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負けたら王都が沈むので、嘘の通じない聖女選定を嘘つき幼馴染と頭脳戦で勝ち抜く  作者: 宵星 凪


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第51話 満ちたる灯(後編)

「競りの時にございます」


 伊吹は札を受け取った。零。それしか書けなかった。一目盛りでも払えば、夜明けにセレスティアの上には立てない。書けるのは零だけ。あとは誰かが選ぶのを待つしかない。伊吹は札を握りしめて、零と書いた。筆の先が震えて、丸がいびつになった。


 顔を上げると、祭壇の前の椅子から、大神官がわずかに身を乗り出していた。セレスティアのほうへ。


 唇が動いた。声は聞こえなかった。それでも伊吹には読み取れた気がした。


 お取りなさいませ。ご自分の灯を、名指して。


 セレスティアは札を見下ろしていた。白い指で筆を持ったまま、長いあいだ動かなかった。それから静かに何かを書いた。


「開かれませ」


 札が一斉に表に返された。


 伊吹。零。


 セレスティア。零。


 イングリット。零。


 ノラ。三。


 広間が凍りついた。


「……セレスティア殿」


 大神官の声だった。いつもの穏やかな声がほんのかすかにかすれていた。


 セレスティアは大神官のほうを向いた。背筋をまっすぐに伸ばしていた。その目の縁が赤かった。それでも少しも揺れていない声で言った。


「それは、あの方の油です」


 広間に、その声が響いた。


 神前で口にした言葉は心で裁かれる。セレスティアの心はそう言っていた。伊吹は息を呑んだ。セレスティアは伊吹のほうを一度だけ見た。鏡の前で練習した微笑みではなかった。少し困ったように眉を下げて、それでも口の端だけ、ほんの少し上げていた。


 イングリットが一歩前に出た。


「わたくしも、同じですわ」


 澄んだ声だった。


「盗まれた油で勝つことを、わたくしは正しいとは思いませぬ。たとえ掟の内であっても。……あの杯は、儀が始まったときからずっと傾いておりました。今、ようやく形が分かりましたわ」


 イングリットは大神官をまっすぐに見て、それから伊吹を見た。


「イブキ殿。あなたの誓いには、傾きがございませんでしたわ」


 伊吹の喉の奥が熱くなった。


 そして三。伊吹はノラを見た。ノラは帽子のつばの下で、指の上の銅貨をくるくると転がしていた。いつもと同じように。


「王都の候補、ノラ殿」


 テオの声はかすれていた。それでもさっきまでとは違った。どこか、肩の荷を下ろしたような声だった。


「注ぐ灯を、神前にて名指してくださいませ」


「うん」


 ノラは銅貨を握りこんで、帽子のつばを押し上げた。


「ナルミイブキの灯に」


 伊吹は叫んでいた。


「ノラさん!」


 足が勝手に前に出ていた。


「自分の灯に入れなよ! ノラさんの灯、四しかないんだよ。三払ったら、一しか残らない。自分に入れれば十になるのに。そしたら、ノラさんだって」


「知ってるよ」


 ノラはあっさりと言った。


「あたし、計算は得意なんだ。あんたより、ずっとね」


「だったら」


「だから、あんたの灯に入れるの」


 ノラは銅貨を指の上でくるりと回して、伊吹をまっすぐに見た。帽子のつばの下で、笑っていた。それなのにその目が濡れていた。


「あたしが十になっても、聖女にはなれない。でも、あんたは、これで届くんでしょ。……セレスティアの誓い、夜明けに焼けるもんね。あたしも数えたよ」


 伊吹は何も言えなかった。喉が詰まって、声が出なかった。


「ネネの手首の誓い、見たでしょ。あれ、貧民街の子はみんな持ってるの。チッチも。あたしの下にいる子たちも、みんな」


 ノラの後ろで、チッチが唇を噛んでいた。肩が小さく震えていた。それでも泣き声は一つも漏らさなかった。


「あたしじゃ、解いてあげられない。聖女じゃなきゃ、解けないんだって」


 ノラはくしゃくしゃに笑った。


「だから、あの子たちの誓い、あんたが解いてよ」


 伊吹の目から、涙がこぼれた。


 止められなかった。拭っても拭っても、あとからあふれてきた。泣くのは勝ってから。リコリスがそう言っていたのが観覧席から聞こえたような気がした。それでも止まらなかった。


「……解く」


 伊吹は涙を拭わずに、ノラを見た。


「絶対、解く。一人残らず。約束する」


「うん。知ってた」


 テオが金の杯の封を切った。


 紐がほどけて、布がめくられた。テオは両手で杯を持ち上げて、伊吹の大灯の口に傾けた。


 澄んだ金色の油だった。


 澱ではなかった。黒い滓は一粒も混じっていなかった。灯実を搾ったばかりの、透き通った油が、伊吹の大灯の中へ流れ落ちていった。


 炎がふわりと伸びた。


 目盛りが一つ、また一つと上がっていった。十一。十二。十五。十九。


 それから伊吹の手の甲の聖印がじわりと熱くなった。誓いが当たった熱だった。炎がもう一度伸びた。二十一。


 灰青の帯の大灯が初めて、ほかの三つと同じ高さで燃えていた。しばらく、広間の誰も声を出さなかった。


  *


「……満ちたる灯、ね」


 観覧席で、リコリスが小さく呟いた。扇は膝の上に落ちていた。


「神殿の銘札が、今夜だけ本当のことを書いてたなんて。……誰が信じるのよ、そんなの」


「伊吹様が二十一」


 朔は涙を袖で拭いながら、紙に書き足した。字が滲んでいた。


「セレスティア様が二十五。けれど夜明けに、誓いが焼けて二十。イングリット殿下が十三。ノラ殿が、一」


「一目盛り差」


 リコリスの声が震えていた。


「あと一巡。最後の巡を、誰も何もしなければ。あの子が、一つだけ上に立つ」


 シルヴィはミルに頬を寄せて、声を殺して泣いていた。白蓮は朔の腕に額をつけて、静かに微笑んでいた。


 リネットは観覧席の端で、組んだ両手をほどけないまま、セレスティアの背中だけを見ていた。


  *


「最終巡にございます」


 テオが告げた。炎は揺れなかった。最後の巡は燃えない。掟にそうあった。


「最後の巡では、お供の方々の耳打ちは許されませぬ。最後の一杯は、候補おひとりの灯で選ぶ慣わしでございます。また、この巡でも売れ残った杯は、夜明けに灯守が封を切り、誓いの当否のみを定めます。中身は、どなたの灯にも注がれませぬ」


 透が伊吹の後ろから一歩下がった。


 伊吹は振り返った。透は何も言わなかった。言えないのだ。ただ伊吹の目をまっすぐに見て、小さく頷いた。


 祭壇の脇の台から、杯が一つずつ運ばれてきた。


 最初はノラの「九」だった。中身は一だと、もう誰もが察していた。誰も書かなかった。次に伊吹の「一」。これも誰も書かなかった。二つの杯は夜明けまで脇に戻された。


 最後に、伊吹の「九」が祭壇に置かれた。


 伊吹は祭壇の前に立って、封泥を見下ろした。渦の模様。乾いたひび割れ。


 古傷の線はやはりなかった。


 この杯の中身は澱だ。伊吹の九を抜かれて、代わりに注がれた黒い滓。注がれた灯を、十目盛り曇らせる澱。


 伊吹は顔を上げた。


 大神官がまた、セレスティアのほうへ身を乗り出していた。今度は伊吹にも聞こえるくらいの声だった。


「セレスティア殿。……あの杯をお取りなさいませ。注ぐ灯は、イブキ殿の灯に。それが、この国のためかと存じます」


 広間がざわめいた。


 伊吹は自分の大灯を見た。二十一。澱を注がれれば、十一。セレスティアは夜明けに二十。伊吹が負ける。


 それなのに伊吹にはもう、その囁きが怖くなかった。


 セレスティアの灯は二十五。伊吹には九までしか書けない。何を書いても、セレスティアが書けば止められない。セレスティアが囁きに従えば、それで終わりだった。


 だから伊吹に決められるのは一つだけだった。伊吹は札を見下ろした。


 一と書けば。誰も書かなければ、伊吹が一で取れる。セレスティアの灯を名指して、澱を注げば。二十五から十を引いて、十五。夜明けに誓いが焼けて、十。伊吹は二十。


 大差で勝てる。


 喉の奥がかっと熱くなった。伊吹の九を盗んだのはセレスティアではなかった。それでも盗まれた九を飲めと言われていたのは、セレスティアだった。そのセレスティアが零と書いた。「それは、あの方の油です」と、神前で言い切った。


 伊吹は筆を握りしめた。


 夜会の露台で、ひとりきりで街を見下ろしていた横顔を思い出した。リネットの手を握り返して、指の関節を白くしていた背中を思い出した。あの人は今夜、生まれて初めて、自分で何かを選んだのかもしれなかった。


 伊吹は零と書いた。筆の先はもう震えなかった。


 札が一斉に開かれた。


 伊吹。零。


 セレスティア。零。


 イングリット。零。


 ノラ。零。


「……杯は、売れ残りにございます」


 テオの声が広間に響いた。


 伊吹は顔を上げた。セレスティアがこちらを見ていた。白い頬に涙の跡が一筋残っていた。セレスティアは伊吹に向かって、小さく頭を下げた。作法どおりの礼ではなかった。少しぎこちなくて、首の角度も揃っていなかった。


 伊吹も頭を下げた。顔を上げると、また涙があふれてきた。


 大神官は椅子に深く座ったまま、目を閉じていた。


  *


 灯の間の天井近くに、細い明かり取りの窓が一つだけあった。儀が始まったときには真っ黒だったその窓が、いつの間にか、ほんの少しだけ白んでいた。


「夜明けにございます」


 テオが祭壇の脇の台の前に立った。売れ残った三つの杯が並んで置かれていた。テオは一つ目の杯の封泥に、小刀の刃を当てた。


 伊吹は透の手を探した。透の手はすぐそこにあった。冷たくて、少し震えていた。伊吹がその手を握ると、透は強く握り返してきた。


 テオの小刀が伊吹の「九」の封泥に触れた。


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