第47話 灯の間
灯の間は大聖堂の一番深いところにあった。
石の階段を何十段も下りた先の、窓のない円い広間だった。天井は低く、壁は飴色に染まった古い石でできている。灯染みだと、透が前に教えてくれた。何百年も聖火が燃え続けた場所は石そのものに神前が染みつくのだという。足を踏み入れたとたん、伊吹は自分の息の音がやけに大きく聞こえた。
広間の真ん中に、硝子の器が四つ、円を描くように並んでいた。
大人の胸の高さほどもある、大きな硝子の灯だった。中に灯実の油がたっぷりと満ちていて、口の上で炎がまっすぐに立っている。硝子の表には細い線が何十本も刻まれていた。目盛りだった。それぞれの台座に、候補の国の帯が一本ずつ巻かれている。白はセレスティア、深い緑はイングリット、煤けた鼠色はノラ。そして灰青の帯が伊吹の大灯だった。
伊吹の大灯はほかの三つよりずっと低かった。
十四目盛り。聖灯一本分の十に、これまでの試練で貯めた四つ。隣のセレスティアの大灯は伊吹の倍よりも高いところまで油が満ちていた。二十九目盛り。イングリットが十六、ノラが十二。
伊吹は白い装束の袖口を握った。儀のために渡された、飾りのない白い衣だった。腰に灰青の帯を締めて、薄い外套を羽織っている。長靴だけはいつもの長靴だった。
広間の奥に祭壇があって、その後ろの石の棚に、布をかぶせた杯が並んでいた。九つ。そのどれかに、伊吹の「九」と「一」がある。
壁際の観覧席には見届け人たちが座っていた。アデーレは座らずに、伊吹の大灯のすぐ後ろに立っていた。剣は腰にない。この広間に刃物は持ち込めない決まりだった。剣は灯の間の扉の外で、従士のディートリヒが預かっていた。それでもアデーレは騎士の誓いを立てたときと同じように、まっすぐ前を見ていた。
大聖堂の上では民が一晩じゅう塔を見上げているのだという。四つの大灯の炎は塔のてっぺんの篝火と灯りで繋がっていて、炎が伸びれば塔の灯も伸び、縮めば塔の灯も縮む。ネネや貧民街の子どもたちもどこかの屋根の上から、あの灯を見上げているのかもしれなかった。
祭壇の前に、大神官が座っていた。その脇に、灯守の長のテオが立っていた。
「儀を始める前に、申し上げたいことがございます」
澄んだ声が低い天井に響いた。
イングリットだった。緑の帯の大灯の前から一歩出て、大神官のほうを向いている。
「ルーヴェのお供、トオル殿は、告発の広間でご自分も異界の者だと名乗られました。灯の視えぬ方の言葉は、神前でも量れませぬ」
広間がしんとなった。イングリットはまっすぐに大神官を見ていた。
「わたくしは、トオル殿を咎めたいのではございません。ただ、最後の試練では、誰もが同じ掟の上に立つべきだと存じます。神前で偽りを口にできる方の声が、この儀の行方を左右するのであれば、それはもう試練ではございませぬ」
伊吹の胸の奥がかっと熱くなった。
「だったら、私が」
言いかけた伊吹の耳に、透の息が触れた。
「いいよ、伊吹」
ほとんど声にならない声だった。
「耳打ちで足りるから」
伊吹は奥歯を噛んだ。足りるわけがない。透がこれまで、どれだけ神前で言葉を使って伊吹を勝たせてきたか。それでも透の声は少しも揺れていなかった。
大神官がゆっくりと口を開いた。
「……殿下のお申し出には、理があるように思われます」
大神官は透のほうに、穏やかな目を向けた。
「ルーヴェのお供の方は、儀のあいだ、神前で声を上げてはなりませぬ。お許しするのは、ご自分の候補への耳打ちのみ。……そのように定めるのがよろしいかと存じます」
イングリットが小さく頭を下げた。
「これで、皆が同じ掟の上に立てますわ」
「立ってたよ。最初から」
声が出ていた。伊吹はイングリットをまっすぐに見た。
「透の声がなくても、私はここに立つ。最後まで、本当のことだけで。……見てて」
イングリットは何も言い返さなかった。ただほんの少しだけ目を見開いて、それから自分の大灯の前に戻っていった。
大神官が手を挙げた。
「では、九杯の儀を、始めさせていただきとう存じます」
*
「第一巡」
テオの声と同時に、四つの大灯の炎がふっと揺れた。
油の面がわずかに下がる。目盛りの線が一本、油の上に顔を出した。燃える、というのはこういうことなのだ。何もしなくても、巡が来るたびに一つずつ減っていく。伊吹の大灯は十三になった。
テオが箱からくじを引いて、石の棚から杯を一つ取った。祭壇の上に置いて、紐に下がった銘札を読み上げる。
「銘札は、八」
白い陶の杯だった。封泥は乾いて、灰色に固まっている。銘札の字は細くて、驚くほど整っていた。伊吹は祭壇に近づいて、杯を見下ろした。触れてはならない。見るだけならいい。
「問いの時にございます」
テオが告げると、最初に口を開いたのはイングリットだった。
「セレスティア殿に、お聞きします。この杯を満たしたのは、あなたですか」
「はい」
セレスティアは迷わなかった。いつもの完璧な微笑みのまま、まっすぐに答えた。
伊吹は透を振り返らなかった。耳元で、息だけの声がした。
「誓って。八で」
「……なんで」
「セレスティアさんは、銘札に嘘を書かない。そういうふうに育てられた人だから」
伊吹はセレスティアの横顔を見た。施療院で軟膏をくれたときの、目の笑っていない微笑み。夜会の露台で、ひとりきりで街を見下ろしていた素顔。この人は嘘をつかない。つけないのではなく、つかない。伊吹と同じだった。
「誓いの時にございます」
テオの声に、伊吹は右手を胸に当てた。手の甲の聖印がほのかに熱くなった。
「この杯の中身は、八目盛り」
声はまっすぐに出た。誓いは世界が裁く。外れれば五目盛りが焼ける。それでも手は震えなかった。
セレスティアも同じように胸に手を当てた。
「この杯の中身は、八目盛りでございます」
競りではセレスティアが七を書いた。伊吹は透に言われて、何も書かなかった。イングリットとノラはセレスティアより下だった。
セレスティアは杯を受け取ると、神前で自分の大灯を名指した。テオが封を切って、白い大灯に油を注ぐ。炎がふわりと伸びて、目盛りがいくつも上がった。八目盛り。二つの誓いが同時に当たった。
伊吹の大灯の炎がほんの少しだけ伸びた。誓いの二目盛りだった。十五。伊吹は長く息を吐いた。手のひらが汗で湿っていた。
*
「第二巡。銘札は、九」
炎が揺れて、また一つ減った。伊吹は十四。
祭壇に置かれた杯の銘札は大きくて、少し右に傾いた字だった。九。伊吹の字ではなかった。
セレスティアが静かにノラのほうを向いた。
「ノラ殿に、お聞きいたします。この杯を満たしたのは、あなたでございますか」
「うん。あたしだよ」
ノラはあっさりと答えた。指の上で、いつものように銅貨を転がしていた。
広間の空気が少しだけ冷えた。九と書かれた杯。満たしたのはノラ。関所の巡礼で、運んであげると言ってリコリスの酒を自分の献納にしたノラ。本当のことだけで人を転がす、あのノラだった。
誰も何も書かなかった。
杯は祭壇の脇の台に移された。最後の巡で、もう一度競られるのだという。ノラは帽子のつばの下で、少しだけ口の端を上げていた。
*
「買うわけないわよ、あんなの」
観覧席で、リコリスが扇の陰から鼻を鳴らした。
「ノラの九よ。関所であたしの酒を自分の献納にした子が、九って書いた杯。本当に九が入ってるなら、わざわざ自分のだって答えるもんですか」
「でも、あの方は嘘はついておりません」
朔が膝の上の紙に小さな字で書きつけながら言った。巡ごとの目盛りを、朔は最初の巡からずっと書き留めていた。
「満たしたのは自分だと答えただけです。中身のことは、何も言っておりません」
「だから厄介なのよ。本当のことだけで人を転がすんだから、あの子は」
シルヴィが肩の上のミルを撫でながら、小さく首をかしげた。
「誰も買わなかった杯は、どうなるの?」
「脇に置いて、最後の巡でもう一度競るの。そのときまでに誰かが中身を見抜けば、そいつの勝ち。見抜けなきゃ、また誰も手を出さない」
リコリスは扇で祭壇の脇を指した。
「あの杯、最後まで売れ残るか、最後に化けるかのどっちかね」
白蓮が閉じた目をノラのほうへ向けて、ふっと口元をゆるめた。
「ノラ殿の灯は、少しも揺れておりません。楽しそうに燃えております」
「……でしょうね。あの子、こういうのが一番好きなのよ」
リコリスは呆れたように言ったけれど、扇を握る指には力が入っていた。
*
「第三巡。銘札は、五」
十三。燃えるたびに、伊吹の胸の奥が少しずつ冷たくなっていった。何もしなければ、九巡で九つ減る。伊吹の大灯はただ待っているだけで半分以上が消えていく。
祭壇の杯には角ばった几帳面な字で「五」と書かれていた。問いの時、ノラがイングリットに聞いた。
「王女様。これ、あんたの杯?」
「ええ。わたくしのですわ」
イングリットは胸に手を当てて、誓いを立てた。
「この杯の中身は、五目盛り」
声は少しも揺れなかった。伊吹は思った。この人も銘札に嘘を書かない。正しいルールの上に立つ人だった。
耳元で、透が囁いた。
「二と書いて」
「二? 五あるのに、二で取れるの」
「たぶん。殿下は自分の杯を高くは買わない。中身が五なら、五より下でしか書かない。セレスティアさんは、まだ様子を見てる」
伊吹は競りの札に「二」と書いた。
一斉に開く。伊吹が二。イングリットが一。セレスティアとノラは零だった。
「ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿」
テオが伊吹を見た。
「注ぐ灯を、神前にて名指してくださいませ」
伊吹は自分の大灯を見上げた。灰青の帯の、一番低い大灯。
「私の灯に」
テオが封を切った。五目盛りの油が伊吹の大灯に注がれた。炎が伸びた。払った二目盛りを差し引いても、三つ増えた。十六。誓いが当たったイングリットの炎も二つ伸びていた。
伊吹は少しだけ胸を張った。透は何も言わなかった。言えないのだ。それでもすぐ後ろに透がいる気配だけで、背中が温かかった。
*
「第四巡。銘札は、二」
十五。祭壇の杯には第一巡と同じ、細くて整った字があった。セレスティアの字だった。
誰も誓わなかった。競りではノラが一を書いて、ほかの三人は零だった。ノラは自分の灯を名指して、二目盛りを注いだ。
「ちょっとずつね」
ノラは銅貨を転がしながら、伊吹のほうを見て笑った。
「あたしの灯、あんたと同じくらいしかないからさ。拾えるもんは拾っとかないと」
伊吹は笑い返そうとして、うまく笑えなかった。ノラの大灯はもう九目盛りまで下がっていた。燃えるたびに一つずつ減っていく油を、ノラは小さな杯で少しずつ継ぎ足している。そう思ったら、胸の奥がきりきりと痛んだ。ノラの後ろで、チッチが唇を噛んで、鼠色の帯の大灯を見上げていた。
伊吹は四つの大灯を見回した。
セレスティアが二十八。イングリットが十四。伊吹が十五。ノラが九。
セレスティアの大灯はまだ伊吹の倍近く高いところで燃えていた。半分の巡を残して、差は十三目盛り。伊吹の杯はまだ一つも出てきていない。九と一。あの九が出れば。伊吹は膝の上で拳を握った。
緑の帯の大灯の前で、イングリットが眉を寄せていた。
祭壇の後ろの、石の棚のほうを見ていた。布をかぶった残りの杯のあたりを、何かを確かめるように、じっと見ていた。何を見ているのか、伊吹には分からなかった。
*
「半分終わって、セレスティア様が二十八。伊吹様が十五です」
朔が紙から顔を上げずに言った。
「イングリット殿下が十四、ノラ殿が九。伊吹様とセレスティア様の差は、十三目盛り」
「十三」
リコリスが扇を閉じた。
「伊吹が取ったのは三巡目の五だけ。セレスティアは一巡目に八を取って、誓いも当てた。燃える分を差し引いても、ほとんど減ってないわ。……あの子、このまま何もしなかったら、夜明けまでに九つ燃えるのよ。十五から九で六。セレスティアの足元にも届かないわ」
「伊吹さんの杯、まだ出てないよね」
シルヴィが身を乗り出した。
「九と一なんでしょ。九が出たら、取れるよね?」
「取れれば、ね」
リコリスは祭壇の後ろの棚を見た。布をかぶった杯がまだ五つ並んでいた。
「掟を聞いたときから、あたしはそこが一番嫌だったの。自分の杯が、他人の手で注がれるかもしれないってこと。誰が取って、誰の灯に注ぐか。名指しは取った者が決めるの。伊吹の九を、伊吹の灯に注いでくれる人がいるとは限らないわ」
白蓮が小さく首をかしげた。閉じた目が伊吹の大灯ではなく、緑の帯の大灯のほうを向いていた。
「イングリット殿下の灯が、先ほどから少しだけ傾いております。棚のほうを向くたびに」
「傾く?」
「何かが、あるべき形と違う。……殿下は、それを感じておられるのかもしれませぬ」
リコリスは扇を口元に当てたまま、しばらく何も言わなかった。
*
「第五巡」
炎が揺れた。十四。
テオがくじを引いて、棚から杯を一つ取った。祭壇に置いて、銘札を読み上げる。
「銘札は、九」
伊吹は息を止めた。
祭壇の上の銘札を見た。少し太くて、線の端が跳ねた、この世界の数の形。宝物庫の脇の窓のない小部屋で、筆を握って書いた字だった。
伊吹の字だった。九と書いた、自分の杯だった。




