第1話 召喚
はじめまして、宵星 凪と申します。
全58話、完結まで執筆済みです。少し推敲する部分もあるので分割して更新します。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
三人称一元視点で、最初は幼馴染(男)視点ですが、ほとんどは女主人公視点になります。
「透くん、このあとカラオケ行かない? 今のところ男子二人と女子三人だから、透くんが来てくれたらちょうどいい感じなんだけど」
帰り支度をしていた神代透に、クラスメイトの女子が明るく声をかけてきた。その後ろでは、もう一人の女子がもじもじしながら透の反応をうかがっている。
「誘ってくれてありがとう。でもごめん、今日はちょっと用事があって。次は俺のほうから声かけるから、そのときはよろしく」
「そっかあ、分かった。今度は絶対だからね!」
透はにこやかな顔を作ったまま、受験参考書の『化学の新研究』を鞄にしまった。今日は母のアパートに寄る日だ。余計なことをしている暇はない。教室を出るとき、背中のほうから「残念だったね」「はあ、透くん来ないなら私も行くのやめようかな」という声が聞こえたが、透は聞こえなかったふりをして廊下に出た。
誰にでもにこにこして、本当に思っていることは口にしない。そうしていれば誰とも揉めずに済む。高校に入ってからずっと、透はそういうふうにやってきた。
すっかり日が落ちていて、風がひどく冷たかった。透はマフラーに口元を埋めて夜の道を歩いた。
母の部屋で一緒に夕飯を食べて、他愛もない話をして、それから父と二人で住んでいるタワーマンションへ帰る。恵まれた住まいだということは分かっている。それでも足取りは重かった。今夜は父の恋人が来ている日かもしれない。スマートフォンの画面を見ると二十一時を少し過ぎていて、透は一時間くらい遅れて帰ろうと、遠回りをして公園に寄ることにした。
公園へ続く道の途中で、四つの人影が見えた。学生服を着崩した高校生らしい三人が、中学生くらいの男の子を一人、塀に背中を押しつけるようにして取り囲んでいる。近づくにつれて話し声が聞こえてきた。
「おい、聞こえてんのか? 財布出せって言ってんだよ」
「さっきじろじろ見て喧嘩吹っかけてきたのはおめえだろ?」
「イシャリョー払ってもらうぜ、イシャリョー」
「ごめんなさい。お金、持ってないです。じろじろ見たつもりもなくて。本当にすみません。もう、勘弁してください」
男の子は縮こまって、声を震わせながら謝っていた。頬が赤く腫れて、唇の端から血が滲んでいる。もう何発か殴られた後らしかった。
高校生にもなって、年下からカツアゲかよ。自分と同じくらいの歳の男たちに、透は呆れと怒りを覚えた。三人もいる不良に絡むなんて普段なら絶対にごめんだが、あの子を放っておくわけにもいかない。近くの角に身を潜めて、透はどうするか考えた。大声で助けを呼ぶか、それとももう警察に電話するか。スマートフォンを取り出しかけたところで、誰かが割り込んできた。
「あんたら、何してんの。湊、さっさと帰るよ。お母さん待ってるんだから」
凛とした、よく通る声だった。声の主は女の子で、肩までの黒髪に、はっきりした目鼻立ちの気の強そうな顔をしていた。近所の公立高校の制服だと透は気づいた。鞄と一緒に提げたビニール袋には、弁当の容器が透けて見える。背筋はまっすぐに伸びていて、この状況にも少しも怯んだ様子がなかった。
「姉ちゃん!」
湊と呼ばれた男の子が顔を上げた。涙目のまま、それでも少しだけほっとした顔になった。
「なんだ、こいつの姉ちゃんか。女がジャマすんなよ。引っ込んでろ。それとも、お前が代わりに払ってくれんの?」
不良の一人が、自分より十センチは低い女の子の前に立ちはだかった。女の子は一歩も引かなかった。
「払うわけないでしょ。一円だって払わない。あんたらがとっとと消えて。痛い目見たくなかったらね」
その立ち姿を見た瞬間、透は思い出した。小さい頃、いじめられていた自分の前に立って両手を広げてくれた女の子の背中。湊という名前の弟。久しく会っていなかったけれど、かつては毎日のように一緒に遊んでいた子だった。
鳴海伊吹。幼馴染の女の子だ。
苗字も下の名前も、どっちも名前みたいだよね。小さい頃に透がそう言ったら、伊吹は「それ褒めてんの?」と眉を寄せて、それから声を立てて笑った。そんなことまで、透は一度に思い出していた。
今の伊吹は頬を少し赤くして、湧き上がる怒りを必死に抑え込んでいるように見えた。
「この子をこんなにしといて、タダで済むと思わないで。でも、今なら見逃してあげるって言ってんの。だから、さっさと行って。お願いだから、これ以上この子の前で暴れさせないでよ」
伊吹の言葉に、不良たちは一瞬だけ黙った。それから一番背の高い男が鼻で笑った。
「は? 女が何イキってんの」
男が伊吹の肩に手を伸ばした。その手から逃れるように伊吹は持っていたビニール袋と鞄を足元にそっと置いた。弁当が傾かないように、わざわざ向きまで直して。
「おい、聞いてんのか」
男の手が肩に触れる寸前、伊吹の右手がその手首を掴んでいた。
何をしたのか、透にはよく見えなかった。腕を掴んで捻って、足を払った。気づいたときには、伊吹より十センチ背の高い男がアスファルトに膝をついて呻いていた。
「てめえ!」
二人目が殴りかかった。伊吹は半歩だけ横にずれて、その腕の内側へ入り込んだ。伊吹の肘が男のみぞおちに入った。鈍い音がして、二人目は体を二つに折ったまま、塀に背中からずるずると崩れ落ちた。
速い。
角に身を潜めたまま、透は息を詰めていた。鈍い音がまだ耳の奥に残っている。人が人を殴る音を、透はこんなに近くで聞いたことがなかった。あの細い腕から、あんな音が出るのか。膝をついて呻いている男の顔は街灯の下でも分かるくらい青ざめていた。やりすぎじゃないのか、と一瞬だけ思った。
でも、先に手を出したのは向こうだった。三人がかりで年下の子を囲んで、何発も殴っていた。伊吹は見逃すと言った。帰れと言った。それを鼻で笑って手を伸ばしたのは、あの男のほうだ。怖いのは伊吹じゃない。こういうことに慣れていない、自分のほうだ。
助けを呼ぶ必要も、警察を呼ぶ必要もなさそうだった。帰ろう、と透は思った。鳴海伊吹は昔から強かった。俺が出ていったところで足手まといになるだけだ。それに、もう五年も口をきいていない。今さら出ていって、何を話せばいい。久しぶり、とでも言うのか。この状況で。
関わらないほうがいい。気づいたことは、口に出さないほうがいい。十歳のあの日から、透はずっとそうしてきた。
角から一歩下がろうとして、そこで足が止まった。
不良は三人いた。伊吹の前に転がっているのは二人だ。三人目がいない。
透は塀に落ちている影を数えた。伊吹の影と、湊の影と、倒れている二人の影。それから伊吹の背後の電柱の陰から、もう一つ細長い影が伸びていた。
カチ、カチ、カチ、と小さな音がした。聞き覚えのある音だった。カッターナイフの刃を、親指で押し出す音だ。
伊吹は気づいていない。倒れた二人から目を離さずに、湊を背中にかばっている。電柱の陰から三人目の男がゆっくりと出てきて、右手に握ったカッターの刃が街灯の光を細く返した。刃物を出した時点で、もう喧嘩じゃない。
言うな、と透の中で十歳の自分が言った。気づいたことを口にすれば、また何かが壊れる。黙っていれば、誰も壊れない。
でも、黙っていたら、伊吹が。
「伊吹、後ろだ!」
声が出ていた。
伊吹の名前を口にするのは、五年ぶりだった。気づいたことを口に出したのは、七年ぶりだった。
伊吹が振り向いた。振りかぶられた腕を体ごと受け止めるように踏み込んで、男の手首を掴む。カッターの刃先が、伊吹の頬の数センチ手前で止まった。
伊吹が男の手首をひねると、カッターがアスファルトに落ちて乾いた音を立てた。伊吹は掴んだままの手首を引き寄せて、男の顎に掌底を叩き込み、続けざまにみぞおちへ拳をめり込ませた。男の体がどさりと地面に倒れた。三人とも意識はあるようだったが、うう、と呻くばかりで、もう起き上がろうとはしなかった。
伊吹がゆっくりと顔を上げて、角から半身を出している透をまっすぐに見た。
昔と同じだった。伊吹は相手が目を逸らすまで、決して自分からは逸らさない。その伊吹が驚いて目を見開いていた。
「……透?」
名前を呼ばれた、その瞬間だった。足元が光った。
アスファルトの上に、見たこともない模様が浮かび上がっていく。円と線と、読めない文字。光は道いっぱいに広がって、伊吹の足も、湊の足も、透の足も包んでいった。
「な、なんだよこれ!」
不良たちが悲鳴を上げて、転がるように逃げ出していった。
「姉ちゃん!」
湊の声が響いた。光の中で、伊吹が振り返って手を伸ばしている。湊の指先に、伊吹の指先が触れた。それなのに、光に包まれていくのは伊吹だけだった。伊吹の体が白く霞んでいった。
「湊、先に帰ってて! お弁当、そこにあるから! 母さんに、私はすぐ」
伊吹の声はそこで途切れた。何かを言いかけて、ぐっと飲み込んだように見えた。
気づいたら、透は走っていた。何をしたいのか、自分でも分からなかった。ただ、光の中に消えていく伊吹の袖を右手で掴んでいた。
足元が消えた。
冷たい。頬に当たる感触で透は目を開けた。冷たくてざらついた石の床だ。顔を上げると高い天井があって、古くて黒ずんだ梁から、ろうそくの煤の匂いがした。
右手はまだ袖を握っていた。隣で伊吹が膝をついて、肩で息をしながら周りを睨みつけていた。
目の前には白い髭の老人がひざまずいていた。裾の長い古い布の服を着て、胸の前で組んだ両手を小刻みに震わせている。その後ろの暗がりには黒い外套の男が一人、黙って立っていた。顔は影になって見えなかった。
老人が深く頭を下げた。
「お待ちしておりました」
それからゆっくりと顔を上げた。その目は透ではなく、隣の伊吹に向けられていた。
「ようこそおいでくださいました。聖女様」
礼拝堂はしんと静まり返った。
聖女。透は耳を疑った。ゲームや漫画でしか聞かない言葉だ。現実で使われるとしたら、信仰に一生を捧げた人だとか、大勢の人を救った人だとか、そういう人を指す言葉のはずだった。少なくとも、ついさっき不良三人をアスファルトに転がした女子高生を呼ぶ言葉ではない。
透は隣を見た。乱れた前髪の下で、伊吹の目がすっと細くなった。
「……は?」
伊吹の声は低かった。
「人違いです。帰してください」
膝をついたまま、それでも言葉だけは丁寧に、伊吹は老人をまっすぐ見据えた。
「弟が外にいるんです、一人で。あの子、さっき殴られて顔腫らしてるんです。母も家で待ってるし、バイト先でもらってきたお弁当だって、これから持って帰るとこだったのに。だから、お願いします。今すぐ帰してください」
伊吹の声の最後が少しだけ震えた。
老人は悲しそうに眉を下げて、震える両手を胸の前で組み直した。
「異界よりお招きした方を元の世界へお還しする力は、この大陸に、ただ一つしかございませぬ」
「なら、それを使ってください。今すぐ!」
異界という言葉を、伊吹は聞き流した。今の伊吹は帰ることしか考えていないのだ。
「それは、聖女様にしか、おできにならぬことなのです」
伊吹が息を呑むのが分かった。老人はもう一度、深く頭を下げた。
「どうか、聖女になっていただきたい。あなた様方が、お還りになるために」
後ろの暗がりで、黒い外套の男が少しだけ笑ったような気がした。




