうなるって知ってる。だから神前の誓いを、誰も馬鹿にしない」
灯ごと消えた。伊吹は自分の胸に手を当てかけて、やめた。ネネの手首の火傷を思い出した。誓いを破れば、焼ける。国ごと、焼けることもあるのだ。
「聖女の仕事って、それで全部? 約束の見張り番みたいなの」
「それがね、もう一個あるんだ。たぶん、こっちのほうが大事」
透は尖塔の火を見たまま言った。
「屋敷の門の外で、空を泳いでたでっかいの、覚えてる?」
「夜渡り。忘れるわけないでしょ。山みたいなのが、音もしないで飛んでたんだよ」
「あれ、魔物なんだって。この世界には魔物がいて、夜になると灯に寄ってくる。蛾が電灯に寄ってくるのと同じ。でも、大聖堂の大灯の光が届くところには入ってこられない。光に触れると焼けるから、周りをぐるぐる回るだけで帰っていく。村や町の祠の火も、小さい壁みたいなものなんだって。祠のない村は、夜になると戸を全部閉めて、朝まで息をひそめてるらしい」
伊吹は昨日の祠の灯明を思い出した。燭台の大きさのわりに、少しだけ頼りなく見えた火。最近ちっちゃくなったって、みんな言ってる、というネネの声。
「その大灯を守ってるのが、聖女」
「うん。それから、もっと大きいのもいる」
透は少しだけ間を置いた。
「魔王」
「は?」
「ずっと北の果てに封じられてて、何十年かに一回、目を覚まそうとするんだって。その封印を補強できるのも、聖女だけ。聖灯をたくさん使う、大奇跡っていうのがあるらしい」
「待って。魔王って、あの魔王? ゲームのラスボスの?」
「たぶん、あの魔王。それでね、魔王が動き出しそうになると、神殿が勇者を選ぶんだって。勇者と、戦士と、魔法使いと、賢者と。それで討伐隊を組む。選ばれた人は、聖女の神前で叙任されて、大陸じゅうが認める本物の勇者になる。公認の勇者だよ、公認の」
透は話しているうちに、明らかに声を弾ませていた。
「……なんで、ちょっと嬉しそうなの」
「いや、嬉しいとかじゃなくて。ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけ、ゲームみたいだなって」
「こっちは胸に変な火入れられてるんだけど」
「ごめん」
透はしゅんと肩を落とした。一喜一憂が全部顔に出るところは本当に昔のままだった。
伊吹は透の顔をじっと見て、それから目を細めた。
「ていうか、ちょっと待って。なんであんた、一日でそんなに詳しくなってんの。字だって読めないはずだよね。どこで、誰に、何聞いてきたの」
透は少しだけ目を逸らした。
「えっと。まず、坂の上の祠で、祠守のおばあさんが井戸から水を汲んで運ぶのが大変そうだったから、手伝ったんだ。十往復くらい。そしたらお茶を出してくれて、祠の火のことと、魔物のことと、昔の聖女様のことを、お茶二杯ぶん話してくれた」
伊吹は透の濡れた袖口を見た。
「それから、広場で子どもたちが手遊び歌をやってて。勇者は剣で、魔法使いは杖で、聖女は灯をかかげて、っていう歌だったから、意味を聞いたら全部教えてくれた。最後に、酒場の前で樽を運んでるおじさんたちを手伝って、そのまま政治の話を聞いた。お金は、蝋燭のほかは一枚も使ってない」
伊吹は呆れていいのか感心していいのか分からなかった。昔からそうだった。透は人の懐にするりと入り込むのがやたらとうまい。泣き虫で伊吹の後ろに隠れていたくせに、初対面の大人とだけは、なぜか平気で話せる子だった。
「……で、そのおばあさんとかおじさんたちに、あんた何者だって聞かれなかったの」
「聞かれたよ。遠いところから来た者です、って答えた」
「嘘じゃん」
「嘘じゃないよ。遠いところから来たのは本当でしょ。ものすごく遠いところから」
透はにこりと笑った。伊吹は笑わなかった。
「それ、嘘はついてないけど、全部は言ってないってやつだよね」
透は笑顔のまま、少しだけ固まった。
伊吹は嘘をつく人間が嫌いだった。でも嘘をつかずに人を騙す人間はもっと嫌いだった。すぐ戻ると言って病院の廊下を出ていった背中を、伊吹はまだ覚えている。あの人も言葉の上では一度も嘘をついていないつもりだったのかもしれない。
「分かってる」
透は小さく言った。さっきまでの弾んだ声とは違う、低い声だった。
「本当のことを全部言ったら、たぶん俺たちはこの街にいられなくなる。だから外の人には、これからもこういう言い方をすると思う」
透は顔を上げて、伊吹の目を見た。
「伊吹には、なるべくしないようにする」
なるべく、というところが引っかかった。それでも伊吹は口には出さなかった。透の瞬きは止まっていなかった。
「……で、試練の話は」
伊吹はわざとぶっきらぼうに話を戻した。
「なんで試練なの。政治なんだったら、偉い人たちが集まって話し合って決めればいいじゃん。わざわざ女の子同士を競わせて、負けたら灯を取り上げるとか、意味分かんない」
「理由は二つあるんだって。これは祠守のおばあさんと、酒場のおじさんたちの両方から聞いた」
透は指を二本立てた。
「一つ目。偉い人たちが話し合ったら、一番大きくて強い国が勝つに決まってる。だから嘘のつけない神前で、全員に同じ決まりで競わせる。王女でも貧民街の子でも、条件は一緒。そうしないと、負けた国が絶対に文句を言うから」
「二つ目は」
「聖女の力って、聖印をもらっただけじゃ全部は使えないんだって。試練を一つ越えるたびに、力が一つずつ目覚めていく。試練は選ぶためのものでもあって、聖女を育てるためのものでもある。大灯を守って、魔物を退けて、いつか魔王の封印まで支える人を、ひと月で育てなきゃいけないんだから、甘い試練じゃ間に合わない。負けた候補にも、それまで越えた試練の力は残るらしいよ」
「部活の大会みたい」
「近いかも。全国大会で優勝した人が、そのままその競技の神様になる感じ」
「重っ」
伊吹は思わず顔をしかめた。けれど頭のどこかで、昨日の祠の前の光景がよみがえっていた。嘘が喉の途中で止まった商人の青ざめた顔と、ほっとしたように笑っていた人だかりと、銀貨を握りしめて頭を下げていた痩せた男。嘘つき放題になっちゃう、というネネの声。祠のない村では夜になると戸を全部閉めて、朝まで息をひそめている、という透の話。
「ねえ」
「うん」
「あの火があるから、ネネみたいな子が、ボルクみたいなやつに全部は騙されずに済んでるってことだよね。夜に魔物が来ても、祠の近くなら朝まで眠れるってことだよね。全部じゃなくても、ちょっとは」
透は少し驚いたように伊吹を見た。それからゆっくり頷いた。
「うん。たぶん、そういうことだと思う」
「だったら、勝つ理由が一個増えた」
伊吹は膝の上で拳を握った。
「帰るためだけじゃなくて。あの火がちっちゃくなってくのを、黙って見てるの、なんか嫌だから」
日が沈むころ、透は紙袋から安物の蝋燭を一本取り出して、宿を出た。伊吹もついていった。
祠の軒下の灯明にはもう火が入っていた。祠に着くと、透は蝋燭に火をつけて、祠のまわりをゆっくりと歩き始めた。飴色の石畳の外では蝋燭の火は夕風にちらちらと揺れていた。それが飴色の石を一歩踏み越えたとたん、ぴたりと止まって、まっすぐに立つ。透は一歩下がって、また一歩進んだ。揺れて、止まる。揺れて、止まる。それを何度も繰り返してから、靴の先で境目の石を一つずつ軽く叩いて回っていた。
ひとしきり歩き終えると、透は祠の石段に座っている祠守のおばあさんの隣に腰を下ろして、話し込み始めた。灯明に使う油はどこで買うのか。一瓶いくらで、一晩でどれくらい減るのか。芯は太いほうが長持ちするのか、細いほうが火が安定するのか。おばあさんは呆れたように、それでも少しうれしそうに、一つ一つに答えていた。
伊吹は少し離れたところで、腕を組んで待った。待ちきれなくなって、二人の前に立った。
「おばあさん。聞きたいことがあるんです。ネネのことなんですけど」
おばあさんは皺だらけの目を細めて、伊吹を見上げた。
「ああ、昼間の騒ぎかい。市場の噂は早いからね」
「ネネの誓い、ここで立てたんですよね。見てたんですか」
「見てたさ。この祠で立てる誓いは、全部あたしが見届けてる。もう二年になるかね。あの子がまだ七つのときだよ。母親の薬代が払えなくて、ボルクのところへ借りに行ったんだ。ボルクが誓いの文句を言って、あの子はそれを、言われたとおりに繰り返した」
おばあさんは灯明のほうを見たまま、しばらく黙った。
「薬は間に合わなかったけどね」
伊吹は息を止めた。透も何も言わなかった。
「お嬢さん、一つ教えといてあげようか。あの子はね、借りを返すまでボルクの言うことを聞くと誓ったと思ってる。でもね、あの子が繰り返した文句は、そうじゃなかった。ボルクがもういいと言うまで、だよ」
「もういいと言うまで……」
「借りがいくらになろうが、返し終わろうが関係ないのさ。ボルクが言わない限り、あの子は一生あのままだ。あたしは止められなかった。誓いの文句に口を挟むのは、祠守の仕事じゃないからね。今でもね、あの晩のことは夢に見るよ。あの子は分かってない。分かってないから、毎日、帳面の数字が減るのを待ってるんだ」
灯明の火はまっすぐに立っていた。おばあさんの言葉は一つも欠けずに声になった。ここは神前だ。全部、本当のことだった。
伊吹は踵を返した。
「伊吹」
「今から行ってくる。あの子を連れ出す」
「行って、どうするの」
透の声は静かだった。それが余計に腹立たしかった。
「分かんないよ! 分かんないけど、あんな話を聞いて、黙って宿に帰れるわけないでしょ!」
「伊吹が連れ出したら、ネネは焼かれる。逃げてる間、ずっとだよ。今夜は宿に泊められたとしても、明日は? あの銀貨、あと何日もつか、伊吹のほうがよく分かってるはずだ」
「分かってる! 分かってるから、腹が立つんでしょ!」
伊吹の怒鳴り声が祠の軒下に響いた。伊吹は拳を握りしめたまま、肩で息をした。透は目を逸らさなかった。いつもの穏やかさはどこにもなかった。伊吹と同じくらい、悔しそうに唇を噛んでいた。
伊吹はゆっくりと拳をほどいて、市場のほうを見た。暗い通りの向こうに、ボルクの物置がある。今ごろネネは藁をかぶって、焼けた手首を抱えて眠っているのだろうか。昨日塗ってあげた軟膏の上から、また新しい火傷を重ねて。
「透。私、決めた」
灯明の火の下で、伊吹は一言ずつ、確かめるように言った。
「あの子の明日の寝る場所を、ちゃんと用意してあげられるようになったら。その日に、あんな誓いは、絶対に破らせる。ボルクが泣いて謝っても、許してやらない」
嘘なら、声にならない場所だった。声は最後までまっすぐに出た。
透は少しのあいだ伊吹の顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いて、手の中の蝋燭を吹き消した。
「うん。俺もそのつもりで一日歩いてた」
「……え?」
「今日だけで、ボルクさんは四十七回、椀を回した。客が勝ったのは九回。全部、賭け金が銅貨三枚より少ないときだけだった。それと、あの台は祠から何歩離れてるか、灯明の火がどこまで届くか、油が一晩でどれくらい減るか。だいたい分かった」
透は紙袋をたたんで懐にしまうと、立ち上がって伊吹の隣に並んだ。
「明日、あの台で賭ける」
「勝てるの? ボルク、一回も負けたことないってネネが言ってたでしょ」
「だから勝てるんだよ」
透は笑った。伊吹はその横顔をじっと見た。瞬きは一度も止まらなかった。




