第6話 下調べ(前編)
翌朝、目を覚ますと透の寝台はもう空だった。枕元に、宿の帳場で借りたらしい紙切れが一枚置いてある。「昼すぎには戻る。朝ごはんは下で食べて」。昔から変わらない、几帳面な字だった。伊吹は紙を二つに折って懐にしまい、顔を洗って宿を出た。散歩の行き先を教えてくれないのなら、こっちも勝手にさせてもらうだけだ。
ネネの居場所は聞かなくても見当がついた。市場の外れの、ボルクが台を出していたあたりだ。まだ店も開ききらない通りを抜けていくと、台の裏手に古い木の小屋がくっついているのが見えた。板の隙間から藁がはみ出している。物置だった。その戸ががたつきながら開いて、中から小さな影が這い出してきた。
「ネネ」
呼ぶと、ネネは藁くずのついた頭を上げて、ぱっと顔を明るくした。
「お姉ちゃん! どうしたの、こんなに早く」
「ネネこそ。そこで寝てたの?」
「うん。ボルクさんのお店の番もできるし、屋根もあるし、いいとこなんだよ。冬はちょっと寒いけど、藁をいっぱいかぶれば平気なの」
ネネは髪の藁を払いながら、昨日と同じように平気そうに言った。伊吹は戸の隙間から物置の中を覗いた。ござが一枚と、継ぎだらけの毛布が一枚。あとは空の酒樽と、壊れた椅子が積んであるだけだった。
「今日、ネネのお仕事、手伝ってもいい?」
「え、お姉ちゃんが?」
「暇なの。連れが勝手に散歩に行っちゃったから」
嘘ではなかった。ネネは少し考えてから、うれしそうに大きく頷いた。
ネネの一日は井戸から始まった。ボルクの台の脇に置く水瓶をいっぱいにするのに、桶で六往復。伊吹が片方の桶を持つと三往復で済んで、ネネは「いつもより、ずっと早い」と目を丸くしていた。それが終わると、市場の店を回って使い走りをする。酒屋に掛けの酒を取りに行き、両替屋に銅貨の袋を届け、帰りに煙草屋で葉を買う。どの店でもネネはお金を払わなかった。ボルクさんの帳面につけといてね、と言うだけで、店の主人たちは慣れた様子で頷いた。
昼が近づくころ、ボルクが台を開いた。
ボルクが指輪だらけの太い指で、木の椀を三つ台の上に伏せる。灯実と呼ばれる小さな光る木の実を一つ、そのうちの一つに隠して、くるくると入れ替える。どの椀に入っているか当てれば、賭け金が倍になって返ってくる。それだけの遊びだった。台の後ろには腕の太い男が二人、腕組みをして立っている。
ネネの仕事はここからが本番らしかった。人通りの多い角に立って、通りがかる人に声をかける。
「灯実当てだよー! 当てたら倍になるよー! 銅貨一枚から遊べるよー!」
小さな体のどこから出るのかと思うくらい、ネネの声はよく通った。足を止めた人がいると、袖を引いて台の前まで連れていく。客が負けて肩を落とすと、ネネはほんの少しだけ目を逸らした。
昼どき、ボルクは台の向こうで串焼きの肉にかぶりついていた。ネネは何も食べずに角に立ち続けて、客が台の端に置いていった食べかけの串を見つけると、さっと拾って、残った肉をかじった。慣れた手つきだった。伊吹は何も言わずに近くの屋台で丸パンを二つ買って、一つをネネに渡した。
「お姉ちゃん、お金、大事にしなきゃだめだよ」
「大事に使ってるの。いいから食べな」
ネネはパンを両手で持って、端から少しずつかじり始めた。伊吹は自分のパンをちぎりながら、なるべく何でもないふうに聞いた。
「ネネのお給金って、どうなってるの?」
「帳面につけてもらってるよ。働いた分、借りから引いてくれてるの」
「じゃあ、お金を自分で持ったことは?」
ネネはパンをかじる口を止めて、しばらく考えた。
「……ない、かな。でもネネが持ってても落としちゃうからって、ボルクさんが」
朝から晩まで働いて、寝る場所は藁の物置で、食べるものは客の食べ残しで、一度も自分のお金を持ったことがない。それなのに借りは銀貨一枚から五枚に増えている。伊吹はパンを持つ手に力が入るのを、どうにか抑えた。
ふと台のほうに目をやって、伊吹は人だかりの後ろに見覚えのある顔を見つけた。
透だった。紙袋を一つ抱えていて、口から安物の蝋燭の先が覗いている。賭けるでもなく、帰るでもなく、ただ人の肩越しにボルクの手元を見ていた。唇がほんのわずかに動いている。何かを数えているのだ。目が合うと、透は表情を変えずに、ほんの少しだけ首を横に振った。こっちに来るな、という合図だった。伊吹は鼻を鳴らして目を逸らした。散歩が聞いて呆れる。
日が傾き始めたころだった。
市場の通りを、腰の曲がった老人がゆっくりと歩いてきた。手には小さな布の財布を大事そうに握っている。ボルクが顎をしゃくった。
「ネネ。あのじいさんだ。連れてこい」
ネネはぴくりと固まった。
「……あのおじいさん、ヨハンさんだよ。おばあさんが寝込んでて、毎日、施療院に薬もらいに行ってるの。あのお財布、薬の」
「だから何だ。早くしろ」
ネネは動かなかった。動けなかったのかもしれない。小さな拳を握りしめて、地面を見たまま立ち尽くしている。
次の瞬間ネネが短い悲鳴を上げて手首を押さえた。袖の下から、薄く煙が立っていた。肉の焦げる嫌な匂いがした。
「ネネ!」
駆け寄ろうとした伊吹の前で、ネネは顔を真っ白にしたまま首を振った。
「だいじょうぶ、お姉ちゃん。ネネ、行くから。行くから……!」
ネネが老人のほうへ一歩踏み出すと、煙はすっと消えた。伊吹はその場に立ち尽くした。止めればネネが焼かれる。止めなければ、あのおじいさんの薬代が消える。どちらも選べないまま歯を食いしばって、気づいたときには伊吹はネネを追い越して、老人の前に立っていた。
「おじいさん、薬、買いに行くんですよね。寄り道しないで、まっすぐ行ってください」
老人はきょとんとして伊吹を見上げて、それから台のほうを見て、何かを察したように小さく頭を下げた。財布を懐の奥にしまい込んで、坂のほうへ歩いていく。ネネはその背中に「ヨハンさん、灯実当てだよ」と小さな声をかけた。言いつけは守ったのだ。手首からはもう煙は出なかった。
振り返ると、ボルクが串を噛んだまま、面白くもなさそうにこちらを見ていた。
「余計なことをしやがる。客を一人逃した分は、ネネの借りに乗せとくぞ」
「は?」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
「なんでネネの借りになるの。逃がしたのは私でしょ。文句があるなら私に言いなさいよ」
「お前さんはネネが勝手に連れてきた手伝いだろう。手伝いのしくじりは、連れてきた奴がかぶる。そういうもんだ」
ボルクは台の下から分厚い帳面を取り出すと、ペンをインク壺に浸して、その場で一行書き足した。伊吹には読めない字だった。読めなくても、何をしたのかは分かった。
「あんた、その子をどれだけ働かせてるか分かってるの? 朝から晩まで走り回って、ご飯は食べ残しで、寝るのは物置で、それで借りが増えるって、どういう計算してるのよ!」
「利子だよ、利子。帳面にちゃんと書いてある」
「だったら、その帳面に書いてあることを、祠の前で声に出して言ってみなさいよ。この子の借りが、本当は今いくら残ってるのか。灯の下で、自分の口で」
ボルクは手を止めた。ほんの一瞬だった。すぐに太い喉を揺らして笑い出す。
「なんで俺がわざわざ祠まで出向かなきゃならねえんだ。書いたものは書いたものだ。それで十分だろうが」
言わないのだ。言えないから。伊吹はそれで全部分かった気がした。神前で嘘は声にならない。だからこの男は声にしなくて済むものに全部書きつけている。紙の上なら、何を書いても誰にも裁かれない。
誰かが伊吹の肩に重い手を乗せた。台の後ろにいた男の一人がいつの間にか伊吹の背後に回っていた。
「嬢ちゃん、そのへんにしときな」
男が肩を掴む指に力を込める。伊吹は振り向きもせずに、拳を握った。この距離なら、肘一つで沈められる。そう思ったとき、袖を引かれた。ネネだった。
「お姉ちゃん、だめ。お願い。ネネ、怒られちゃう」
泣きそうな声だった。伊吹は拳を握ったまま、長く息を吐いた。それから肩の手を払いのけた。男は鼻で笑って、台の後ろへ戻っていった。
「文句があるなら、聖女様にでも頼むんだな」
ボルクは帳面を閉じて、椀を並べ直しながら言った。
「誓いをほどけるのは、聖女様か、誓いを受けた俺だけだ。俺がもういいと言わない限り、あいつは俺のもんだよ」
伊吹はネネの前にしゃがみ込んで、その両肩を掴んだ。
「ネネ、行こう。こんなところ、いなくていい」
「行けないよ」
ネネは首を振った。何度も、何度も振った。
「ネネが行ったら、ここが焼けるもん。今度はちょっとじゃないよ。それにお姉ちゃんのとこ行って、ネネ、どこで寝るの。ごはん、どうするの。お姉ちゃんだって、宿のお金、毎日数えてたでしょ。ネネ、見てたもん」
伊吹は口を開いて、何も言えなかった。
一晩銅貨六枚の宿に、崩しかけの銀貨が一枚。自分と透の明日の寝床さえ、どうなるか分からない。この子に「うちにおいで」と言ってやれる場所が、伊吹にはどこにもなかった。
「お姉ちゃんは、やさしいね」
ネネは涙の溜まった目で、昨日と同じように笑った。
「だからもういいよ。ネネ、平気だから」
ネネは平気なふりをしていた。九つの子どもが平気なふりをすることに、すっかり慣れてしまっていた。悔しくて、目の奥が熱くなった。伊吹はネネの肩を掴んだまま、しばらく顔を上げられなかった。




