第3話 二つの月
伊吹の喉の奥で、何かがぷつりと切れた。
「ふざけないでください」
気づいたときには床を蹴っていた。
「伊吹!」
後ろで透が叫んだ。伊吹は止まらなかった。三歩で届く。外套の胸ぐらを掴んで、壁に叩きつけてやる。それで終わりだ。不良相手に何度もやってきたことだ。
魔導師は微動だにしていない。逃げもしなければ、身構えもしない。ただ、右手の指を一本だけ、ゆっくりと持ち上げた。
伊吹の胸の奥で何かが爆ぜた。衝撃が体の内側から外側へ広がったみたいに、息が止まった。
氷を丸ごと飲み込んだみたいに冷たいのに、内側から焼けた鉄を押し当てられているみたいに熱い。肺が動かない。伸ばした手が、魔導師の外套のほんの手前で空を掴む。膝から力が抜けて、伊吹は石の床に崩れ落ちた。
「伊吹っ!」
透が駆け寄ってきて、伊吹の肩を抱えた。その手が震えているのが、制服越しに伝わってくる。伊吹は息ができないまま、目の前の透のシャツの胸元をきつく握りしめていた。そうしていないと、どこかへ落ちていきそうだった。
魔導師が持ち上げていた指を下ろした。嘘みたいに痛みが引いていく。伊吹は床に手をついて、何度も咳き込んだ。吸い込んだ空気が喉に刺さる。
「その火は、私の指一本で、いつでもあなたの胸を焼きます」
魔導師の声は最初から最後まで穏やかだった。
「どうか、無茶はなさらぬよう。大事なお体ですので」
透がゆっくりと立ち上がって、伊吹の前に半歩だけ出た。背中しか見えなかった。でも、その背中が、さっきまで司祭に話しかけていたときとは違って見えた。
「いくつか、聞いてもいいですか」
声は相変わらず丁寧だった。でも、少しだけ低かった。
「もし俺たちが、ここから逃げたら……」
「種火は、あなた方がどこへ行こうと、その娘の胸で燃えております」
「あなたをここでどうにかしたら、止まるんじゃないですか?」
「私が倒れれば、種火はその場であふれます。まずは、その娘の胸を燃やす。それから、この屋敷の者を燃やしましょう」
魔導師は細長い窓の外に目をやった。地平線の近くで、あの遠い塔の灯りが小さく瞬いている。
「曇りの火は、大きな灯に寄るもの。夜渡りと同じでございます。人から人へ燃え移りながら、いずれ、あの灯へ移りましょう」
「王都にはどれくらいの人がいるんですか」
「城壁の内に、およそ三十万人。外の町を合わせれば、四十万人ほどでしょうか」
「呪いに沈むというのは、どういうことですか」
魔導師は表情一つ変えずに答えた。
「曇りの火は、人の灯に燃え移ります」
「……灯って、なに」
伊吹の口から声がこぼれた。さっきから何度も出てくる言葉だ。ランタンの灯。塔の灯。胸の火。でも、人の灯というのが何なのか、伊吹には分からなかった。
答えたのは魔導師ではなく、司祭だった。椅子の上で、自分の胸にそっと手を当てる。
「この世の者は皆、胸の奥に、神様からいただいた小さな火を持って生まれます。それが、灯でございます」
老人の声はかすれていた。
「命の火であり、心の火でもございます。偽りを口にすれば曇り、死ねば、神のもとへ還る。灯が消えた者は、もう二度と目を覚ましませぬ」
命の火。伊吹は自分の胸を押さえた。さっき、焼けるように痛んだ場所を。
「ご覧に入れましょう」
魔導師が祭壇の端に立つろうそくに指を近づけた。触れてはいない。指先が、炎のすぐ横で止まっただけだ。
それなのに、炎が根元から黒く染まった。黒い火だった。燃えているのに、光らない。周りの明かりを、逆に吸い込んでいるみたいに見えた。
その黒い火がろうそくの芯を離れ、細い煙のように宙を這って、隣のろうそくの炎に触れる。隣の炎も黒く染まった。二本のろうそくは黒い煙を細く吐きながら音もなく消えた。
伊吹は息をするのを忘れていた。
「人の灯も、こうなります」
魔導師は黒く焦げた芯を、愛おしそうに見下ろした。
「燃え移られた者の灯は黒く曇り、弱い者から消えてゆく。病の者、年老いた者、幼い子から……命を落とします」
湊の顔が浮かんだ。それから、朝になると手がこわばって指が開かない、母さんの顔が。
「灯が消えずに残った者、大人や体の丈夫な者は、じきに魔物になります」
魔導師は少しだけ首を傾げた。
「三日もすれば、王都に灯を持つ者は残りますまい。残るのは、四十万の魔物です。それから大聖堂の大灯が曇り、大陸中の祠へ分ける火の元が絶える。……王都だけで済めば、幸運でしょうな」
伊吹は床についた自分の手を見た。指先が細かく震えていた。
「その火を取り出す方法は、ないんですか。……なんで、こんなことを」
透の声も少しだけ掠れていた。
「知りたければ勝ち続けることです。勝ち続け、聖女の座を掴めば、この呪いからも解放いたしましょう」
透は黙った。伊吹は床に座り込んだまま、透の横顔を見上げた。透は唇を噛んでいた。昔、算数のテストで一問だけ解けなかったときも、透はこうして唇を噛んでいた。
「……嘘、ついてないんだ」
透が伊吹にだけ聞こえるくらいの声で呟いた。
「この人、一個も嘘をついてない」
ここは神前だ。さっき、司祭が「空は緑色だ」と言えなかった場所。つまり、この男の言ったことは全部本当なのだ。黒い火も。四十万の魔物も。
魔導師は満足そうに目を細めた。
「明朝、王都へ向かう馬車を出させましょう。今宵は、ごゆるりとお休みください。聖女様」
外套の裾がろうそくの明かりの外へ消えていく。足音が遠ざかって、扉の閉まる音がした。
祭壇の端には黒く焦げた芯が二本残っていた。残りのろうそくの火は、最後まで一度も揺れなかった。
しばらく、誰も口をきかなかった。伊吹は制服の上から胸を押さえた。さっきの痛みは、もうどこにもない。心臓の音だけが、やけにうるさい。
ゆっくりと立ち上がる。膝はまだ笑っていたけど、今度は無視できた。
「司祭さん」
椅子の上で小さくなっている老人に、伊吹は向き直った。
「あの人、敵ですよね」
司祭の肩がびくりと揺れた。
「なんで言うこと聞いてるんですか」
司祭はすぐには答えなかった。膝の上で組んだ両手を、じっと見下ろしている。答えを探しているのか、答えないことを選んでいるのか、伊吹には分からなかった。ここは神前だ。この人は嘘がつけない。だから、言いたくないことは黙るしかないのだ。
「禁術の書を神殿の書庫から持ち出したのは、私でございます」
やがて、かすれた声が返ってきた。
「表に出れば、私だけでは済みませぬ。ルーヴェという国そのものが、大陸中から責めを負います。小さな、貧しい国でございます。それだけで、立ち行かなくなりましょう」
「公爵には、話せないんですか」
透が聞いた。
「公爵様は、ウィレム殿を誰よりも信じておいでです。私などの言葉よりも」
司祭は伊吹の胸のあたりに目をやって、すぐに逸らした。
「そして何より、あの方に逆らえば、そちらのお嬢様の胸の火が」
それ以上は言わなかった。伊吹は拳を握った。言いたいことは山ほどあった。でも、この人を締め上げても何も変わらない。それはもう分かっていた。
司祭がぽつりと漏らした。
「以前のウィレム殿は、あのように笑う方ではございませんでした」
独り言みたいな声だった。
「リネット様に古い言葉を教えておられた頃は、もっと、こう」
そこで司祭は口をつぐんだ。
「リネットさん、って」
透が静かに聞いた。
「前の候補の方ですか」
司祭は答えなかった。組んだ両手に、ぎゅっと力がこもるのが見えた。透もそれ以上は聞かなかった。
「申し訳……ございませぬ」
司祭が椅子から崩れ落ちるように膝をついた。深く頭を下げた老人の背中が、小さく震えていた。
「私どもには、もう、従うほかに道がないのでございます」
伊吹は何も言えなかった。怒りをぶつける相手が、この部屋のどこにもいない。それが悔しくて、握った拳が震えた。
礼拝堂を出ると、石の廊下はさっき走り抜けたときよりずっと長く感じた。今度は走らなかった。
中庭に出ると、夜風に草の匂いがした。伊吹は礼拝堂の入り口の石段に腰を下ろした。冷たくも温かくもない石だった。
見上げると二つの月が浮かんでいた。白くて大きな月と、寄り添うような、赤くて小さな月。地平線の近くでは、あの遠い塔の灯りが小さな星みたいに瞬いている。
あの灯りの下に、四十万人がいる。伊吹は自分の胸に手を当てた。この中に、あの黒い火の種が眠っている。
湊は今頃どうしているだろう。家に帰れただろうか。母さんに何て言っただろう。姉ちゃんが光の中に消えた、なんて言って、信じてもらえるわけがない。母さんの薬は、あと四日分しかない。明後日は通院の日で、付き添いが要るのに。
幼い子から命の火が尽きていくのだと、あの男は言っていた。あの灯りの下にも、湊みたいな子がきっとたくさんいるのだ。
足音がして、透が隣に来た。少しだけ迷ってから腰を下ろす。肩と肩の間に、拳一つ分の隙間を空けて。大丈夫だよ、とは言わなかった。伊吹にはそれが、少しだけありがたかった。
しばらく二人とも黙っていた。
「……ねえ。これ、夢じゃないよね」
伊吹は二つの月を見上げたまま、ぽつりと言った。
「夢だったら、さっきのあれも夢ってことになるけど」
透の声は静かだった。伊吹は制服の上から胸を押さえた。夢であんなに痛いはずがなかった。
「漫画とかアニメだとね、こういうの、異世界転移って言うんだ」
透も同じ月を見上げていた。
「ある日いきなり、知らない世界に呼ばれる。呼ぶのはだいたい王様か、神官か、魔法使い。それで、あなたは勇者です、聖女です、この世界を救ってくださいって頼まれる。帰る方法は、たいてい向こうの人しか知らない。……さっきの話、ほとんど全部、その形に当てはまってる」
「詳しいね」
「中学のとき、そういうのばっかり読んでた時期があって」
伊吹は膝を抱えた。
「湊も読んでた」
口に出したら、急に弟の顔が近くなった。
「スマホで、夜中に布団かぶって。画面の明かりが漏れてるから、すぐ分かるの。早く寝なって言っても、あと一話、あと一話って。トラックにはねられて、別の世界で生まれ変わる話とか、そういうの」
伊吹は少しだけ笑った。
「あの子、言ってたんだ。もし異世界に行ったら、回復魔法を覚えて、母さんの手を治してあげるって。朝になると指が開かないの、魔法でぱっと治すんだって。真面目な顔で」
声が途中で揺れた。伊吹は膝の上に顎をのせた。
「行ったの、私だったね」
透は何も言わずに、少しだけ伊吹のほうへ肩を寄せた。拳一つ分の隙間はそのままだった。
「漫画だと、最後はどうやって帰るの」
透は少しだけ考えた。
「……帰らない話のほうが、多いかな」
伊吹は透を見た。嘘でもいいから、帰れるって言ってほしかった。一瞬だけそう思って、自分が嫌になった。嘘でもいいなんて、一番言われたくない言葉だった。
「でも、帰る話もあるよ。ちゃんとある」
透は月を見上げたまま、静かに付け足した。
「じゃあ……そっちにする」
伊吹は膝から顎を上げた。
「帰る話にする。湊が続きを読みたがるような、ちゃんと帰ってくる話に。それで帰ったら、あの子に全部話してやるの。異世界って、思ってたよりずっと面倒くさかったよって」
透は少しだけ笑った。それから、何も言わずに頷いた。
「随分、落ち着いてるんだね」
伊吹は少しだけ鼻をすすってから言った。
「私はもう、何がなんだか分かんない」
「俺も内心はぐちゃぐちゃだよ。落ち着いてるように見せてるだけ」
透は少しだけ笑った。
「それに、俺は昔から伊吹の子分だったし。親分が慌ててるときに、子分まで慌てたら駄目でしょ」
「子分って」
「二年のとき。俺をいじめてた三人を伊吹がやっつけて、その日の帰りに言ったんだよ。今日からあんたは私の子分ねって。給食の献立表の裏に、契約書まで書いて」
「……書いた。鉛筆で」
「第一条、子分は親分の言うことを聞く。第二条、おやつは半分こ。第三条、泣いたら親分を呼ぶ」
「なんで全部覚えてんの」
「まだ持ってるからね」
伊吹は透の横顔を見た。透は真面目な顔のまま、二つの月を見上げていた。
「……嘘でしょ」
「本当。母さんのアパートに置いてある、昔の机の引き出しに」
瞬きは止まらなかった。透は嘘をつくとき、瞬きが一度だけ止まる。小さいころから、伊吹だけが知っている癖だった。その瞬きが少しも止まっていなかった。
伊吹は吹き出した。あの路地から、初めて笑った。
「捨てなよ。そんなの」
「捨てられないよ。第三条があるから」
透はさらりと言って、また月を見上げた。
伊吹は返す言葉が見つからなくて、膝に顔を半分うずめた。笑っているのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からなかった。
たぶん、わざとこんな話をしたんだろう。伊吹はなんとなくそう思った。言わないけど。
透は少しだけ笑ったまま、空を見上げている。その横顔の向こうで、赤い小さな月が白い月に寄り添っていた。
急に、湊に会いたくてたまらなくなった。鼻の奥がつんとして、伊吹は膝を強く抱え直した。
湊の見ている空には、月は一つしかない。




