第52話 夜明けの一目盛り
小刀の刃が乾いた封泥に食いこんだ。
ぱきり、と小さな音がした。灰色の泥が二つに割れて、石の床に落ちた。渦の模様の半分が伊吹の足元まで転がってきた。
伊吹はそれを見下ろした。細かな渦。乾いたひび割れ。どこにも斜めに走る線はなかった。
テオが紐をほどいて、杯の口を覆っていた布をめくった。両手で杯を持ち上げて、祭壇の上の浅い銀の盆に傾けた。
どろりとしたものが流れ出た。
黒かった。油を搾ったあとの、灯実の滓。燭台の明かりを少しも返さない、濁った黒だった。盆の上にゆっくりと広がって、鼻の奥に焦げた種のような匂いが届いた。
広間の誰も声を出さなかった。
伊吹は盆の上の黒いものから、目を離せなかった。九と書いた杯だった。九目盛りの澄んだ油を、自分の手で注いだ杯だった。三日前、宝物庫の脇の小部屋で、こぼさないように息を止めて注いだ。
それがこんな色になって出てきた。
分かっていたはずだった。第九巡で、もう分かっていた。それなのに目の前で見ると、胸の奥がぎゅっと絞られるように痛んだ。伊吹は透の手を握る指に力をこめた。透の手も同じくらい強く握り返してきた。
「……この杯の中身は」
テオの声が震えていた。
「灯実の、澱にございます」
その言葉が終わるより先に、セレスティアの右手の甲が白く光った。
セレスティアの肩がびくりと跳ねた。唇をきつく引き結んで、左手で右手首を握りしめた。誓いが外れたのだ。九目盛りと誓った手の甲の聖印が世界に裁かれて焼けていた。白い大灯の炎がすうっと縮んでいった。五目盛り。
二十五から、二十へ。
セレスティアは声を上げなかった。眉を寄せて、額に汗を浮かべて、それでも膝を折らなかった。痛みが引くまで、まっすぐに立ったまま、自分の大灯を見上げていた。
伊吹は思わず一歩踏み出しかけた。透の手がそれを引き止めた。セレスティアはこちらを見て、ほんの少しだけ首を横に振った。
来なくていい、と言われた気がした。これは自分で選んだ痛みだから、と。
*
観覧席がざわめき始めた。
「澱……伊吹の『九』から澱が出たわよ」
リコリスの声が上ずっていた。
「あの子、第五巡で神前で九だって答えたのよ。嘘をついてたら声が出なかったはず。だったら、注いだときは九だったってことじゃない。……途中で、誰かが入れ替えたのよ。神殿の杯と」
「杯に触れてよいのは、灯守だけです」
朔が低い声で言った。紙を持つ手が小さく震えていた。
「そして神殿の杯から出てきたのは、伊吹様の九でした」
観覧席の神官たちが一人、また一人と立ち上がった。誰かが灯守の長の名を呼んだ。誰かが大神官のほうを振り返った。広間のざわめきが石の天井にぶつかって大きく膨らんでいった。
「静かに」
澄んだ声がざわめきを切った。
イングリットだった。緑の帯の大灯の前に立って、観覧席を見上げていた。
「儀は、まだ終わっておりませぬ。売れ残りの杯が、あと二つ。夜明けの受け取りも済んでおりませぬ。……裁くのは、それからでよろしいでしょう。この灯の間で、最後まで掟を守らずに、誰が誰を裁けますの」
観覧席がしんとなった。
伊吹はイングリットの横顔を見た。眉を寄せて、唇を固く結んでいた。正しいルールの上に立つ人はこんなときでも同じ場所に立っていた。それなのに握りしめた拳が白くなっていた。
テオが二つ目の杯の封を切った。ノラの「九」だった。中身は澄んだ油で、一目盛り分しかなかった。誰も誓っていない杯だった。三つ目は伊吹の「一」。こちらも一目盛り。どちらの油も誰の灯にも注がれずに銀の盆に戻された。
「夜明けの受け取りに、移らせていただきます」
テオが帳面を開いた。声はまだかすれていたけれど、もう震えてはいなかった。
「自らの杯を他の方に落とされた候補は、売値の半分を受け取ります。……第三巡、イングリット殿の『五』を、ナルミイブキ殿が二目盛りにて。イングリット殿に、一目盛り」
緑の帯の炎が小さく伸びた。十四。
「第六巡、ノラ殿の『一』を、セレスティア殿が七目盛りにて。ノラ殿に、三目盛り」
鼠色の帯の炎がふわりと伸びた。一から、四へ。ノラの後ろで、チッチが小さく息を吐くのが聞こえた。ノラは帽子のつばの下で、銅貨を指の上に乗せたまま、ちょっとだけ笑った。
「第一巡と第四巡のセレスティア殿の杯は、ご自身とノラ殿が落とされましたゆえ、セレスティア殿へのお受け取りは、なしにございます」
テオは帳面を閉じた。四つの大灯が並んでいた。
伊吹は一つずつ、目盛りを数えた。数え間違えないように、一本ずつ、指でなぞるように。
鼠色の帯は四。緑の帯は十四。白い帯は二十。
そして灰青の帯は――二十一。
*
「伊吹様が、二十一」
観覧席で、朔が紙を握りしめていた。もう数字を書いてはいなかった。字を書く手が震えて動かなかった。
「セレスティア様が、二十」
「一つ」
リコリスの声が裏返った。
「一つだけ、上よ。あの子、一目盛りだけ、上に立ってる」
シルヴィがミルを抱きしめたまま、声を上げて泣き出した。ミルの小さな光がシルヴィの頬の涙を照らして、ちかちかと瞬いていた。
「伊吹さん、勝った。勝ったんだよね、リコリスさん。ねえ」
「勝ったわよ」
リコリスは扇を開こうとして、うまく開けなかった。指が震えていた。扇は膝の上に落ちて、リコリスはそれを拾おうともしなかった。
「泣くのは勝ってから。……今よ。今、泣いていいのよ、あの子」
リコリスは膝の上の扇を拾い上げて、ぱちりと閉じた。いつもの調子に戻った声だった。それでも扇を握る指先にはまだ力が入りすぎていた。白蓮は閉じた目を伊吹の大灯のほうへ向けて、静かに微笑んでいた。
「温かい灯です。遠くから借りてきた、細い灯だったのに。……今は、こんなにも」
アデーレは伊吹の大灯の後ろで、一度だけ強く目を閉じた。それから騎士の誓いを立てたときと同じように、右の拳を胸に当てた。
*
大神官が椅子から立ち上がった。
ゆっくりとした動きだった。祭壇の前まで歩いてきて、四つの大灯を一つずつ見上げた。最後に、灰青の帯の大灯の前で足を止めた。
「九杯の儀の掟、その十五」
低い声だった。いつもの穏やかさはどこかに置いてきたようだった。
「夜明けに大灯の目盛りが最も多い者を、聖女とする」
大神官は伊吹のほうを向いた。皺の奥の目が伊吹をまっすぐに見ていた。何かを言おうとして、一度だけ唇を閉じた。
「ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿の大灯が、最も多いようでございます。……九杯の儀は、ナルミイブキ殿の勝ちと、そのように定めるほかないかと存じます」
広間の空気が震えた。
次の瞬間観覧席から声が上がった。歓声とも悲鳴ともつかない声だった。誰かが手を叩き、誰かが泣き、誰かが伊吹の名前を叫んでいた。ナルミイブキ、とこの世界の発音で。
伊吹にはその声がずっと遠くに聞こえた。
足に力が入らなかった。膝が勝手に折れそうになって、透の手にしがみついた。
勝った。
頭の中で、その言葉だけがぐるぐる回っていた。勝った。一目盛りだけ。九を盗まれて、九を取り返して、誓いを賭けて、最後に零と書いて。それで、一つだけ上に立った。
胸の奥から、熱いものがせり上がってきた。止められなかった。伊吹は声を上げて泣いた。召喚の夜から、ずっと飲み込んできたものが、全部いっぺんにあふれてきた。
「……伊吹」
すぐ耳元で、透の声がした。
耳打ちではなかった。普通の声だった。儀が終わって、透はやっと声を出せるようになったのだ。それなのにその声はひどくかすれていた。
「伊吹。勝ったよ」
「……知ってる」
「伊吹が勝ったんだ。俺じゃなくて、伊吹が」
透の声が途中で詰まった。伊吹が顔を上げると、透は伊吹の手を握ったまま笑っていた。召喚の夜からずっと張りつめていた肩が、やっと下がっていた。
「最後の巡、俺、何も言えなかった。耳打ちもできなかった。伊吹が零って書くの、後ろから見てるだけだった。……あの杯、一って書けば、大差で勝てたのに」
「書かないよ」
伊吹は鼻をすすって、透をにらんだ。
「書けるわけないじゃん。セレスティアさん、盗まれた油を、あの方の油ですって言ったんだよ。あの人を沈めて勝つくらいなら、私、負けたほうがましだった」
「うん」
透は笑った。少しだけ、困ったように。
「知ってた。伊吹は、そっちを選ぶって」
「……ずるい」
「何が」
「全部。知ってたみたいなこと言って、全部後ろで見てて」
言いかけて、伊吹はまた泣いた。今度は透の肩に額を押しつけて泣いた。透の手がそっと伊吹の背中に置かれた。その手も震えていた。
*
どれくらいそうしていたのか、分からなかった。
顔を上げると、ノラが目の前に立っていた。帽子を脱いで、胸に抱えていた。チッチがその後ろで、真っ赤な目をこすっていた。
「おめでと、聖女様」
ノラはいつもの調子で言った。けれど声の底がかすかに揺れていた。
「四目盛り、残っちゃった。灯、消えなかったよ。……ちょっと残念な気もするけどさ。あんたに全部あげたつもりだったのに」
「ノラさん」
伊吹は涙を拭いて、ノラの手を両手で握った。小さくて、かさかさした手だった。銅貨を転がし続けてきた指だった。
「約束、覚えてる」
「当たり前でしょ」
「一人残らず、解くから。ネネも、チッチも。ノラさんの下にいる子、全員」
ノラは何も言わなかった。帽子を胸に抱えたまま、唇を噛んで、こくりと頷いた。その目から、ぽろりと涙が落ちた。ノラは慌てて帽子をかぶり直して、つばを深く下げた。
「……泣いてないからね」
「うん」
「チッチ、あんたもよ。泣いてないって、ネネに言うんだからね」
「泣いてねえよ」
チッチの声はすっかり鼻声だった。その向こうで、セレスティアが一人で立っていた。
白い装束の右の袖口を、左手で押さえていた。聖印が焼けた痛みがまだ残っているのだろう。それでも背筋はまっすぐだった。伊吹と目が合うと、セレスティアはゆっくりと歩いてきた。
「イブキ殿」
澄んだ声だった。いつもの、完璧な聖女の声とは少し違った。
「おめでとうございます。……あなたが、聖女です」
「セレスティアさん」
伊吹は何を言えばいいのか分からなかった。ありがとう、では足りなかった。ごめんなさい、は違う気がした。喉の奥で言葉が絡まって、どれも出てこなかった。
「あの杯」
伊吹はやっとそれだけ言った。
「第九巡の。取れたのに。取ってたら、セレスティアさんが」
「ええ。取れましたわ」
セレスティアは静かに言った。
「大神官様も、取れとおっしゃいました。わたくしは、生まれてからずっと、言われたとおりに生きてまいりました。言われたとおりに祈って、言われたとおりに微笑んで。……聖女になれと言われたから、ここに立っておりました」
セレスティアの声がかすかに揺れた。
「けれど、あの杯だけは、取りたくありませんでした。あなたが九と書いて、九を注いで、それを盗まれて。それでも神前で、本当のことだけを言い続けたあなたの油を。……わたくしは、あれを飲んで聖女になる自分を、一生、鏡で見られないと思いましたの」
セレスティアは小さく笑った。困ったように眉を下げて、それでも口の端を上げていた。
「負けましたわ。わたくしが選んで、負けました。……不思議ですわね。少しも、悔しくないのです」
そう言った瞬間、セレスティアの目から涙がこぼれた。
一粒こぼれると、あとは止まらなかった。セレスティアは驚いたように自分の頬に触れて、それから両手で顔を覆った。肩が震えていた。声を殺して、それでも殺しきれずに、細い嗚咽が指の隙間から漏れた。
「……セレス」
リネットが駆け寄ってきて、セレスティアを抱きしめた。セレスティアはリネットの肩に顔をうずめて、子どものように泣いた。
悔しくないと言ったのに、とは伊吹は思わなかった。あれはたぶん、悔し涙ではなかった。自分で選んだことの重さに、体がやっと追いついた涙だった。
少し離れたところで、ヨアンが一人で立っていた。セレスティアの背中を見つめて、唇を引き結んでいた。その手に、大神官への報告のための帳面が握られていた。ヨアンはそれを開かなかった。
*
大聖堂の外では夜が明けかけていた。貧民街の外れの、崩れかけた倉の屋根の上で、ネネは膝を抱えて塔を見上げていた。
一晩じゅう、ここにいた。塔のてっぺんには四つの篝火が並んでいた。一つは白くて、一つは緑で、一つは煤けた灰色で、一つは青っぽい灰色だった。最初は白い火が一番高かった。灰青の火は一番低くて、夜中には今にも消えそうなくらい小さくなった。ネネはそのたびに、手首の誓いの印を握りしめて祈った。
夜明け前に、灰青の火が急に伸びた。それから長いあいだ、四つの火はほとんど同じ高さで燃えていた。
そして今、白い火がすうっと縮んで、灰青の火がほんの少しだけ、白い火の上に出た。
「……お姉ちゃん」
ネネは屋根の上で立ち上がった。
ほんの少しだった。目を細めなければ分からないくらい。それでも灰青の火が一番上だった。
「お姉ちゃんだ」
下の路地から、誰かの叫び声が聞こえた。窓が開く音がした。灰青の火だ、ルーヴェの火だ、と誰かが言った。あの、薬を塗ってくれたお姉ちゃんの火だ、と別の誰かが言った。声がどんどん増えていった。貧民街の屋根という屋根に、人が出てきていた。
ネネは手首の誓いの印を見下ろした。
まだそこにあった。小さくて、古くて、何度も痛んだ印。
覚えとく。あのとき、お姉ちゃんはそう言わなかった。約束はしなかった。それでもネネはなぜか知っていた。
ネネは手首を胸に抱えて、塔の灰青の火に向かって、声が嗄れるまで叫んだ。
*
灯の間の空気がふいに変わった。
伊吹は顔を上げた。四つの大灯の炎が同時に揺れていた。風はどこからも入ってこないのに、炎がみんな、伊吹のほうへ傾いていた。
右手の甲が熱くなった。
聖印だった。誓いを立てるときの熱とは違った。もっと深くて、もっと大きな熱が、手の甲から腕を伝って、胸の奥まで流れこんでくる。
「十六の灯が」
大神官の声がした。
「聖女のもとへ、集まり始めたようでございます」
伊吹は自分の手の甲を見た。聖印が澄んだ金色に光っていた。光は少しずつ強くなって、灯の間の飴色の壁を、内側から照らしていった。
温かかった。それなのに胸の奥の一点だけがちりっと冷たくなった。
伊吹は息を止めた。召喚の夜から、ずっとそこにある黒い火。金色の光に照らされて、それが目を覚ましたように身じろぎした気がした。
透の手が伊吹の手を強く握った。透は伊吹を見ていなかった。灯の間の入口の、石の階段のほうを見ていた。
階段の上から、足音が下りてきた。
ゆっくりとした、規則正しい足音だった。黒い外套の裾が石段の上に見えた。それから外套の袖口からのぞく細い指が見えた。
宮廷魔導師ウィレムは階段の最後の一段を下りると、穏やかに微笑んで、深々と頭を下げた。
「おめでとうございます。聖女様」




