第4話 勝つしかない
夕飯は屋敷の奥の小さな食堂に用意されていた。黒っぽいパンと豆の煮込みに、金色の油で炒めた野菜。司祭は何度も粗末なものでと頭を下げたが、四人分にしてはパンの数がぎりぎりだった。この国もうちと同じで、余裕がないのだろう。
半分ほど食べたところで、伊吹は手元のパンを二つに割って、片方を布に包んで膝に置いた。持って帰れる当てなんてないのに、手が勝手にそうしていた。湊の分だった。向かいの透がそれを見て、何も言わずに目を伏せた。
その透の目が卓の端で止まっていた。魔導師はときどき水を口に運ぶだけで、パンにも煮込みにも手をつけていない。金色の油の皿は、魔導師の前だけ一度も減っていなかった。食の細い人なんじゃないの、と伊吹は思ったが、透はしばらくその皿から目を離さなかった。
「名乗りの儀の前に、一つお伝えせねばならぬことがございます」
食事が一段落したところで、司祭が口を開いた。
「候補の方は、試練にお一人だけ、お供を連れて臨むことができます」
「お供?」
「はい。試練の場で、候補の方の背に立つ者でございます。手番ごとに一度だけ、候補の方に耳打ちをすることが許されております」
司祭は指を組んだ。
「試練の外でも、候補の館で寝起きを共にし、身の回りのお世話をいたします。……本来は、リネット様の従者の方が務められるはずでございましたが」
そこで司祭は言葉を濁した。
「お供は、そちらの若い方に務めていただきましょう」
言葉を濁した司祭に代わって、魔導師が言った。頼む声ではなく、決まったことを告げる声だった。
「なんで勝手に決めてるんですか。こいつは巻き込まれただけだって、さっき」
杯を置いて腰を浮かせたところで、魔導師が微笑んで伊吹の胸のあたりに目をやった。それだけで喉の奥にあの冷たさがよみがえって、伊吹の手はぴたりと止まった。代わりに透を見る。
「あんた、さっき巻き込まれただけって言ってたじゃん。嫌なら嫌って言いなよ」
「言わないよ。俺も、そのつもりだったし」
「嘘でしょ」
「本当だよ」
伊吹は透の目をじっと見た。瞬きは止まらなかった。
小さいころから、透は嘘をつくときにほんの一瞬だけ瞬きが止まる。本人は気づいていない。たぶん、伊吹だけが知っている癖だ。止まらなかったのだから、今のは本当なのだろう。本当なのに、全部ではない気がした。
「勝手にすれば。足引っ張ったら殴るから」
顔を背けた伊吹の視界の端で、魔導師が何も言わずに目を細めていた。
食事のあとで司祭が小さな布袋を両手で透に差し出した。王都での宿にと渡された袋の中身は、銀貨が一枚きりだった。司祭の手の震え方とパンの数を思えば、それがこの国の精一杯なのは伊吹にも分かった。
その夜は眠れなかった。借りた寝間着のまま廊下に出ると、窓の向こうに二つの月と、地平線の小さな灯りが見えた。窓枠に両手をついて眺めていると、足音がして、少し離れたところに透が並んだ。
「眠れない?」
「眠れるわけないでしょ」
透はしばらく黙って同じ窓の外を見てから、頭の中で並べ直していたことを確かめるように口を開いた。
「司祭さんの話だとさ。負けても、帰れるはずだったんだよね。選定に敗れた候補は、故郷へ還されるって」
「……でも、負けたら」
「うん。王都が呪いに沈む」
透は少し言葉を探した。
「それにね。還されるより先に、その火が伊吹の胸を食い破るかもしれない。あの人、順番までは言わなかったから」
伊吹が寝間着の上から胸を押さえた。
「たぶん、だからなんだよ」
透は窓の外の灯りを見たまま言った。
「あの人がわざわざ呪いなんか仕込んだのは。負けて帰るって道を、最初から塞ぐため」
伊吹は寝間着の上から胸を押さえた。ここに、あの黒い火の種がある。負けたら、これが四十万人を焼く。窓枠に背中を預けて、天井を睨んだ。
「だったら、勝つしかないじゃん。誰も巻き込まない。勝って、自分の手で帰る」
気づくと、右手の親指の古傷を人差し指でなぞっていた。透の視線がそこに落ちたのが分かって、伊吹は手を握り込んだ。この傷のことを話すつもりはなかった。透もそれ以上は何も聞かずに、黙って窓の外を見ていた。
部屋に戻ってからも寝つけず、伊吹は水をもらいに廊下へ出た。角を曲がりかけたところで足が止まった。燭台の消えた暗い廊下の窓辺に、まだ透が立っていて、その向かいに黒い外套の男がいる。
声は聞こえなかった。魔導師が透に一歩近づいて何かを言い、透が短く問い返す。魔導師は答えずに、夕飯の席と同じ笑い方で目を細めて、暗がりへ戻っていった。伊吹は透の前まで歩いていった。
「今の、何話してたの」
「明日の馬車の時間。朝一番に出るって」
透の瞬きが一度だけ止まった。
伊吹は何も言わなかった。問い詰めれば、こいつはきっともっと上手な嘘をつく。
翌朝には、古びた馬車が門の前で待っていた。司祭は何度も頭を下げて二人を見送り、魔導師の姿はどこにもなかった。膝の上には、昨日のパンの包みがある。
昼が近づいたころ、馬車は大きな丘の上に出た。灰色の城壁が地平線の端から端まで弧を描き、その内側に赤茶色の屋根がびっしりと詰まっている。街の真ん中のもう一つの丘に白い大聖堂が立ち、一番高い塔の先端で、昼の光の中でも分かるほど大きな火が燃えていた。昨夜、地平線で小さな星みたいに瞬いていたあの灯りだ。
城門に近づくにつれて人が増えていく。荷車を引く男、籠を頭に載せた女、手首に色とりどりの紐を巻いて走り回る子どもたち。
湊と同じくらいの子もいれば、もっと小さな子もいた。病の者、年老いた者、幼い子から。……死んでいく。
魔導師の声が耳の奥でよみがえって、伊吹は窓に額を押しつけた。
この街に四十万人がいる。嘘をつけない人たちの街で、嘘をつけるのは私たち二人だけだ。
そのうちの一人が昨夜、私に嘘をついた。




