第50話 満ちたる灯(前編)
広間にいる誰もが伊吹の大灯を見ていた。
十目盛り。灰青の帯の大灯の中で、油はもう硝子の半分にも届いていなかった。その上で、炎だけが小さくまっすぐに立っていた。
祭壇の上には金の杯があった。ひとまわり大きくて、縁に細かな灯の紋が彫りこまれている。紐の先の銘札には神殿の古い書体で「聖女の杯・満ちたる灯」と書かれていた。
掟の五つ目。九つ目の杯は神殿が満たす。中身は灯実の澱。澱を注がれた大灯は十目盛り曇る。
十目盛り。伊吹の大灯と、同じ数だった。
頭の中で、数が勝手に並んでいった。セレスティアの灯は二十五。競りに書けるのは灯の目盛りより少ない数まで。セレスティアなら二十四まで書ける。伊吹は九まで。イングリットは十二まで。ノラは三まで。誰が一番多く書いても、勝つのはセレスティアだった。
セレスティアがこの杯を取って、伊吹の灯を名指せば。
澱が十目盛り、伊吹の大灯を曇らせる。十から十を引けば、零。
零になった者は選定を去る。そして伊吹の胸の奥には召喚の夜からずっと、黒い火が一粒眠っている。灯が尽きれば、その火があふれる。王都が沈む。ネネの手首の誓いも、ノラの貧民街の子どもたちも、何もかも一緒に。
手のひらが冷たくなっていた。伊吹は白い装束の膝を握りしめた。指が震えて、うまく握れなかった。
*
「……あたしがセレスティアなら、そうするわ」
観覧席で、リコリスの扇が止まっていた。
「掟を聞いた日から、ずっと思ってたの。神殿の杯は、勝ってる者が取って、一番危ない相手に注ぐためにあるようなものだって。澱は、一番低い灯へ。セレスティアの灯は二十五もあるの。十や十三払ったって、まだ一番上にいられる。それで追いかけてくる相手を一人消せるなら、安いものよ」
「競りに書けるのは、今の灯より少ない数までです」
朔の声がかすれていた。紙の上の数字を指でなぞる手が止まったまま動かなかった。
「ノラ殿は三まで。伊吹様は九まで。イングリット殿下でも十二まで。セレスティア様は二十四まで書けます。十三と書けば、どなたにも止められません。払っても、まだ十二残ります。そして、取った者が名指せば」
「やめて」
シルヴィがミルを胸に押しつけて、首を振った。
「やめて。数えないで」
白蓮は何も言わなかった。閉じた目を伊吹のほうへ向けて、朔の腕を握る指に力をこめていた。
リネットは観覧席の端で、両手を胸の前で固く組んでいた。
*
「問いの時にございます」
テオが告げた。
誰も口を開かなかった。問いを向けるべき相手がいなかった。神殿の杯について問える相手はいない。それも掟だった。
伊吹は透を振り返った。
何か言ってほしかった。いつもみたいに、耳元で。零で、とか。誓わないで、とか。それだけで、この冷たい手が少しは温まる気がした。
透は何も言わなかった。
ただ伊吹の手を見ていた。膝の上で握りしめた、伊吹の右手を。その親指のあたりを、ほんの一瞬だけ見た。それから何も言わずに目を上げた。
伊吹は自分の右手を見下ろした。
親指の腹に、細い古傷が斜めに走っていた。湊に向けられた刃を、素手で掴んだ日の傷だった。白く盛り上がった、細い線。
封をしたあの日、透は理由を言わずに、強く、ゆっくり押せと言った。指を離したとき、灰色の泥の上に、渦の模様と、それを斜めに横切る一本の線が残っていた。
第五巡。祭壇の上の伊吹の「九」。渦の模様。乾いたひび割れ。
線はなかった。
伊吹の心臓がどくんと大きく鳴った。何かが足りないと思ったのはそれだった。あの封泥には伊吹の古傷の線がなかった。あれは伊吹の押した封ではなかった。誰かが封を切って、中身を入れ替えて、もう一度封をした。伊吹の指ではない、別の誰かの指で。
儀の前夜。部屋の窓から見た渡り廊下。台車を押していた若い神官たちを帰して、テオが一人で灯の間に入っていった。扉はそれから長いあいだ、開かなかった。
この杯に、誰かが手を加えましたか。いい――。
胸の奥で、ばらばらだったものが、一つずつ音を立てて噛み合っていった。
伊吹の「九」から、九目盛りが抜かれた。抜かれた九はどこへ行ったのか。代わりに何を入れたのか。灯の間に、澱を入れておける杯は一つしかない。神殿が満たした、九つ目の杯。
入れ替えたのだ。伊吹の九と、神殿の杯の澱を。
だとしたら。
伊吹は顔を上げて、祭壇の上の金の杯を見た。聖女の杯・満ちたる灯。
文字は何も裁かない。だから神殿は慣わしで、澱の杯にわざとそう書く。偽りの銘札。けれど今、あの杯の中には、伊吹が自分の手で注いだ九目盛りの油が満ちている。
あの銘札は今夜だけ、本当のことを書いている。
息が止まりそうだった。体の奥から、熱いものが一気に駆け上がってきた。冷たかった指先にまで、血がどくどくと流れ込んでくるのが分かった。
まだだ。伊吹は奥歯を噛みしめて、頭の中で数を並べ直した。
杯を取った者は封を切る前に注ぐ灯を名指す。中身を見る前に、選ばなければならない。誰もがあの杯を澱だと思っているなら、取った者は伊吹の灯を名指すだろう。そうすれば、九目盛りが伊吹の灯に入る。
でも誰かが中身に気づいたら。セレスティアは第五巡のあと、ずっとあの杯を見ていた。満ちたる灯、と唇を動かしていた。セレスティアはもう知っている。
知っていて、自分の灯を名指せば。
誰にも止められない十三を払っても、九を足せば二十一。夜明けに誓いが五つ焼けても、十六。伊吹は誓いを当てても十二。誰にも届かない。
そして伊吹が自分で取ろうとしても。
伊吹は夜明けの数を数えた。セレスティアの「九」の誓いは、夜明けに五つ焼ける。誰も何もしなければ、セレスティアは二十五から五を引いて、二十。伊吹は今、十。自分の九を取り返しても、十九。まだ一つ足りない。
足りない一つを埋められるのは誓いだけだった。当たれば二つ。二十一。それでも一目盛りでも競りで払えば、二十。セレスティアに並ぶだけで、上には立てない。
伊吹は唇を噛んだ。自分の油なのに、自分では買い戻せない。誰かが取って、伊吹の灯を名指してくれない限り。
それなら、誰の目にも分かるようにすればいい。
あの杯の中身が何なのか。あれが誰の油なのか。この広間の、全員に。
声では足りない。伊吹が神前で「九だと思う」と言っても、それは伊吹の心が裁かれるだけだった。伊吹が信じていると分かるだけだ。
でも誓いなら。誓いは世界が裁く。外れれば五つ焼ける。今の伊吹の灯から五つ焼ければ、残りは五。だからこそ伊吹が誓えば、伊吹が自分の灯を賭けたことになる。誰もが見ている前で。
そして伊吹には誓いがあと一度だけ残っていた。
第五巡で、透は「誓わないで」と言った。第七巡で、「最後の一回は、取っておいて」と言った。理由は一つも言わなかった。
伊吹は透を見た。透はまっすぐに前を向いていた。伊吹のほうを見なかった。唇を引き結んで、両手を体の横で固く握っていた。その拳が小さく震えていた。
ここから先は伊吹が選ぶことなのだ。
*
「誓いの時にございます」
伊吹は立ち上がった。
膝はもう震えていなかった。祭壇の前まで、一歩ずつ歩いていった。金の杯の前で足を止めて、右手を胸に当てた。手の甲の聖印が熱くなった。
広間がざわめいた。
「神殿の杯に、誓いを?」
「澱の杯だぞ。何を誓うというのだ」
観覧席の神官たちの声だった。伊吹は振り返らなかった。
「この杯の中身は」
声が石の天井に響いた。
「九目盛り」
一瞬、広間から音が消えた。
次の瞬間観覧席が割れるようにどよめいた。神官の誰かが立ち上がって、何かを叫んでいた。不敬だ、と聞こえた。神殿の杯を偽りと呼ぶのか、と。
「誓いは、世界が裁きます」
大神官が静かに言った。椅子から立ち上がりもしなかった。
「候補がどの杯にかけて誓われようと、それをお止めする掟は、ないようでございます。……外れれば、五目盛りが焼けるだけのことかと存じます」
広間が少しずつ静まっていった。伊吹は胸に手を当てたまま、広間を見回した。
「みんな、聞いて」
声が勝手に熱くなった。
「私は第五巡で、自分の杯に九を入れたって言った。本当に入れた。でも、テオさんは、手を加えてないって言えなかった。だったら、私の九は、どこに行ったの。この広間で、澱を入れておける杯は、一つしかないでしょ」
伊吹は金の杯を指さした。
「私の九は、ここに入ってる。だから誓った。外れたら、焼けばいい」
喉が詰まって、声が一瞬途切れた。伊吹は息を吸い直した。
「取りたい人は、取ればいい。自分の灯でも、誰の灯でも、名指せばいい。掟の内だから。……でも、それが誰の油なのかは、もうみんな知ってる。それだけは、忘れないで」
伊吹は胸から手を下ろした。指先が震えていた。それでももう怖くはなかった。
自分の大灯の前に戻ると、透がそこに立っていた。透は伊吹の耳元に口を寄せた。
「……うん」
それだけだった。伊吹が振り返ると、透の目の縁が赤くなっていた。透はすぐに顔を背けた。
*
「あの子、神殿の杯に九って誓ったわよ」
観覧席で、リコリスが扇を握りつぶしそうになっていた。
「外れたら五焼けて、灯は五。そこに澱を注がれたら、それで終わりよ。……自分の灯を全部、あの杯に賭けたの」
「当たっていれば」
朔の声は震えていた。
「当たっていれば、取った者は伊吹様の九を、誰の灯にでも注げます。伊吹様には、もう何も決められません。決めるのは、あの杯を取る者です」
白蓮がそっと顔を上げた。
「灯守の方の灯が、止まりました。……震えるのを、やめられました」
「どういうこと」
「こらえるのを、やめた灯です。もう隠すものが、ない人の灯」
リコリスは長いあいだ黙っていた。それから扇で目元を覆った。
「……ばかね、あの子。本当のことだけで、全部ひっくり返すつもりなのよ」




