第49話 半分こ
「銘札は、一」
テオの声はまだかすれていた。
祭壇に置かれた杯の銘札には大きくて少し右に傾いた字があった。第二巡の「九」と同じ字だった。ノラの字だった。
伊吹は自分の大灯を見上げた。十三目盛り。第六巡の炎が燃えて、また一つ減っていた。祭壇の脇の台では伊吹の「九」がノラの「九」と並んで、白い布をかぶったまま置かれていた。伊吹はそちらを見ないようにした。見れば、さっきの熱がまた喉までせり上がってきそうだった。
「問いの時にございます」
テオが告げると、セレスティアが静かにノラのほうを向いた。
「ノラ殿に、お聞きいたします。この杯を満たしたのは、あなたでございますか」
「うん。あたし」
ノラはまた、あっさりと答えた。指の上で銅貨が転がっていた。第二巡と同じだった。ノラの杯で、ノラの字で、ノラが満たした杯。違うのは銘札に書かれた数だけだった。
セレスティアは祭壇の前に進み出ると、懐から小さな硝子の小瓶を取り出した。
伊吹は息を呑んだ。灯の雫だった。慈悲の審判で、寝台の枕元の札に垂らしていたのと同じ金色の雫。偽りの文字を灯にさらす雫。
セレスティアは小瓶の栓を抜いて、一滴だけ、銘札の「一」の上に落とした。
銘札がほのかに光った。それから墨の線がじわりと滲んで、水に溶けるように崩れていった。崩れた墨はもう何の字の形もしていなかった。
広間がざわめいた。
「あーあ」
ノラが帽子のつばを指で押し上げて、からからと笑った。
「ばれちゃった。一じゃないよ、それ」
伊吹はノラの笑い声を聞きながら、膝の上の拳を握りしめた。ノラは嘘を書いた。書いた本人が偽りだと知っていた文字だから、雫が溶かした。
そこで伊吹の胸がずきりと痛んだ。
伊吹の「九」には誰も雫を垂らさなかった。垂らしても、たぶん何も起きなかった。伊吹は本当に九だと信じて書いたのだから。中身が何に変えられていても、伊吹の書いた字は伊吹の心のとおりのまま、あの台の上で揺れている。
「誓いの時にございます」
誰も誓わなかった。一ではないと分かっただけで、いくつなのかは誰にも分からない。
耳元で、透の息が触れた。
「零で」
伊吹は札に零と書いた。
札が一斉に開かれた。セレスティアが七。イングリットが五。ノラは自分の杯に、零と書いていた。伊吹も零。
「大聖堂の候補、セレスティア殿。注ぐ灯を、神前にて名指してくださいませ」
「わたくしの灯に」
セレスティアの声は静かだった。テオが封を切って、白い大灯に油を注いだ。炎が大きく伸びて、目盛りがいくつも上がっていった。九目盛りだった。
広間がどよめいた。七で九を取った。それでもセレスティアは少しも嬉しそうではなかった。白い装束の胸の上で、右手が小さく握られたままだった。
*
「七で九。差し引き、二つしか増えてないわね」
観覧席で、リコリスが扇を閉じた。
「その代わり、ノラは夜明けに三つ受け取れる。売値の七の半分よ。端数は切り捨て。……あの子、最初からこれを狙ってたのね。一って書いておけば、雫を持ってるセレスティアが確かめに来る。確かめたら、買いたくなる。自分の杯を他人に高く買わせて、半分もらうの」
「ノラ殿の灯は今、七です」
朔が紙に数字を書き足しながら言った。
「セレスティア様が二十八。伊吹様が十三。イングリット殿下が十二」
「十五差」
リコリスの声が少しだけ低くなった。
「さっき誓いが焼けるって分かって、少し縮まったと思ったのに。また開いたわ」
シルヴィがミルを胸に抱いて、伊吹の背中を見た。
「伊吹さん、ずっと零って書いてる」
「書かせてるのよ、あの坊やが」
リコリスは扇の先で、伊吹の後ろに立つ透を指した。
「何を待ってるのか知らないけど。……待ってる間に燃え尽きたら、元も子もないのよ」
白蓮は何も言わなかった。閉じた目を、祭壇の後ろの棚の端に向けたままだった。
*
「第七巡。銘札は、一」
伊吹の大灯がまた一つ燃えて、十二になった。
祭壇の杯を見た瞬間、伊吹には分かった。少し太くて、線の端が跳ねた字。伊吹の「一」だった。十目盛りのうち、残りの一つを注いだ杯だった。
テオが告げると、イングリットが伊吹のほうを向いた。
「イブキ殿に、お聞きしますわ」
緑の帯の大灯の前で、イングリットはまっすぐに立っていた。第五巡のあいだ、ずっと何かを確かめるように大神官を見ていた人だった。
「あなたは、灯守殿の沈黙が、神殿のどなたかの命によるものだと思っておられますか」
広間がしんとなった。
杯の問いではなかった。はいかいいえで答えられれば、何を問うてもいい。それが掟だった。イングリットはこの巡の一つきりの問いを、杯ではなく伊吹の心に使った。
伊吹は大神官を見た。大神官は祭壇の前の椅子に座ったまま、少しも表情を変えていなかった。灯守の長が一人きりで、神殿の杯に手を出すはずがない。テオはこの儀のあいだ、何度も大神官のほうをうかがっていた。
「はい」
声は震えなかった。神前で口にした言葉は心で裁かれる。伊吹の心はそう思っていた。
観覧席の誰かが息を呑む音が聞こえた。候補の一人が神前で、神殿を疑うと言ったのだ。
イングリットは目を閉じた。長いあいだ閉じていた。それから目を開けて、ほんの少しだけ顎を引いた。
「……わたくしも、そう感じておりますの」
小さな声だったけれど、広間の隅まで届いた。
「この灯の間には、儀が始まったときから、ずっと傾きがございます。あの棚のあたりに。何が傾いているのかは、わたくしにも分かりませぬ。けれど、正しい形をしていないことだけは、分かりますわ」
イングリットはそれ以上何も言わなかった。大神官も何も言わなかった。テオだけが組んだ両手をきつく握りしめていた。
伊吹の胸の奥が熱くなった。告発の広間で、透だけを悪く言うのは許さないと言い返した相手だった。その人が今、伊吹と同じものを見ていた。
「誓いの時にございます」
伊吹は右手を胸に当てかけた。自分の杯だった。中身は一。誓えば、必ず二つ増える。
「伊吹」
耳元で、透の声がした。
「この杯にも、誓わないで。最後の一回は、取っておいて」
伊吹の手が止まった。
誓いは一夜に二度まで。一度目は第一巡で使った。残りは一度きりだった。その一度を、確実に当たる二目盛りに使わずに、取っておく。どこで使うのか、透は言わなかった。
伊吹は奥歯を噛んで、右手を下ろした。指先が痺れるように冷たかった。二目盛り。今の伊吹にとって、喉から手が出るほど欲しい二目盛りだった。それでも伊吹は透の声の低さを信じた。
「零で」
伊吹は零と書いた。四人とも零だった。伊吹の「一」は祭壇の脇の台に移されて、伊吹の「九」の隣に並んだ。
脇の台に、杯が三つになった。ノラの「九」。伊吹の「九」。伊吹の「一」。
*
「ここで、しばしの休みを取らせていただきとう存じます」
第七巡が終わると、大神官が椅子から静かに告げた。
「灯の間の空気が、いささか張りつめているようでございます。候補の方々も、お供の方々も、少し息をお整えなさいませ。……儀の灯は、そのあいだも燃えませぬゆえ」
広間の空気がほどけた。観覧席で誰かが長い息を吐く音がした。神官が水差しを持って候補の前を回り始めた。
伊吹は自分の大灯の前に座り込んだ。膝に力が入らなかった。
透が隣にしゃがんだ。神前で声を上げてはならない。それでも耳打ちなら許されている。透は伊吹の耳元に口を寄せたまま、しばらく何も言わなかった。
「……私の九」
伊吹のほうが先に口を開いた。声は自分でも驚くほど小さかった。
「誰かが汚した。九って書いたのに。本当に九を入れたのに。私、あれだけは、ずるしないで勝とうって決めて書いたんだよ」
喉の奥が詰まった。泣くのはここじゃない。伊吹は膝を抱えた腕に爪を立てた。
「絶対、許さない」
「うん」
透の息が耳に触れた。
「俺も許さない」
短い言葉だった。それなのに透の声の底がひどく熱かった。伊吹は思わず透を見た。透は伊吹を見ていなかった。祭壇の前の椅子の、大神官を見ていた。透は少しも笑っていなかった。いつもの穏やかさがどこにも残っていなかった。
伊吹はそれ以上何も聞かなかった。透の膝の上の手が固く握られて白くなっていた。それで十分だった。
伊吹はふと広間の向こうに目をやった。
セレスティアが大神官の椅子の前に立っていた。大神官が何かを囁いて、セレスティアが頭を下げた。戻ってくるセレスティアの頬は紙のように白かった。
そのとき観覧席の壁際から、灰色の頭巾の少女が立ち上がった。リネットだった。
*
セレスティアの耳元で、大神官はいつもどおり穏やかに囁いた。
「第九巡の杯は、神殿の杯にございます。どなたが取られても、どなたの灯を名指されても、掟の内のこと。……ただ、セレスティア殿。あの杯は、迷わずにお取りなさいませ。ご自分の灯を名指して。それが、あなたさまのためかと存じます」
セレスティアは微笑んで、頭を下げた。いつもの完璧な微笑みだった。鏡の前で、何年もかけて形を覚えた微笑みだった。自分の大灯の前に戻るまで、膝が震えないようにするだけで精一杯だった。
満ちたる灯。
第五巡からずっと、その言葉が頭から離れなかった。杯に触れてよいのは灯守だけ。イブキ殿は本当に九と書いて、本当に九を注いだ。それなのに灯守は「いいえ」と言えなかった。ならばあの杯から抜かれた九はどこへ行ったのか。神殿が満たす杯は一つきり。毒の澱を入れておける杯は一つきり。
分かっていた。分かっていて、考えないようにしていた。
そして今、大神官は迷わずに取れと言った。
セレスティアは大灯の前で、手を胸の前で組んだ。夜明け前の祈りの形だった。いつもなら、この形をとれば心が静かになった。揺さぶられても心が動かない。それがセレスティアの加護だった。
今夜は少しも静かにならなかった。
イブキ殿の「はい」を信じて誓ったのは、セレスティア自身だった。誰にも言われずに、自分で決めて誓った。それが生まれて初めて自分で決めたことだったような気がした。その誓いは夜明けに焼ける。セレスティアの側の誰かがイブキ殿の九を盗んだせいで。
そしてその九を飲めと言われている。
「……セレス」
懐かしい声だった。
セレスティアは顔を上げた。灰色の頭巾を下ろしたリネットがすぐ目の前に立っていた。神学院の頃と同じ、少し癖のある栗色の髪だった。頬が少しやつれて、目の下に影ができていた。
「リネット」
声が勝手にこぼれた。胸の奥がきしんだ。
「どうして、ここに。……あなたは、わたくしを置いていったのに」
言うつもりのない言葉だった。神前で口にした言葉は心で裁かれる。だから心にあったことしか出てこなかった。
リネットの目が揺れた。
「うん。置いていったの。逃げたの」
リネットは唇を噛んで、それでも目を逸らさなかった。
「先生が、先生じゃなくなっていくのが怖くて。誰にも言えなくて。候補の席を降りて、施療院の奥に隠れたの。あなたにも、何も言わずに。……ごめんなさい、セレス。ずっと、謝りたかった」
セレスティアは何も言えなかった。施療院の廊下で、さっと顔を伏せて奥へ下がった見習いの修道女。あれがリネットだったと知ったのは告発の広間で頭巾が下ろされた日だった。
「でも、今は謝りに来たんじゃないの」
リネットはセレスティアの組んだ手の上に、自分の手を重ねた。冷たい手だった。それなのに少しも震えていなかった。
「セレス。焼き菓子のこと、覚えてる?」
「……焼き菓子」
「神学院の、夜の祈りのあと。厨房からこっそりもらってきた、蜜の焼き菓子。一つしかなくて、わたくしは丸ごと食べたいって言ったの。そしたらあなたが、半分こにしましょうって」
リネットの声がかすかに震えた。
「誰にも言われてないのに。神官家の作法でも、聖典の教えでもないのに。あなたが自分で割って、大きいほうをわたくしにくれたの。……あなたはずっと、自分で何かを選んだことがないって思ってるでしょう。違うの。あなたは選んでた。わたくし、ちゃんと見てたもの」
セレスティアの喉が詰まった。
覚えていた。蜜で指がべたべたになって、二人で声を殺して笑った。あの夜のことだけは鏡の前で練習した微笑みを一度も使わなかった。
「誰かに選ばれた聖女にならなくていいの、セレス」
リネットはセレスティアの手を、両手で強く握った。
「勝つのでも、負けるのでもいい。あなたが選んで。あの夜みたいに。……それだけ、言いに来たの」
セレスティアの目の奥が熱くなった。
泣いてはいけない。灯の間の、儀の最中だった。大神官が見ている。ヨアンが見ている。養家の名を背負って、ここに立っている。
それでも胸の奥で何かが小さく音を立てて外れたのが分かった。何年も、何年も、固く締めたままだった何かが。
セレスティアはリネットの手を握り返した。強く。指の関節が白くなるほど強く。
「……ありがとう、リネット」
声が震えていた。それでも練習した声ではなかった。
*
「第八巡。銘札は、五」
休みが終わって、炎が揺れた。伊吹の大灯は十一になった。
祭壇の杯には角ばった几帳面な字で「五」と書かれていた。イングリットの字だった。
問いの時、ノラがイングリットに聞いた。
「王女様。これも、あんたの杯?」
「ええ。わたくしのですわ」
イングリットは胸に手を当てた。
「この杯の中身は、五目盛り」
二度目の誓いだった。声は少しも揺れなかった。第三巡と同じだった。正しいルールの上に立つ人は最後まで同じ立ち方をしていた。
競りの札が開かれた。イングリットが三。ほかの三人は零だった。
伊吹はセレスティアの札を見た。零だった。
五目盛りの杯だった。セレスティアの灯なら、いくらでも書けた。イングリットの三より一つ多く書くだけで、五目盛りが手に入った。それなのにセレスティアは零と書いていた。
伊吹はセレスティアを見た。
セレスティアはもう、棚の端の金の杯を見ていなかった。自分の大灯をまっすぐに見上げていた。白い頬に、さっきまでなかった赤みが差していた。目の縁がほんの少しだけ赤くなっていた。
イングリットが自分の灯を名指して、五目盛りを注いだ。誓いの二つと合わせて、緑の帯の炎が大きく伸びた。
*
「書かなかったわね、セレスティア」
観覧席で、リコリスが扇を握りしめた。
「五の杯に、零よ。イングリットの三なんか、いくらでも上から叩けたのに」
「リネット様と、何か話しておられました」
朔が筆を止めて、紙の数字を指でなぞった。
「数を申し上げます。伊吹様が十一。セレスティア様が二十六。イングリット殿下が十四。ノラ殿が五」
「残りは、神殿の杯と、脇の三つ」
リコリスは扇の先で、棚の端を指した。
「次は神殿の杯よ。中身は澱。注いだ灯が十目盛り曇る。……取りたい人なんていない。でも、取って誰かに注げば、その誰かは沈むわ」
シルヴィがはっと顔を上げた。
「誰かって」
「一番低い灯よ。十目盛り曇れば消える灯」
リコリスの声が扇の陰でかすれた。
「伊吹の灯は今、十一。次の巡で燃えて十。澱を一杯注がれたら、それで終わり」
観覧席がしんとなった。白蓮が朔の腕を握る指に、力をこめた。
「……灯守の方の灯が、また震えております。今度は、さっきよりも、ずっと」
*
「第九巡」
テオの声が広間に響いた。
四つの大灯の炎がふっと揺れた。伊吹の大灯の油が一つ下がって、目盛りの線がまた一本、油の上に顔を出した。
十目盛り。
テオが石の棚の端から、ひとまわり大きな金の杯を両手で持ち上げた。くじは引かれなかった。最後の巡の杯は決まっていた。
祭壇に置かれた杯の銘札を、テオが読み上げた。
「銘札は、聖女の杯。……満ちたる灯」
広間にいる誰もが伊吹の大灯を見た。灰青の帯の、十目盛りしか残っていない大灯を。




