第5話 ネネ
王都の門をくぐったとたん、あたりが急に騒がしくなった。
石畳を鳴らす荷車の車輪に、呼び込みの声。焼いた肉と香草の煙。手首に色とりどりの紐を巻いた人たちが、肩をぶつけ合うようにして行き交っている。馬車を降りた伊吹はしばらくその流れを眺めてから、迷いのない足取りで左へ歩き出した。
「伊吹、そっちじゃない」
三歩目で透に袖を引かれた。
「大聖堂、あっち。さっき丘の上から見えてたでしょ」
「知ってたし。ちょっと、先に周りを見ておこうと思っただけ」
「それ、昔も聞いた気がする。遠足のとき、一人だけ逆のバスに乗りかけて」
「うるさい」
伊吹は透の指さすほうへ向き直った。道を覚えるのは昔から苦手だった。苦手だと認めるのはもっと苦手だった。
「お兄ちゃんたち、宿さがしてる?」
足元から声がした。見下ろすと、日に焼けた9才くらいの女の子が、二人を見上げていた。擦り切れた上着に、裸足に近いくたびれた靴。袖から細い手首がのぞいている。
「安いとこなら知ってるよ。水の飲める井戸も、市場の抜け道も。ネネね、王都のことならなんでも知ってるの」
「ネネちゃんっていうんだ」
透がしゃがみ込んで目の高さを合わせた。礼拝堂で司祭にしたのと同じやり方だった。
「俺たち、今日着いたばかりで本当に何も分からないんだ。安い宿、教えてもらえるかな」
「いいよ! こっち」
ネネは返事も待たずに歩き出して、何歩か進んでは振り返って手招きした。この井戸は朝のうちなら並ばずに済む。あの角のパン屋は夕方に固くなったのを半分の値で売ってくれる。あっちの通りは衛兵さんがよく来るから、夜でも安心。楽しそうに喋るネネを追いかけているうちに、伊吹はいつの間にか、湊に話しかけるときのような柔らかい声になっていた。
「ネネ、案内うまいね。お姉ちゃん、びっくりした」
「えへへ。毎日やってるもん」
ネネは得意そうに鼻をこすってから、透の顔をまじまじと見上げた。
「お兄ちゃんは、王子さまみたいだね。きれいな顔してるし、喋り方もやさしいし」
「見た目だけだよ。中身はぜんぜん違うから、だまされちゃだめだよ」
「伊吹、それ俺の前で言う?」
「本人の前で言わなくて、いつ言うの」
ネネがけらけらと笑った。笑うと前歯が一本抜けているのが見えた。
その笑い声を聞きながら、伊吹はネネの手首から目を離せなくなっていた。袖の端からのぞく細い手首に、小さな火傷の痕がいくつも重なっている。古くて白くなったものの上に、まだ赤いものが一つ。転んでできる傷じゃない。気づくと、伊吹は自分の右手の親指の古傷を人差し指でなぞっていた。
「ネネ、その手首」
「これ?」
ネネは何でもないことのように手首を持ち上げて見せた。
「誓いの印だよ。ネネ、ボルクさんのところで奉公してるの。お母さんの薬代の借りがあるから、返すまでボルクさんの言うこと聞きますって、祠で誓ったの」
誓いの印。礼拝堂で司祭が言っていた、神前の話を思い出す。嘘がつけない場所で立てた誓いはたぶん、こっちの世界では重いのだ。
「言うこと聞かないと、どうなるの」
「ここが焼けるの。ちょっとだけね。でも、ネネはちゃんと聞いてるから、平気。借りもね、ボルクさんが帳面につけてくれてるの。最初は銀貨一枚だったのに、今は五枚になってるんだって。利子っていうんだよ」
毎日働いているのに、借りが増えている。それを、この子は難しい言葉を覚えたのが少し得意そうに言った。少しもつらそうにしていなかった。つらそうにしないことに、慣れているのだ。腹の底がかっと熱くなった。伊吹は何か言おうとして、言葉が見つからずに口を閉じた。
ネネは通りの先の小さな建物を指さした。石を積んだ祠で、軒下に灯明が一つ据えてある。軒を囲むように、そこだけ飴色に染まった石畳が並んでいた。
「あそこの祠のおばあちゃんね、日が沈むと灯をつけるの。そしたら軒の下はぜんぶ神さまの場所になるんだよ。神さまの場所で誓ったことは、ぜったい破れないの」
「昼間は?」
透が聞いた。
「昼間はね、その色の違う石のところまで。みんな知ってるよ」
ちょうどそのとき、祠の前で怒鳴り声が上がった。
前掛けをした太った商人と、継ぎだらけの上着の痩せた男が、軒先で睨み合っていた。周りに人だかりができかけている。痩せた男は銀貨を一枚、両手で握りしめていた。商人はその手を指さして、唾を飛ばしていた。
「だから、先月貸した銀貨は、まだ返してもらってねえって言ってんだ。その銀貨はこっちによこせ」
「返しただろ! この前、市場の裏で、ちゃんと手渡しで」
「知らねえな。証文もねえのに、何とでも言えらあ」
痩せた男は唇を噛んで、それから商人の袖を掴んだ。そのまま、飴色の石畳の上まで引っぱっていく。商人は振りほどこうとしたが、人だかりがさっと道を空けて、二人を祠の軒下に押し込んだ。誰かが「ほら、言ってみな」と囃した。
「ここで、もう一回言ってみろ」
痩せた男が言った。商人は鼻で笑って、口を開いた。
「……おめえからは、まだ一枚もかえ」
そこで声が止まった。
商人の口はまだ動いていた。返してもらってねえ、と言おうとしているのが、唇の形で伊吹にも分かった。それなのに声だけが出てこない。商人の顔が赤くなり、それから見る見る青ざめていった。
人だかりがどっと笑った。商人は舌打ちをして、人を押しのけるように市場の奥へ逃げていった。痩せた男は銀貨を握りしめたまま、祠に向かって深く頭を下げた。
「今の、何」
伊吹が呟くと、ネネは当たり前のように言った。
「嘘ついたから、声が出なくなったの。祠の下じゃ、誰も嘘つけないもん。だから喧嘩になったら、みんなここに来るんだよ」
「裁判所みたいだね」
透が小声で言った。ネネは裁判所が何か分からないようで、首を傾げてから続けた。
「でもね、祠はちっちゃい約束だけ。大きい約束は、聖女様の前じゃないと駄目なんだって。国と国のとか、王様のとか。聖女様の前で誓ったことは、大陸のどこでも本当になるの」
「聖女様って、どこにいるの」
「今は、いないの。前の聖女様、死んじゃったんだって。だから今度、新しい聖女様を選ぶお祭りがあるの」
ネネは祠の軒下の灯明を見上げた。まだ火の入っていない、小さな灯明だった。
「それにね、聖女様がいなくなってから、祠の火がちっちゃくなったって、みんな言ってる。祠の火は、大聖堂のでっかい火から分けてもらってるんだって。もし祠の火がなくなっちゃったら、嘘つき放題になっちゃうよ。さっきのおじさんみたいな人が、みんな得しちゃう」
ネネは少しだけ眉を寄せた。九つの子どもが本気で伊吹を心配していた。大人なのに知らないの?と言いたげな顔だ。
伊吹はふと、透が祠のほうをじっと見ていることに気づいた。透は灯明と、飴色の石と、軒の高さを、一つずつ確かめるように見ていた。
市場を抜けるとき、ネネは少しだけ足を緩めた。端のほうに人だかりがあって、木の台の上に椀が三つ伏せてある。指輪だらけの太った男が大げさな手つきでそれを入れ替えていた。
「あれがボルクさん。ネネの親方なの。灯実当ての台を出してて、ネネはお客さんを呼んだり、お使いに行ったりしてるんだよ」
ネネは袖を引っぱって手首を隠しながら、声を少しだけ落とした。
「ボルクさんね、一回も負けたことないんだよ」
それだけ言って、ネネは口を閉じた。何か言いたそうな顔をしているのに、それ以上は何も言わなかった。あの男のために誓いを立てて、あの男の言いつけで手首を焼いているのだ。伊吹は台の向こうの太った背中を睨んだ。透だけはネネの横顔を見ていた。
ネネが連れていってくれた宿は路地の奥の古い二階家だった。一晩で銅貨六枚。司祭にもらった銀貨を崩すと、両手に収まるくらいの銅貨が返ってきた。
銅貨六枚。パンが一つで銅貨一枚だったから、たぶん一枚が百円くらい。だとすると、一晩六百円。安い。でもこの銀貨一枚で何日もつのか。伊吹は値札を見るたびに、頭の中で円に直していた。それがどうしてもやめられなかった。
「ありがとね、ネネ。これ、案内のお礼」
伊吹は膝の上に抱えていた布の包みを開いて、昨日の夕飯のパンを半分に割った。湊の分にと取っておいたパンだった。ネネは目を丸くして、それから両手で大事そうに受け取った。
「いいの?」
「いいよ。食べな」
ネネはパンを胸に抱えたまま、何度も振り返って手を振りながら路地を駆けていった。小さな背中が角を曲がって見えなくなってから、伊吹は言った。
「透。私、ちょっと出てくる」
「どこに」
「施療院。ネネが言ってたでしょ、坂の上にあるって。あの子の手首、薬くらい塗ってあげたい」
透は少しだけ何か言いたそうな顔をしたが、結局は頷いた。
「暗くなる前に戻ってきてね。道、分かる?」
「分かる」
「本当に?」
「……坂の上でしょ。上に行けばいいんでしょ」
施療院は坂の上に建つ白い石の建物だった。中に入ると、薬草を煮る匂いがした。長い広間に寝台がずらりと並んでいて、灰色の頭巾をかぶった修道女たちが、病人の間を静かに行き来している。
薬をもらえるかと受付で聞くと、奥から一人の少女が出てきた。
伊吹と同じくらいの歳だった。質素な白い衣に、腰まで届く淡い金の髪をまとめている。神官の家の娘が務めとして手伝っているのだと、受付の修道女が小声で教えてくれた。少女は伊吹の話を最後まで聞くと、棚から小さな壺を取って、両手で差し出した。
「九つくらいの女の子なんです。手首の、誓いの印のところが赤く焼けてて。腕にも打ったあとがあって」
少女はほんの少しだけ手を止めた。それから棚から小さな壺を一つ取って、伊吹に差し出した。
「火傷と打ち身に効く軟膏でございます。一日に二度、薄く塗って差し上げてください」
微笑みも、所作も、完璧だった。声色は柔らかく優しい。病人に布をかけ直す手つきにも、一つの迷いもない。
すごくきれい。生で見るハリウッドの女優ってこんな感じなのかな、と伊吹は考えた。
でも少女の目は笑っていなかった。
伊吹は軟膏の壺を受け取りながら、少女の顔をまっすぐに見た。口元は笑っているのに、目の奥には何も映っていない。上手に描かれた絵の微笑みみたいだった。
「お代は」
「本来は銅貨三枚をいただいております」
伊吹が財布に手をやると、少女は小さく首を振った。
「ですが、この子の分はわたくしが持ちます。神官家の娘には、施しに使ってよい額が月ごとに決められておりますので。それを使うのも、わたくしの務めのうちです」
それから少女は少しだけ首を傾げた。
「失礼ですが、そのお子は、あなたの妹御でいらっしゃるのですか」
「違います。今日、会ったばかりの子です」
「では、どうして」
少女は初めて、ほんの少しだけ戸惑った声を出した。
「どうして、見ず知らずの子のために、ここまでいらしたのですか」
「痛そうだったから」
伊吹は当たり前のことを言ったつもりだった。少女にはその答えがよく分からないようだった。何かを言いかけて、やめて、もう一度完璧な微笑みに戻る。
「……そう、でございますか。灯のご加護がありますように」
少女が広間を戻っていくと、奥の寝台のそばにいた見習いの修道女が一人、さっと顔を伏せて、さらに奥の部屋へ下がっていった。灰色の頭巾の陰で、顔はよく見えなかった。伊吹は少し引っかかったが、すぐに忘れた。手の中の壺のほうが大事だった。
宿に戻ったときにはもう日が傾きかけていた。
ネネを探して路地を歩くと、さっきの祠の前の石段に、ネネが一人で座っていた。パンはもう食べ終わったらしく、膝の上で指についた粉を舐めている。伊吹は隣に腰を下ろして、壺の蓋を開けた。
「手、貸して」
「なあに、それ」
「薬。痛いの、少しはましになるから」
ネネはしばらく迷ってから、袖をそっとまくった。伊吹は軟膏を指にとって、一つずつ、火傷の痕に塗っていった。赤い痕に触れると、ネネの肩がぴくりと揺れた。
「しみる?」
「……ちょっと」
「我慢しな。すぐ効くから」
ネネはこくりと頷いて、伊吹の手元をじっと見ていた。湊が小さかったころ、膝をすりむくたびに、こうして薬を塗ってやった。泣き虫だった湊は塗っている間じゅうずっとしゃくり上げていた。ネネは泣かない。泣かないことに、慣れている。そう思ったら、胸がぎゅっと締めつけられた。
「お姉ちゃん、なんでやさしいの」
「やさしくないよ。手が勝手に動くだけ」
ネネは不思議そうな顔をして、それから小さく笑った。
祠の軒下で、おばあさんが灯明に火を入れた。風が吹いているのに、その火はまっすぐに立ったまま揺れなかった。それでも燭台の大きさのわりに、火は少しだけ小さく見えた。
その夜、宿の狭い部屋で、伊吹は窓辺に膝を抱えて座っていた。路地の向こうに、祠の灯明が小さく見える。
ネネの手首のことを考えていた。施療院の少女の、目の笑っていない微笑みのことも考えていた。あの子はどうしてあんなふうに笑うんだろう。どうして「痛そうだったから」が分からないんだろう。
「伊吹」
寝台の端に腰かけていた透がずっと黙っていた口を開いた。
「明日はちょっと散歩してくる」
「散歩?」
「うん。この街のこと、もう少し知りたいから」
伊吹は透の顔を見た。透はいつもどおり穏やかに笑っていた。瞬きも、止まらなかった。
嘘ではない。でも全部でもない気がした。置いていかれるような心細さがほんの少しだけ胸をかすめた。




