第54話 鍵(前編)
灯の間の燭台が全部ともり直したころ、大神官が祭壇の前に進み出た。
ゆっくりとした足取りだった。肩が儀の始まりよりひとまわり小さく見えた。大神官は四つの大灯の前で足を止めて、広間を見回した。床に崩れたウィレムと、その頭を膝に抱えたリネット。剣を突き立てて膝をついたアデーレ。壁際で青ざめたまま動けない神官たち。そして伊吹。
「新しき聖女様に、申し上げねばならぬことがございます」
大神官は伊吹の前で、深く頭を下げた。
「第五巡の杯と、神殿の杯。あの二つの中身を入れ替えさせたのは、私でございます。灯守の長は、私の頼みを断れなかっただけのことかと存じます」
広間がざわめいた。祭壇の脇で、テオが石の床に膝をついた。
「違います」
テオの声はかすれていた。それでも儀のあいだのどの声よりもはっきりしていた。
「封を切ったのも、泥を盛り直したのも、わたくしの指です。大神官様は、少しのあいだ一人になれとおっしゃっただけで。……何をせよとは、一言も。わたくしが、勝手に分かったつもりになったのです」
「テオ」
大神官が静かに名を呼んだ。テオはそれきり、額を床につけたまま動かなかった。
大神官は伊吹に向き直った。
「二日目の夜更けに、ルーヴェの司祭殿が私のもとへ参られました。あの方の胸の黒い火のことを、すべて話してくださいました。……イブキ殿を聖女にしてほしい、と。私は、お断りいたしました」
大神官の声は少しも揺れなかった。神前だった。全部、本当のことだった。
「黒い火の主が、あの方を聖女の座に据えたがっている。ならば、その望みだけは叶えてはならぬ。けれど、あの方の灯を消せば、火があふれる。灯を消さぬまま、聖女の座からだけ遠ざける。……それが、私の選んだことでございます」
大神官はもう一度、深く頭を下げた。
「どうか、新しき聖女様の、最初のお裁きを」
伊吹は大神官を見ていた。
胸の奥がかっと熱くなった。熱いものが喉までせり上がってきて、止められなかった。
「……私の九を」
声が震えた。怒りで震えていた。
「私の九を、盗んだんですね。私が三日前に、こぼさないように息を止めて注いだ九を。それで私が神前で『はい』って答えたのを、嘘にしようとしたんですね」
「左様でございます」
「セレスティアさんは、私を信じて誓って、聖印を焼かれました。ノラさんは、自分の灯をほとんど全部払いました。アデーレさんは腕を焼かれた。……みんな、あなたが杯を入れ替えなかったら、しなくてよかったことです」
「左様で、ございます」
大神官は一度も目を逸らさなかった。
伊吹は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込んで痛かった。罰してやりたかった。この人のせいで、どれだけの人が傷ついたのか。聖女になったのだから、裁けるのだ。今、ここで。
それなのに伊吹の頭に浮かんだのは施療院の裏の回廊で聞いた、大神官の声だった。
私の故郷は神前で結んだ誓いが破られた夜に、灯が一つ残らず消えたと聞いております。いえ、聞いたのではなく、見たのかもしれませぬな。
「……故郷のこと」
伊吹は拳をほどいた。
「聞きました。誓いが破られた夜に、町の灯が全部消えたって。十歳だったんですよね。あの黒い火が、人から人へ燃え移っていくのを見たんですよね」
大神官の肩がかすかに揺れた。
「だから、あの火を胸に入れた私を、聖女にしたくなかった。……分かります。私も、同じだから」
伊吹は息を吸った。
「私の父は、母が病院で倒れた日に、すぐ戻るって言って出ていって、それきり帰ってきませんでした。嘘で家族を壊されたのは、私も同じです。だから、嘘で壊されるのが怖いって気持ちは、分かる」
広間が静まり返っていた。
「罰はしません」
伊吹ははっきりと言った。
「でも、許したわけじゃない。謝るなら、私にじゃなくて、セレスティアさんとノラさんにしてください。それから、今夜あったことを、全部本当のことのまま、みんなに話してください。私の九が盗まれたことも。セレスティアさんが、盗まれた油を取らなかったことも。……それが、私のお裁きです」
大神官は長いあいだ、何も言わなかった。それから皺の奥の目をほんの少しだけ細めた。
「……承りました。聖女様」
大神官は深く頭を下げた。今度は伊吹が見たことのないほど、深く。
*
「大神官様」
伊吹の後ろから、透が口を開いた。
「一つだけ、教えてください。……さっきの名前。どういう意味なんですか」
大神官は顔を上げた。いつもの穏やかな声に戻っていた。
「古い言葉で、忠実なる者、という意味でございます」
大神官は小さく首を振った。
「誓いを破った男の名が、忠実なる者。……皮肉なものですな。あの夜、随員の一人が吐き捨てたのは、そういうことであったようです。五十年、名の意味だけを抱えて生きてまいりました。名そのものは、どこにも残っておりませなんだ」
「……わしが、消したのです」
しわがれた声が広間の隅から上がった。
グレゴールだった。杖にすがって立ち上がって、震える足で一歩前に出た。イングリットが慌てて、その腕を支えた。
「グレゴール」
「五十年前、わしは十八の書記官でした。和平の場で、使節殿の誓約を書き写したのは、わしの手です。フィデリオ殿の名も、この手で書いた」
グレゴールの声が詰まった。
「誓いが破られて、隣の国の灯が消えたあと、王家はその名を記録から消すよう命じられた。誓いを破ったのは東の小国だと、そう語り継ぐように。わしは、命じられるままに、写しの署名を削りました。……削って、削って、そのうち自分でも、思い出せなくなっておった」
イングリットの顔から、血の気が引いていった。
「嘘ですわ」
声が震えていた。
「ヴァルディアは、最後まで誓いを守り抜いた国だと。神は誓いを守る者を守り、破る者を見捨てると。わたくしは、そう教わって……そう信じて、ここまで」
「殿下」
グレゴールはゆっくりと首を振った。
「ここは、神前にございます」
イングリットは何も言えなくなった。
神前で、心にないことは口にできない。グレゴールの言葉に、一つも偽りはなかった。イングリットの唇が震えていた。正しいルールの上に立ってきた人がその足元の床が、最初から傾いていたと知った。伊吹にはイングリットの指先が細かく震えているのが見えた。
「……わたくしは」
イングリットは大神官のほうを向いた。背筋を伸ばそうとして、うまく伸ばせなかった。
「わたくしの国が、あなたさまの故郷に何をしたのか、何も知らずにおりました。知らずに、誇っておりました。……申し訳、ございません」
大神官はしばらく、イングリットを見ていた。
「あなたさまが、消したのではございませぬ」
それだけ言って、大神官は目を伏せた。
*
灯の間を出ると、外はすっかり朝になっていた。
大聖堂の回廊に、白い光が斜めに差しこんでいた。伊吹は柱にもたれて、目を閉じた。一晩じゅう張りつめていた体から、少しずつ力が抜けていった。
「イブキ殿」
澄んだ声がした。目を開けると、セレスティアが立っていた。隣にリネットがいた。二人とも目の縁が赤かったけれど、もう泣いてはいなかった。
「大神官様が、先ほど、わたくしに頭を下げに来られました」
セレスティアは少しだけ困ったように笑った。
「生まれて初めてのことですわ。どうお返しすればいいのか、分からなくて。……ヨアンが、横で見ておりました」
「ヨアンさんが?」
「ええ。大神官様への報告の帳面を、いつも持ち歩いている人ですの。わたくしが何を言って、何をしたのか、全部書き留めて」
セレスティアは回廊の向こうを見た。ヨアンが柱の陰に立っていた。帳面を胸に抱えて、こちらを見ていた。
「さっき、わたくしに言いましたの。昨夜の休みに、リネットとお話しされたことは、書き留めておりません、と」
セレスティアの声がかすかに揺れた。
「ヨアンが帳面に書かなかったことなんて、十年、一度もなかったのです」
ヨアンは伊吹と目が合うと、浅く頭を下げて、回廊の向こうへ歩いていった。帳面は閉じたままだった。
「セレスティアさんは、これからどうするの」
伊吹が聞くと、セレスティアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「これから」
「聖女にならなかったら、どうするの。家に帰るの?」
セレスティアは長いあいだ黙っていた。リネットがそっと、セレスティアの指先を握った。
「……わたくしは」
セレスティアはそこで一度、言葉を止めた。
言い慣れない言葉を口にするときのように、唇が少しだけ迷った。それでもリネットの手を握り返して、伊吹をまっすぐに見た。
「わたくしは、施療院で働きたいのです。神官家の務めとしてではなくて。……どうして見ず知らずの子のために、とあなたに聞いたことがありましたわね。痛そうだったから、とあなたは答えました。わたくしには、その答えが分かりませんでした。今も、まだ分かりませぬ」
セレスティアの頬が赤くなった。
「でも、分かりたいのです。いつか、自分で。……それが、わたくしの、初めての願いですわ」
伊吹の胸の奥がじんと熱くなった。
「分かるよ。セレスティアさんなら」
「どうして、そう思われますの」
「だって、盗まれた油を、あの方の油ですって言ったじゃん。あれ、私には、痛そうだったからって言ったのと同じに聞こえたもん」
セレスティアは目を見開いた。それから両手で口元を覆って、小さく笑った。鏡の前で練習した笑い方ではなかった。少し鼻にかかった、不器用な笑い声だった。リネットが隣で、同じように笑っていた。
*
回廊の角を曲がると、イングリットが一人で窓辺に立っていた。
朝の光の中で、九つの徳の色を織りこんだ王族の衣が、場違いなほどきらびやかに光っていた。イングリットは手の中の何かを、じっと見下ろしていた。
伊吹が近づくと、イングリットは慌ててそれを袖の中に隠しかけて、やめた。
小さな布切れだった。澄んだ水色の、何の飾りもない布。
「……グレゴールしか、知らないのです」
イングリットはぽつりと言った。
「ヴァルディアの王女は、自分の心の色を纏えません。王家の衣は、九つの徳の色を全部織りこんだものと決まっておりますの。どれか一つの色を纏えば、ほかの徳を軽んじたことになる。……だからわたくしは、自分の色が何色なのか、知りませんの。これは、ただ、わたくしが好きな色というだけ」
イングリットは布切れを指でなぞった。
「正しいルールの上に立っていれば、色なんてなくても、自分が誰なのか分かると思っておりました。けれど、そのルールの下の床が、最初から傾いていたのです。……わたくしは、今、自分が何なのか、分かりませんわ」
イングリットは顔を上げて、伊吹を見た。
「イブキ殿。あなたの色は、何色ですの」
伊吹はしばらく考えた。
「……分かんない。考えたこともなかった」
正直にそう言うと、イングリットは小さく息を吐いた。笑ったのか、ため息だったのか、分からなかった。
「でもさ」
伊吹はイングリットの手の中の布切れを指さした。
「殿下は、その色が好きなんでしょ。だったら、それでいいんじゃないの。どの徳の色かなんて、関係なくて。殿下が好きで選んだ色なら、それが殿下の色だよ」
イングリットは目を瞬かせた。
「……そんな、簡単なことですの」
「簡単じゃないよ。ずっと隠してたんでしょ。それを今、私に見せた。それって、たぶん、すごく勇気がいったと思う」
イングリットはしばらく、何も言わなかった。それから布切れを、袖の中に戻すのではなく、そっと胸元に挟んだ。九つの徳の色の衣の上で、小さな水色が一つだけ、朝の光を返していた。
「国に帰ったら、父に聞きます。五十年前のことを。……正しいルールが何を消してきたのか、わたくしが自分の目で確かめますわ」
イングリットの声はもう震えていなかった。




