第2話 嘘のつけない世界
聖女。
言葉の意味は、なんとなく分かる。けれど、目の前の老人がそれを自分に向けて言う意味が、伊吹には分からなかった。ただの高校生の自分に、そんなものの心当たりは一つもない。
視界の端で部屋の中をなぞる。ろうそくが、いくつも灯っていた。石の壁に、細長い窓。窓の外は真っ暗で、冬の夜の気配はしなかった。乾いた、少しだけ甘い油の匂いがする。光に包まれる前、路地で肌に刺さっていた寒さがどこにもない。
変だ、と思ったのは、ろうそくの火だった。扉の隙間から風が入ってきているのに、どの火もまっすぐに立ったまま揺れていない。
伊吹は立ち上がった。膝が少し笑っていたけど、無視した。
「人違いです」
もう一度はっきりと言った。
「帰ります」
老人が何か言いかけるより先に、伊吹は床に座り込んでいる透の手首を掴んで引っ張り上げた。
「え、ちょ、伊吹?」
「走って」
扉を押し開ける。石造りの長い廊下だった。燭台が等間隔に並んでいる。突き当たりから外の匂いがした。草と、土と、夜露の匂い。伊吹はそちらへ走った。
これは誘拐だ。どういう手口かは知らないけど、気を失っている間にどこかの古い建物に運び込まれたのだ。外に出れば道路がある。道路を辿れば駅がある。駅があれば帰れる。湊と母さんのところへ。
中庭を抜けると、鉄の門扉が見えた。半分開いている。門をくぐったところで、足が止まった。
暗かった。
東京の夜はこんなに暗くない。どんなに外れでも、空の端はどこかの街の灯りでぼんやりと明るい。ビルの屋上の赤いランプが点滅していて、遠くで車の音がしている。ここには何もなかった。地平線の果てまで黒い丘がうねっているだけで、車の音も、電線も、自販機の明かりもない。冷たくも暑くもない夜風が吹いて、足元の草が揺れた。
そして、空。
見上げた空には、怖いくらいに星が詰まっていた。その真ん中に月が浮かんでいた。白くて大きな月が、一つ。その横に寄り添うように、赤みがかった小さな月が、もう一つ。
伊吹は門の柱に手をついた。やけにひんやりとしていた。
遠くの丘の上に、見たこともない巨大な建物の影があった。尖った屋根がいくつも空に向かって伸びている。その一番高い塔のてっぺんに、小さな灯りが並んで瞬いていた。
その灯りが端から一つずつ消えていった。違う。消えたんじゃない。何かに隠れていくのだ。雲だと思ったが違った。雲はあんなふうに波打たない。
星空の一部がゆっくりと動いていた。山ひとつ分はありそうな黒い影が、丘の上の塔をなぞるように空を泳いでいる。腹のあたりにぼんやりとした光の筋が何本も並んでいて、それがゆっくりと明るくなったり暗くなったりしていた。音はしなかった。
影はゆっくりと塔の上を通り過ぎ、二つの月の片方を一瞬だけ隠して、地平線の向こうへ消えていった。まるで黒いクジラが空を飛んでいるみたいだった。
「……飛行機、じゃないよね」
自分の声が震えていた。後ろで砂利を踏む音がした。
「は、速すぎ……伊吹、足速すぎるって」
透が門柱にもたれかかって、肩で息をしていた。小学生のころ、追いかけっこで最後まで捕まらないのは、いつも伊吹だった。
透は息を整えながら伊吹の視線の先を追って、空を見上げた。しばらく何も言わなかった。それから制服のポケットからスマートフォンを取り出した。画面の光が透の顔を青白く照らす。
「圏外なのは、まあ、外国の山奥ならありうるんだけど」
透は地図のアプリを開いた。画面の真ん中で現在地を探す丸い印が、ぐるぐると回り続けている。いつまで経っても、現在地を示す青い点は現れない。
「GPSってさ……地球の上ならどこにいても衛星を拾うんだよ。砂漠でも、海の真ん中でも。何個かは必ず」
透は画面をこちらに向けた。捕捉している衛星の数は、ゼロ。
「一個も拾えないってことは……」
透はもう一度、二つの月を見上げた。
「空に衛星が一個もないんだ」
伊吹は何も言えなかった。腕にびっしりと鳥肌が立っていた。ここは日本じゃない。外国でもない。そう分かってしまったのが、ただ怖かった。
後ろからよろよろとした足音が近づいてきた。さっきの老人が裾の長い服を両手でたくし上げて、息を切らしながら門まで追いかけてきていた。老人は伊吹たちが見上げている空に目をやって、小さく頷いた。
「……『夜渡り』でございます。大聖堂の灯に、寄ってまいるのです」
当たり前のことを教えるような口ぶりだった。この人にとっては当たり前なのだ。夜渡りというのが、あの影のことか。クジラみたいな、どう見てもこの世のものとは思えないあれの。
老人は地平線の灯りを指さした。
「あの灯りが、グランヴェル王国、王都ルミナスの大聖堂でございます。ここからは、馬車で半日ほど」
伊吹はもう一度だけ地平線の向こうを見た。あの影はもう見えなかった。
どうやって礼拝堂まで戻ったのか、よく覚えていない。頭の中にもやがかかったまま、気づいたらまた石の床の上に立っていた。ろうそくの火は、さっきと同じようにまっすぐに立ったまま揺れていなかった。
「ここ、どこですか」
さっきとは意味の違う問いだった。
「大陸の西の端の、ルーヴェ公国という小さな国にございます。こちらは公爵家の持つ古い別荘。私はルーヴェの司祭を務める者。後ろにおりますのは、公爵家の宮廷魔導師、ウィレムと申します」
大陸。公国。魔導師。どれも、さっきの空を見た後では冗談には聞こえなかった。
黒い外套の男が右手の指先を左の胸に軽く添えて、浅く頭を下げた。見慣れない礼の仕方だった。顔は影に隠れてよく見えない。隣で透が一瞬だけその手元を見たが、何も言わなかった。司祭はゆっくりと話し始めた。
この大陸には、聖女と呼ばれる者がいる。聖女は大陸の真実を守り、国と国の約束を見届ける。先代の聖女が亡くなり、新しい聖女を選ぶ選定が、まもなく王都の大聖堂で始まる。八つの席から、一人ずつ候補が立つ。ルーヴェの候補だった娘は、ある事情で候補を降りた。
『ある事情』と口にしたところで、司祭の声がわずかに揺れた。伊吹はそれを聞き逃さなかった。でも、今はそれどころじゃない。
「それで、代わりに私を?」
「はい。禁じられた術を使い、聖女の座を掴み取れる方を、異界よりお呼びいたしました」
「呼んだなら、帰してください」
「先ほども申しましたとおり、異界の方をお還しできるのは、聖女の奇跡だけでございます」
司祭は震える指を一本ずつ折った。
「一つ。異界の方をお還しできるのは、聖女だけ。二つ。選定に敗れた候補とそのお供は、神の御力で故郷へと還されます。三つ。ルーヴェの候補が聖女となられれば、その御力で異界の門を開き、お二人をお還しできましょう」
伊吹は司祭の前まで歩いて、胸ぐらを掴んだ。
「弟、置いてきたんですけど」
司祭の体は驚くほど軽かった。
「夜の路地に、一人で。不良が三人いたところに。分かってます? こんなの、誘拐でしょ」
不良たちは召喚の光に怯えて逃げていったはずだ。でも、その後のことは分からない。伊吹が心配なことは、何も変わらない。声を荒げたつもりはなかった。でも、司祭の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「伊吹! 落ち着いて」
後ろから声がした。振り向くと、透が立っていた。
ろうそくの明かりの下で見ると、透は伊吹の知っている透ではなかった。
背は伊吹より少し高い。小学生のころは、伊吹のほうが高かったのに。黒い髪は短く整えられていて、シャツは一番上のボタンまで留まっている。マフラーは床に落ちたまま。こんな訳の分からない場所なのに、乱れているのは前髪の一房だけだった。
顔は腹が立つくらい整っている。切れ長で二重の目に、通った鼻筋。たぶん学校では、女子が遠巻きに騒いでいるタイプだ。昔は泣きべそをかいて、伊吹の後ろに隠れてばかりいたのに。
透は目だけを動かして、部屋の中を順番に見ていた。柱。扉。司祭の震える手。ろうそくの火。暗がりの、黒い外套の男。左の手首に巻いた高そうな腕時計が、ろうそくの光を反射していた。
「離してあげてよ。その人に乱暴しても、きっと何もいいことない」
透は穏やかな口調で言った。
「分かってる」
伊吹が手を離すと、司祭はよろめいて祭壇の縁に手をついた。透がその腕を支えて、司祭を椅子に座らせる。
「大丈夫ですか。すみません、この人、弟のことになると見境がなくて」
「いえ。当然のお怒りでございます」
透は椅子に座る司祭の前に片膝をついた。目線の高さを合わせるようにして、学校の先生に話しかけるみたいに丁寧に声をかけた。
「いくつか、教えていただけますか。俺たち、本当に何も分からないので」
穏やかな声だった。昔からこうだったっけ、と伊吹は思った。違う。昔の透はもっと早口で、思いついたことを片っ端から口に出していた。こんなふうに、相手が話しやすい速さに合わせて喋る子じゃなかった。
「選定というのは、具体的に何をするんでしょう。くじ引きとか、投票みたいなものですか」
「いいえ。神前で行う試練でございます」
司祭は少し落ち着きを取り戻したように、言葉を選びながら答えた。
「候補の方々は、名乗りの儀で、聖灯を二つずつ授かります。試練に敗れるたびに、ランタンは一つずつ消え、二つとも消えれば、その方は選定から外れます。そして敗れた方の灯は、勝った方のもとへ集まってゆく。八人の候補の、十六の灯を、最後に一身に集めた方が、聖女となられるのです」
「八人で、十六の灯。……つまり、最後の一人になるまで続く、と」
「左様でございます。名乗りの儀から、ひと月ほどで決着いたします」
ひと月。伊吹は指を折りそうになるのをこらえた。ひと月も、湊と体の弱い母さんを、二人きりにしておくのか。
「もう一つ、いいですか」
透はほんの少しだけ首を傾げた。
「俺たちの世界にも、人はたくさんいます。その中から、どうして伊吹と俺が選ばれたんでしょうか」
司祭はしばらく黙った。
「術は、ただ一つの願いを神に申し上げるものでございます。私どもが申し上げたのは、聖女の座を掴み取れる方を、と。それに応えて神がお選びになったのは、こちらのお方でございましょう」
司祭の目が伊吹に向いた。
「ですが、お二人いらしたことは、私どもにも思いがけぬことでございました。なぜあなた様までお越しになったのかは……申し訳ございませぬ。私には、分かりませぬ」
「じゃあ俺は、巻き込まれただけってことですね」
透は少しだけ笑った。困ったような、でも相手を責めない笑い方だった。
「それなら仕方ないです。手を伸ばしたのは俺のほうなので」
伊吹は透の横顔を見た。路地で、光の中で、誰かに袖を掴まれた感触を思い出す。あれは、透の手だったのか。何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
透は立ち上がると膝の埃を払った。それから、ふと壁際のろうそくに目をやった。
「さっきから、ろうそくの火が揺れていない。風は入ってきているのに。……ここは、何か特別な場所ですか?」
司祭が目を見開いた。
「お気づきになりましたか。ここは神前でございます。神の御前では、何人たりとも、偽りを口にすることはできませぬ」
「偽りを、口にできない」
「はい。言おうとしても、声になりませぬ」
嘘がつけない。透は小さくそう繰り返した。
「じゃあ言ってみてください。空は緑色だ、って」
司祭は戸惑った顔をしたが、口を開いた。
「空は、み――」
声が途切れた。司祭の口は動いている。でも、音が出ない。喉に何かが詰まったみたいに、唇だけがぱくぱくと形を作っている。
伊吹は背中が冷たくなった。どういう理屈なのか、まるで分からない。ここでは、自分たちが生きてきた場所とは違う決まりが働いている。さっきの空よりも、それが怖かった。
「空は緑色だ」
透が言った。はっきりと、何の引っかかりもなく。
伊吹も口にしてみた。
「空は、みどりいろだ」
何の問題もなく言えた。司祭がゆっくりと透を見て、それから伊吹を見た。驚いているというより怯えていた。
透は伊吹のほうを見ないまま、小さく言った。
「この世界の神様の前で嘘をつけるのは、俺たち二人だけみたいだね」
伊吹は自分の手のひらを見た。嘘なんかつくつもりはない。昔から、ずっと。でもここでは、この人たちにできないことが、自分たちにはできてしまうのだ。
透がもう一度、司祭に向き直った。
「さっき、試練は神前で行うって言いましたよね。……嘘のつけない場所で、何を競うんですか」
「中身は、選定のたびにまったく違います」
司祭は首を横に振った。
「同じ試練が二度行われたことは、ただの一度もございませぬ。大神官様がお決めになり、その日が来るまで、候補の方々にも明かされませぬ」
「前の選定では、どんなことを?」
司祭は少し遠い目をした。
「九年前は、候補の方々が目隠しをしたまま、鐘楼を登られました。鐘を一つ鳴らすたびに、下にいる別の候補から、問いが一つ投げられる。答えを誤った方の灯が、一つ消える」
伊吹にはそれがどういう勝負なのかさっぱり想像がつかなかった。
「その前の選定では、川に舟を浮かべて、互いの舟に、石を一つずつ……いえ、詳しくは、私にもよう分かりませなんだ。ただ、最後に舟に残っていたのは、たったお一人でございました」
司祭はそこで言葉を切った。
「名乗りの儀が済めば、あの遠くの塔のてっぺんに、候補の方々の十六の灯が掲げられます。灯が一つ消えるたびに、鐘が鳴る。民は皆、塔を見上げて、どの国の灯が消えたかを数えるのです」
さっき門の外で見た、地平線の小さな灯り。あそこに、自分の灯が並ぶのか。
「どの試練も、神前で行われます。嘘のつけない場所で、候補の方々が、問い、誓い、賭けて、灯を奪い合う。それだけは、いつも同じでございます」
司祭は膝の上で組んだ自分の手を見下ろした。
「勝たれた方も、敗れた方も。試練の後には、皆さま少しだけお顔が変わっておられました」
伊吹は眉を寄せた。
「ごめん、全然分かんない。つまりどういうこと?」
透が伊吹のほうを振り向いた。少し考えてから、指を二本立てる。
「たぶん、ゲームなんだと思う。毎回ルールが違って、その日まで何をやるか分からない。頭を使うやつも、体を使うやつもある。で、負けると、この灯が一つ減る」
「灯が、二つ」
「そう。ライフが二つ。二回負けたら退場。最後まで残った一人が、聖女」
ライフ。湊がよくやっているゲームの言葉だ。急に話が身近になった。
「しかも、全員が嘘のつけない場所でやる」
透は立てていた二本の指を、ゆっくり下ろした。
「嘘のつけない人たちだけで、やるゲームなんだよ」
それきり透は口を閉じた。何かに気づいたらしかった。伊吹には、それが何なのか分からなかった。
「選定の名乗りの締め切りは、四日後の正午でございます」
司祭がかすれた声で言った。
「それまでに王都の大聖堂で名乗りを済ませねば、ルーヴェの席は失われます。そうなれば、お二人をお還しする道も――」
「司祭殿。肝心なことを、まだお伝えしておられませんな」
暗がりから声がした。初めて聞く声だった。低くて穏やかで、なのに耳の奥に冷たく残る声。
黒い外套の男が一歩、ろうそくの明かりの中へ出てきた。痩せた、学者のような顔の男だった。目元は優しげで、微笑んでさえいる。
魔導師は伊吹の胸のあたりに目を止めた。胸の奥がすっと冷えた。凍えるように冷たいのに、焼けるように痛い。伊吹は思わず、制服の上から胸を押さえた。
「その娘の胸に、火を一粒……灯しておきました」
魔導師は天気の話でもするように言った。
「曇りの種火、と申します。その娘が選定に敗れれば、種火は胸を食い破り、王都ルミナスを呪いに沈めるでしょう」
司祭が震えながら目を伏せた。視界の端で、透がゆっくりと拳を握るのが見えた。
「ですから」
魔導師は優しく微笑んだ。
「負けないでくださいね。聖女様」




