第48話 傷のない封
伊吹は祭壇の前まで歩いていった。
足が少しだけ震えていた。白い陶の杯に、灰色の封泥。紐の先で、あの日自分が書いた「九」が揺れている。宝物庫の脇の小部屋で、筆の先が跳ねるたびに書き直した字だった。十目盛りのうち九つを、この杯に注いだ。残りの一つは「一」の杯に入れた。どちらも本当の数を書いた。透にそうしてほしいと頼まれて、伊吹も迷わなかった。
この杯が出れば勝てる。三日のあいだ、何度もそう思った。
胸の奥がどくどくと鳴っていた。伊吹は杯に触れないように身をかがめて、結び目の封泥を見下ろした。親指の腹の、細かな渦の模様。乾いて少しひび割れた灰色の泥。
何かが足りない気がした。
どこがと思う前に、隣にもう一つ影が落ちた。透だった。お供は検分に付き添ってよい決まりだった。透は膝を折って、封泥の高さまで目を下ろした。ほんの少しのあいだ、そのまま動かなかった。それから懐の赤いボールペンを取り出して、頭をかちりと一度だけ押した。
「……違うな」
ほとんど息だけの声だった。伊吹に向けた言葉ではなかった。
伊吹は透の横顔を見た。巡礼の門の前で、ボルクの台の前で、何かを一つずつ数えていたときと同じだった。瞬きもせずに、灰色の泥の一点だけを見ていた。伊吹の背中を冷たいものが這い上がった。こうして透が黙るとき、いつも何かが起きている。
「問いの時にございます」
テオの声が響いた。
伊吹は祭壇から一歩下がった。顔を上げると、セレスティアがまっすぐにこちらを見ていた。
「イブキ殿に、お聞きいたします」
澄んだ声だった。広間の誰もが息を詰めた。
「この杯の中身は、九目盛りでございますか」
伊吹はセレスティアの目を見返した。迷う理由はなかった。自分で注いで、自分で封をして、自分で書いた。
「はい」
声は少しも揺れなかった。神前で口にした言葉は心で裁かれる。伊吹の心に、嘘は一つもなかった。
セレスティアは長いあいだ伊吹を見つめていた。それからほんの少しだけ目を細めた。笑ったのだと、伊吹には分かった。施療院で見た、目の笑っていない微笑みとは違った。夜会の露台で、ひとりきりで街を見下ろしていたときの、あの素顔に近かった。
「……ええ。あなたはそういう方ですわね」
耳元で、透の息が触れた。
「伊吹。この杯には、誓わないで」
胸に当てかけた右手が止まった。
自分の杯だった。中身を一番よく知っているのは伊吹だった。誓えば二目盛り。第一巡で当てたときの、炎がふわりと伸びた感触が、まだ手のひらに残っていた。喉の奥まで言葉がせり上がってきて、伊吹は奥歯でそれを噛み殺した。
首はかしげるかもしれないけど、手は止めない。そう言ったのは自分だった。
伊吹はゆっくりと右手を下ろした。指先が冷えていた。
「誓いの時にございます」
テオが告げると、セレスティアが右手を胸に当てた。手の甲の聖印が白く光った。
「この杯の中身は、九目盛りでございます」
一夜に二度までの誓い。その二度目を、セレスティアはここで使った。伊吹の「はい」を信じて。
胸の奥がずきりと痛んだ。透が止めたのなら、この杯は九ではないのかもしれない。だとしたらセレスティアの聖印が焼ける。伊吹の言葉を信じたせいで。
「伊吹」
また透の声がした。今度はさっきよりもずっと低かった。
「神託の問いを、テオさんに。この杯に誰かが手を加えたか、って」
伊吹は息を呑んだ。
灯守に問う。それは神殿に問うのと同じことだった。杯に触れてよいのは灯守だけ。掟の四つ目にそう書いてあった。もし誰かが手を加えたのなら、それは。
伊吹は透を振り返った。透は伊吹を見ていなかった。祭壇の脇に立つテオを、まっすぐに見ていた。唇を引き結んで、指を一本だけ、腿の横で小さく動かしていた。考えているときの透だった。数え終わったときの透だった。
伊吹は前に向き直った。
*
観覧席の端で、リコリスが扇をぱちりと閉じた。
「セレスティア、二度目の誓いを使ったわね」
隣で朔が膝の上の紙に、また小さな字で数字を書き足していた。
「当たれば二つ増えます。今、セレスティア様が二十七、伊吹様が十四。イングリット殿下が十三、ノラ殿が八です」
「十三差ね。この杯を伊吹が取れば、一気に縮まるのに」
リコリスは扇の先で、祭壇の前の二人を指した。
「なのに、あの子は誓わなかった。自分の杯なのよ。中身を一番よく知ってるのは、あの子でしょうに」
「お供の方が止めました」
朔が言った。
「耳打ちのあと、伊吹様の手が下がりましたから」
「……でしょうね。あの坊や、また何か見つけたのよ」
リコリスの声は軽かったけれど、扇を握る指の節が白くなっていた。その隣でシルヴィが肩の上のミルを両手で包んだ。
「ミルが、怖がってるの。祭壇のほうから、冷たい風が来るって」
白蓮が閉じた目を祭壇のほうへ向けた。朔の腕にそっと指を添えたまま、首をわずかに傾けた。
「灯守の方の灯が、さきほどから震えております。第五巡の杯を棚から取ったときから、ずっと。細く、細く」
リコリスは扇を開きかけて、手を止めた。
「……白蓮。それ、どういう意味」
「分かりませぬ。けれど、あれは嘘をつこうとする人の灯ではございません。嘘をつくまいと、こらえている人の灯です」
観覧席がしんとなった。
壁際でリネットが頭巾の端を握りしめていた。朔は筆を止めて、祭壇の前の伊吹の背中を見た。
*
「神託の問いを、使います」
伊吹は右手を高く挙げていた。
広間がざわりと揺れた。一夜に一度だけの問い。沈黙すれば四目盛りを失う問い。それを、誰にも見向きもされなかった伊吹が、ここで使う。
伊吹はテオに向き直った。
「灯守の、テオさんにお聞きします」
テオの肩がかすかに跳ねた。
「この杯に、誰かが手を加えましたか」
広間から音が消えた。テオは乾いた唇を開いた。
「いい――」
そこで止まった。
喉が動いた。唇がもう一度開きかけて、閉じた。テオは両手を前で組んだまま、身じろぎもしなかった。燭台の明かりの中で、こめかみを汗が一筋伝い落ちた。
続きはいつまで待っても出てこなかった。伊吹の胸の奥がすうっと冷たくなった。
いいえ、と言えなかったのだ。神前では心にない言葉は口にできない。テオは「いいえ」と言おうとして、言えなかった。
この杯は伊吹が封をしたときのままではない。
足元がぐらりと揺れた気がした。九と書いた杯だった。十のうち九を注いだ杯だった。宝物庫の小部屋で、筆が跳ねるたびに書き直した。ずるをしないで、本当の数だけで勝とうと決めて書いた字だった。その杯に、誰かが手を入れた。伊吹の知らないあいだに。伊吹の「はい」を嘘にするために。
冷たかった胸の奥が今度はかっと熱くなった。
「答えてください」
声が石の天井に跳ね返った。
「何を入れたんですか。誰に言われたんですか。私、この杯に九って書いたんです。本当に九を注いだんです。それをセレスティアさんは信じて、誓ってくれたんです。答えてください!」
テオは答えなかった。組んだ両手の指先が小さく震えていた。
「……イブキ殿」
祭壇の前の椅子から、大神官が静かに口を開いた。
「灯守は候補ではございませぬゆえ、大灯を持ちませぬ。沈黙を罰する掟も、灯守には及ばぬかと存じます。神託の問いは一夜に一度。……そのように定められているようです」
「罰なんかいりません」
伊吹は大神官のほうへ向き直った。両手の拳が勝手に固くなっていた。
「誰が、何を入れたのか。それだけ聞いてるんです。この人一人で、こんなことするわけない。杯に触れていいのは灯守だけなんでしょ。だったら」
「伊吹」
背中に、透の息が触れた。
「もう十分だよ」
伊吹は唇を噛んだ。
「十分なんかじゃない。こんなの」
「みんな聞いた。テオさんが、いいえって言えなかったところを」
透の声は低くて、少しも揺れていなかった。それなのに伊吹の背中に添えられた透の指先が、かすかに震えていた。
伊吹は広間を見回した。
観覧席の誰もが身を乗り出していた。リコリスが扇を閉じたまま、テオを睨みつけていた。アデーレは伊吹のすぐ後ろで、腰の空っぽの剣帯に手を当てていた。ノラは指の上の銅貨を止めていた。チッチがノラの袖を握っていた。
イングリットは何も言わなかった。テオを見て、それから大神官を見た。眉をきつく寄せて、何かを確かめるように、長いあいだ大神官から目を離さなかった。
そしてセレスティアだった。
セレスティアの顔から、血の気が引いていた。右手が胸の聖印の上で固まっていた。九目盛りと誓った手だった。誓いは世界が裁く。杯の中身が九でなければ、夜明けにその聖印が五目盛り焼ける。
セレスティアは伊吹を見なかった。テオも、大神官も見なかった。
祭壇の後ろの、石の棚を見ていた。
布をかぶせた杯のうちの一つを、じっと見ていた。棚の一番端に置かれた、ひとまわり大きな金の杯だった。銘札には「聖女の杯・満ちたる灯」と書かれている。神殿が満たした、九つ目の杯だった。
セレスティアの唇が声にならないまま、何かの形に動いた。伊吹には読み取れなかった。ただセレスティアの指が胸の上で小さく握りしめられて、白い装束の布に皺が寄るのが見えた。
「競りの時にございます」
テオの声はかすれていた。
伊吹は競りの札を受け取った。手が震えて、木の札が指の中でかたかたと鳴った。耳元で、透が言った。
「零で」
伊吹は札に零と書いた。自分の杯なのに。九目盛りの杯なのに。悔しくて、喉の奥が詰まった。
札が一斉に開かれた。零。零。零。零。
「誰が触ったか分かんない杯なんて、あたし買わないよ」
ノラが肩をすくめて、銅貨をまた転がし始めた。その指先はさっきまでより少しだけ速かった。
「……杯は、脇に」
テオが伊吹の杯を持ち上げて、祭壇の脇の台に移した。ノラの「九」の隣だった。最後の巡で、もう一度競られる。
伊吹は自分の杯から目を離せなかった。
*
「止めたわね、あの坊や」
観覧席で、リコリスがようやく扇を開いた。
「伊吹が誓ってたら、外れたとき五目盛り焼けてたわ。十四から五で九。そこからまた一巡ごとに燃えていくのよ。最後の巡まで持ったかどうか」
「その代わり、セレスティア様の誓いが焼けます」
朔の声は低かった。紙の上の数字を、指でなぞっていた。
「夜明けに五つ。二十七から五で二十二です。……それでも、伊吹様より八つ多い」
「八差、ね」
リコリスは扇で口元を隠した。それでも扇の陰で唇が震えているのがシルヴィには見えた。
「残り四巡よ。何もしなくても、巡のたびに一つずつ燃える。セレスティアは焼けても二十二で、あの子は十四から減っていく一方。……どこで八つも取り返すつもりなのよ」
シルヴィはミルを頬に寄せて、祭壇の前の伊吹を見た。白い装束の背中が少しだけ丸くなっていた。
「伊吹さん、泣きそう」
「泣かないわよ、あの子は」
リコリスは扇をぱちりと閉じた。
「泣くのは勝ってから。あの子はそういう子よ」
白蓮が小さく首を振った。
「いいえ。……今、一番泣きそうな灯をしているのは、セレスティア様です」
*
伊吹は自分の大灯の前に戻った。
十四目盛り。灰青の帯の、一番低い大灯。炎は揺れもせずに立っていた。伊吹は灯の硝子に映る自分を見て、それから自分の右手を見下ろした。
親指の腹に、細い古傷が斜めに走っている。湊に向けられた刃を、素手で掴んだ日の傷だった。
封をしたあの日、伊吹は親指を強く押しつけた。透に言われて、強く、ゆっくり。指を離したとき、灰色の泥の上に、渦の模様と、それを斜めに横切る一本の線が残っていた。
さっき祭壇の上で見た封泥を、伊吹は思い出そうとした。渦の模様。乾いたひび割れ。それから。
「第六巡」
テオの声がして、伊吹は考えるのをやめた。四つの大灯の炎がふっと揺れた。
伊吹は顔を上げた。セレスティアがまだ、棚の端の金の杯を見つめていた。唇がもう一度、さっきと同じ形に動いた。今度は伊吹にも読み取れた。
満ちたる灯。




