第53話 真の名
「おめでとうございます。聖女様」
ウィレムの声は召喚の夜と少しも変わらなかった。
穏やかで、丁寧で、温かいとさえ言えそうな声だった。黒い外套の裾を石の床に引いて、ウィレムはゆっくりと灯の間の中へ歩いてきた。足音が一つ響くたびに、四つの大灯の炎がそちらへ傾いた。
伊吹の胸の奥で、黒い火がちりちりと鳴った。
透が伊吹の前に出た。伊吹の手を握ったまま、半歩だけ。それだけで、ウィレムと伊吹のあいだに透の背中が入った。
「ウィレム殿」
大神官の声がした。祭壇の前から一歩も動かずに、大神官はウィレムを見ていた。皺の奥の目が見たことがないほど細くなっていた。
「儀は終わりました。見届け人でもない方が、この灯の間に下りてこられるのは」
「掟に背く、と。ええ、存じております」
ウィレムは大神官のほうを見もしなかった。伊吹だけを見て、目を細めて微笑んだ。
「ですが、こればかりは、この目で見届けたかったのです。召喚の夜から、ずっとお待ち申し上げておりましたから。……よくぞ勝ってくださいました。負けないでくださいね、と申し上げた甲斐がございました」
「あんたのために勝ったんじゃない」
声が勝手に出ていた。伊吹は透の肩越しに、ウィレムをにらみつけた。
「私は、私の九を取り返して勝ったの。ノラさんが三を払ってくれて、セレスティアさんが零って書いてくれて。あんたなんか、何もしてない」
「ええ。何も」
ウィレムは楽しそうに頷いた。
「何もせずとも、あなたは勝つと分かっておりました。そちらの方がおられるかぎり」
ウィレムの目がゆっくりと透に移った。
その瞬間、伊吹の背中にぞわりと冷たいものが走った。ウィレムの微笑みは少しも変わっていなかった。それなのに透を見るときだけ、ウィレムの目つきがひどく冷たくなった気がした。欲しかったものを、やっと手の届くところに見つけたような目つきだった。
「ですから、少し困っております」
ウィレムは小さく首をかしげた。
「この三日、ずいぶんと熱心に、私の名を探しておられましたね。大聖堂の文書庫に、ヴァルディアの古い誓約文。商人の娘に買わせた官名。……私が気づかぬとでもお思いでしたか」
透の手が伊吹の手の中でぴくりと動いた。
「名を呼ばれるのは、好みません」
ウィレムが右手の指を一本、ゆっくりと持ち上げた。召喚の夜と同じ仕草だった。
次の瞬間伊吹の胸の奥で、何かが爆ぜた。
*
息ができなかった。
氷を丸ごと飲みこんだように冷たいのに、内側から焼けた鉄を押し当てられているように熱い。召喚の夜と同じ痛みだった。けれどあの夜よりずっと深くて、ずっと長かった。伊吹は透の手を握ったまま、膝から崩れ落ちた。
「伊吹!」
透の声が遠かった。
石の床に手をついた。右手の甲が目の前にあった。さっきまで澄んだ金色に光っていた聖印が、縁のほうから黒く染まり始めていた。墨を落とした水のように、じわじわと。
「十六の灯が集まりきる前に、この器を私の火で満たしてしまいましょう」
ウィレムの声が頭の上から降ってきた。
「聖女の灯は、この世で一番大きな器です。満たせば、この王都ごと沈められる。……さあ、お呼びなさい、異界の方。私の名を。ただし、名は一度きり。呼び誤れば、私はその名を喰って、この宿に根を下ろします。この男ごと、二度と剥がれぬように」
伊吹は顔を上げた。視界の端が黒く滲んでいた。
透がそこに立っていた。ウィレムと伊吹のあいだに。両手を固く握りしめて、唇を引き結んで、ウィレムを見上げていた。
透の唇が小さく動いた。
「……二つまでは、来てるんだ」
ほとんど声にならない声だった。伊吹にだけ聞こえる声だった。
「二つまでは来てる。でも、真ん中の一字が割れない。どっちか分からない。外したら、終わる」
透の拳が震えていた。
伊吹は透の背中を見上げた。いつも全部数えて、全部分かっているような顔をして、伊吹の後ろに立っていた背中だった。その背中が今、小さく震えていた。
胸の奥がまた爆ぜた。伊吹は歯を食いしばって、声を殺した。声を上げたら、透がもっと焦る。それだけは分かった。
*
黒い火がウィレムの足元から湧き上がった。
煙のようで、炎のようで、そのどちらでもなかった。冷たく揺れる黒いものが石の床を這って広がっていく。触れた燭台の火が音もなく消えた。
灯の間の空気が凍りついた。
観覧席の誰もが動けなくなっていた。リコリスが扇を握ったまま固まっていた。シルヴィがミルを抱きしめて、声も出せずに震えていた。神官たちが壁に背中を押しつけていた。足が床に縫いつけられたように、誰も一歩も前に出られなかった。
あの黒い火の前では体が竦む。召喚の夜に、伊吹も知った。
黒い火の先が蛇の頭のように持ち上がった。透の喉元へ向かって、まっすぐに伸びてきた。
「透!」
伊吹は叫んだ。叫んだつもりだった。声はかすれて、ほとんど出なかった。
そのとき石段の上から怒鳴り声が降ってきた。
「騎士殿!」
ディートリヒの声だった。
伊吹が聞いたこともないほど大きな声だった。灯の間の扉の外で、主の剣を預かっていた従士が、石段の上から鞘ごとの剣を投げ下ろしていた。剣はくるくると回りながら、燭台の明かりの中を落ちてきた。
銀の籠手がそれを空中で掴んだ。アデーレだった。
誰もが竦んで動けない灯の間で、アデーレだけが走っていた。鞘を払って床に投げ捨てて、透の前に飛びこんだ。黒い火の先が透の喉に届く寸前、銀の刃がそれを横から叩き斬った。
黒い火が悲鳴のような音を立てて散った。
「下がれ、参謀」
アデーレは振り返らずに言った。剣を正面に構えたまま、ウィレムと透のあいだに立っていた。短く刈った金髪の下で、額から汗が流れていた。
「アデーレさん、その人を斬っちゃだめだ」
透が叫んだ。
「ウィレムさんの体が倒れたら、種火がその場であふれる。伊吹の胸の火が」
「分かっている」
アデーレの声は短かった。
「斬らん。阻むだけだ」
ウィレムの微笑みがほんの少しだけ揺れた。
「勇気の加護、でございますか。……恐れで体が止まらぬだけの、ただの騎士くずれが」
黒い火が今度は三つに分かれて伸びた。一つは透へ、一つは伊吹へ、一つはアデーレの足元へ。
アデーレは一歩も退かなかった。
一つ目を斬った。二つ目を、刃の腹で弾いた。三つ目が足首に絡みついた。銀の脛当ての上から、黒い火がじわりと染みこんでいく。アデーレの顔が痛みで歪んだ。それでも膝は折れなかった。剣を逆手に持ち替えて、足首の火を床ごと突き刺した。
黒い火が散った。脛当ての銀が焼けたように黒ずんでいた。
「シュタール家のアデーレ」
アデーレは剣を構え直した。荒い息の合間に、はっきりと言った。
「この聖印にかけて誓った。ナルミイブキを、選定の終わりまで、いかなる手にも渡さない。手を伸ばす者があれば、我が剣が阻む」
アデーレの右手の甲が白く光った。
「選定は、まだ終わっていない。聖女の誓いの朝が来るまでは」
伊吹の喉の奥が熱くなった。
誓いは世界が裁く。守れなければ、アデーレの聖印が焼ける。それを分かっていて、アデーレは黒い火の前に立っていた。騎士になりたくて、夜ごと一人で剣を振ってきた人だった。生まれて初めて立てた騎士の誓いを、伊吹のために使ってくれた人だった。
「背負える」
アデーレが言った。巡礼路の雪の斜面で、白蓮を背負ったときと同じ言葉だった。
「私の背中は、まだ空いている。……行け、参謀。名を探せ」
*
透が振り返った。
膝をついたままの伊吹と、目が合った。透の顔は青ざめていた。息が浅かった。それでも伊吹を見た瞬間、その目の奥で何かが一つ、固まったのが分かった。
透は懐から赤いボールペンを取り出した。
かちり、と頭を押した。それから膝の上で紙切れを広げた。何も言わずに、何かを書きつけた。
声に出さないのだ。伊吹にも分かった。名は一度しか呼べない。神前で口にすれば、それが呼んだことになるかもしれない。だから書く。文字は何も裁かない。文字なら、何度書いても、何も起こらない。
透は紙を握りしめて、走った。
アデーレの背中の後ろを抜けて、祭壇の前へ。大神官の前へ。
「大神官様」
透は紙を大神官の目の前に突き出した。
「どちらかです。二つまでは絞れた。でも、真ん中の一字が分からない。グレゴールさんの写しの字が、どちらにも読める。……五十年前、あなたは十歳で、あの夜を見たんでしょう。ヴァルディアの使節を。その名前を、聞いてませんか。一度でいい。誰かが、この名前を口にするのを」
大神官は紙を見下ろした。
長い沈黙だった。黒い火が床を這う音と、アデーレの剣が空を斬る音と、伊吹の荒い息だけが、灯の間に響いていた。
「……名は、知らぬのです」
大神官の声はかすれていた。
「五十年、探しました。ヴァルディアのどの記録にも、その名は残っておりませなんだ。私が覚えているのは、ただ一つ。あの夜、随員の一人が吐き捨てた言葉だけです」
大神官は紙の上の二つの名を、皺だらけの指でなぞった。片方の名の上で、指が止まった。
「忠実なる者が、聞いて呆れる」
大神官の唇が震えた。
「……そうか。そういう、ことであったか」
大神官は顔を上げた。皺の奥の目がウィレムの足元の黒い火を見た。冷たく揺れる、その揺れ方を、長いあいだ見つめていた。
「あの夜の火と、同じ揺れ方だ」
それから大神官は紙の上の一つの名を、指でまっすぐに押さえた。
「こちらだ」
いつもの穏やかな声ではなかった。ようです、も、かと存じます、もなかった。
「間違いない。五十年前、私はこの名の意味を、この耳で聞いている。……異界の方。こちらを呼べ」
灯の間にいる誰もが息を止めた。
大神官が言い切ったのだ。伊吹がこの世界に来てから、一度も聞いたことのない言い方だった。神前で、心にないことは口にできない。大神官の心は少しも迷っていなかった。
透は紙を握りしめて、振り返った。ウィレムはもう微笑んでいなかった。
*
「やめなさい」
ウィレムの声が初めて揺れた。
黒い火が床じゅうから一斉に立ち上がった。燭台の火が次々に消えていった。灯の間が暗くなっていく。四つの大灯の炎だけがまだ揺れながら燃えていた。
黒い火が四方から透に向かって伸びた。
アデーレが透の前に飛びこんだ。斬った。弾いた。斬った。それでも数が多すぎた。一本がアデーレの左腕を掠めて、銀の籠手が黒く焦げた。アデーレが短く呻いた。剣を握る右手は少しも緩まなかった。
「参謀!」
アデーレが叫んだ。
「今だ!」
透が一歩前に出た。
黒い火が透の頬のすぐ横を掠めていった。透は目を閉じなかった。ウィレムをまっすぐに見て、息を吸った。
伊吹は膝をついたまま、透の背中を見ていた。
小さいころ、いじめられて泣いていた背中だった。伊吹が何度もその前に飛び出していった背中だった。七年ぶりに会ったら、伊吹よりずっと背が高くなっていた背中だった。
その背中が今、伊吹の前に立っていた。
「フィデリオ」
透の声が灯の間に響いた。
静かな声だった。叫んだのではなかった。神前で、ただ一度、まっすぐにその名を呼んだ。
一瞬、何も起こらなかった。それからウィレムの体が大きくのけぞった。
喉の奥から、人のものではない声が漏れた。ウィレムの胸から、黒いものがずるりと引き剥がされていった。煙のようで、炎のようで、そのどちらでもないもの。冷たく揺れる、黒い火。それが人の形をとって、ウィレムの体から離れていく。
ウィレムの体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。リネットの悲鳴が聞こえた。
黒い火が灯の間の真ん中に浮かんでいた。
顔のない人の形だった。それでも伊吹にはそれが笑っているように見えた。いや、笑ってはいなかった。歯を食いしばっていた。
「……よくも」
声はもうウィレムの声ではなかった。かすれて、低くて、ひどく古い声だった。
「よくも、その名を」
*
胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
黒い火が剥がれても伊吹の胸の種火は消えていなかった。むしろ、持ち主を求めて暴れていた。聖印の黒が手首まで広がっていた。
「伊吹!」
透が駆け戻ってきた。伊吹の前に膝をついて、両肩を掴んだ。
「伊吹、誓って。三つ目だ。この火は、その名の者のものだって。伊吹が誓わないと、返せない。伊吹の胸の火を手放せるのは、伊吹だけなんだ」
伊吹は透の顔を見た。
透の顔はまだ青ざめていた。両手が伊吹の肩を掴んだまま震えていた。それでも声は少しも揺れていなかった。
「伊吹なら、言える」
伊吹は奥歯を噛みしめた。
焼けるように痛かった。凍えるように寒かった。息をするたびに、胸の奥で何かが軋んだ。それでも伊吹は黒く染まりかけた右手を、ゆっくりと持ち上げた。
自分の胸に、当てた。
召喚の夜から、ずっとここにあった火だった。自分の中にあるのに、自分のものではない火だった。この火のせいで、負けられなかった。この火のせいで、透は一人で全部抱えこんで、伊吹に何も言えなかった。
もう、いらない。
「この火は」
声が震えた。伊吹は息を吸い直した。今度は震えなかった。
「この火は、フィデリオのものだ」
手の甲の聖印が燃えるように熱くなった。
誓いは世界が裁く。黒く染まっていた聖印の縁から、黒がさあっと引いていった。墨を洗い流すように。その下から、澄んだ金色が戻ってきた。
胸の奥から、何かが抜けていった。
冷たくて熱い、小さな一粒。それが伊吹の胸を離れて、宙に浮かぶ黒い火のほうへ、まっすぐに飛んでいった。黒い火の胸のあたりに吸いこまれて、消えた。
伊吹は大きく息を吸った。
肺の奥まで、空気が入ってきた。召喚の夜から、一度もこんなふうに息を吸えたことはなかった。胸のどこにももう冷たいものはなかった。
*
四つの大灯の炎が一斉に高く伸びた。
灯の間の飴色の壁が内側から光り始めた。何百年も聖火が燃え続けて、石に染みついた灯。その灯が目を覚ましたように輝いていた。光は伊吹の右手の聖印に集まって、それから宙に浮かぶ黒い火に向かって、まっすぐに放たれた。
選定の灯の光だった。聖女のもとへ集まった、十五の灯の光だった。
澄んだ金色の光が黒い火を包んだ。黒い火が身をよじった。返された種火ごと、光の中で焼かれていった。
「……ああ」
黒い火の声がかすれた。
「聖女など、どうでも、よかったのだ」
黒い火は伊吹を見ていなかった。伊吹の前に膝をついている、透を見ていた。
「導き手よ」
古い声がひどく優しく言った。
「お前は、もう、半分こちら側にいる」
透の肩がびくりと跳ねた。
黒い火が光の中でほどけていった。煙のように、灰のように、最後の一筋まで、跡形もなく消えていった。
灯の間が静かになった。
消えていた燭台の火が一つ、また一つと、ひとりでにともり直していった。四つの大灯の炎が元の高さに戻って、まっすぐに立った。
伊吹は見た。透の足元の石の床に、小さな光が一つ、沈んでいくのを。
金色の、欠片のような光だった。聖灯の炎を小さくちぎったような。それが石の中へ、水に沈むようにすうっと消えていった。透は気づいていなかった。伊吹を見たまま、まだ肩を掴んでいた。
見間違いかもしれない。伊吹は瞬きをした。もう、そこには何もなかった。
「……伊吹」
透の声がかすれていた。
「息、できる?」
「できる」
伊吹は透の手に、自分の手を重ねた。
「すごく、できる」
透の肩から、力が抜けた。透はそのまま、伊吹の肩に額を押しつけた。何も言わなかった。透の背中が小さく上下していた。伊吹はその背中に、そっと手を回した。
少し離れたところで、アデーレが剣を床に突き立てて、片膝をついていた。左腕の籠手が黒く焦げて、脛当てもぼろぼろだった。それでも右手の甲の聖印は白く光ったままだった。焼けてはいなかった。
ディートリヒが石段を駆け下りてきて、主の横に膝をついた。何か言いかけて、やめた。
「何も言うな」
アデーレが先に言った。荒い息の合間に、少しだけ口の端を上げていた。
「お前の言いたいことは、分かっている」
「……御意」
ディートリヒは深く頭を下げた。その肩がほんの少しだけ震えていた。
*
そのとき床に倒れていたウィレムの指が動いた。
リネットが駆け寄った。ウィレムの頭を膝に抱えて、何度も名前を呼んでいた。先生、先生、と。
ウィレムの瞼がゆっくりと開いた。
濁りのない、静かな目だった。召喚の夜から一度も見たことのない目だった。その目がぼんやりとリネットの顔を映した。
「……リネット」
かすれた声だった。
「リネット、なのか。……ああ、大きく、なったね」
ウィレムの目から、涙があふれた。
それからウィレムは子どものように声を上げて泣き崩れた。リネットの膝にすがりついて、何度も、何度も、すまない、と繰り返していた。




