第46話 九つの杯(後編)
三日のあいだ、伊吹の目にはいくつものことが映った。どれも、意味は分からなかった。
一日目の昼、中庭の噴水のそばで、リコリスが透に封書を一通渡していた。透は封を切って中の紙を読み、しばらく黙っていた。それから小さく呟いた。
「……違うな」
リコリスが扇で口元を隠して、肩をすくめた。伊吹は少し離れたところでそれを見ていた。何が違うのか、聞かなかった。透が封書をたたんで懐にしまうのを、黙って見ていた。
同じ日の夕方、回廊でイングリットに呼び止められた。
「ルーヴェの候補。いえ、ナルミイブキ殿」
イングリットは背筋をまっすぐに伸ばして、伊吹の前に立っていた。深い緑の外套の裾が回廊の風に小さく揺れていた。
「神前の裁きは、わたくしも認めます。あなたはこの地に生きておられる。それは確かです。……ですが、一つだけ申し上げておきたいのです」
イングリットの視線が伊吹の後ろの透に向いた。
「あなたのお供は、告発の広間で、ご自分も異界の者だと名乗られましたわね。灯の視えぬ方の言葉は、神前でも量れない。神託札の一の卓で何があったのか、わたくしは存じませぬ。けれど、偽りを口にできる者が試練に立つことを、わたくしは正しいとは思いませぬ。誰もが同じ掟の上に立つから、試練は試練なのです」
伊吹の胸の奥がかっと熱くなった。
「じゃあ、私を見て」
伊吹はイングリットの前に一歩出た。
「私は、この世界に来てから、一度も嘘をついてない。告解の間でも、巡礼でも、審判でも、神託札でも。それは、あなたの言う正しさと、何が違うの」
「あなたのことを申し上げているのでは」
「透のことなら、私が一番知ってる」
声が回廊に響いた。通りかかった神官がぎょっとして足を止めた。
「透は嘘をつくよ。私が一番近くで見てきた。でも透は、自分が得をするための嘘は一回もついてない。嘘をつけない私の代わりに、全部引き受けてきたの。……それでも正しくないって言うなら、言えばいい。でも、透だけを悪く言うのは、許さない」
イングリットは何も言い返さなかった。唇を引き結んで、伊吹をまっすぐに見ていた。その目が少しだけ揺れたように見えた。
透が伊吹の隣に出た。
「殿下。ご不快な思いをさせて、申し訳ありません」
透はそう言って、右手の指先を左の胸に軽く添えて、浅く頭を下げた。
伊吹はその礼を見て、首を傾げた。どこかで見たことのある礼の仕方だった。祠の前で、グレゴールがしていた礼。それより前にも、どこかで。思い出す前に、隣で小さな音がした。
イングリットが息を呑んでいた。
さっきまで揺れもしなかった顔から、すっと血の気が引いていた。後ろに控えていたグレゴールが杖を握る手を止めて、透の手元をじっと見つめていた。
「……その礼を、どこで」
イングリットの声がかすかに震えていた。
「ルーヴェで、ある人がしていたのを真似ただけです」
透は穏やかに答えて、顔を上げた。瞬きは止まらなかった。
イングリットは何かを言いかけて、口をつぐんだ。それから踵を返して、足早に回廊の向こうへ去っていった。グレゴールが一度だけ透を振り返って、主の後を追っていった。
伊吹は透の横顔を見た。
透はもう笑っていなかった。去っていくグレゴールの背中を、瞬き一つせずに見送っていた。巡礼の門の前で、ボルクの台の前で、何かを一つずつ数えていたときと同じだった。伊吹は喉まで出かかった問いを、黙って飲み込んだ。胸の奥で、さっきの熱さがまだ燻っていた。
二日目の夜更けに、窓の外で小さな光が揺れるのを見た。
候補の館の裏門のほうだった。小柄な人影が肩の上に淡い光を乗せて、門の外へ抜け出していくところだった。シルヴィとミルだった。見届け人の部屋は館の別の棟にあるはずだった。光は路地の角を曲がって、すぐに見えなくなった。
同じ夜、館の中庭の暗がりで、二人分の声を聞いた。
声を殺して言い争っていた。片方は張りつめた少女の声で、もう片方はしわがれた老人の声だった。言葉までは聞き取れなかった。ただ少女の声が一度だけ、「グレゴール、思い出して」と高くなったのが聞こえた。老人は何も答えなかった。
三日目の昼、透と二人で施療院の前を通ると、リネットが門の陰に立っていた。
灰色の頭巾をかぶったまま、両手で何かを胸に握りしめていた。古い、大きな鉄の鍵だった。持ち手に、大聖堂の文書庫の紋が刻まれていた。リネットは伊吹に気づくと、小さく頭を下げて、鍵を袖の中に隠した。
どれも、意味は分からなかった。
分からなかったけれど、伊吹はどれも聞かなかった。透は毎晩遅くに部屋に戻ってきて、赤いボールペンで紙に何かを書きつけていた。書き損じた紙を、何枚も丸めて捨てていた。伊吹は寝たふりをせずに、起きて待っていた。厨房の老人に頼んで、毎晩、温かいスープを一杯だけ取っておいてもらった。
三日目の夜も、透はスープを黙ってすすった。
「……これ、明日の分もある?」
伊吹は思わず噴き出しそうになって、卓の向かいの透を見た。
「ちょっと。弟と同じこと言うのやめて」
「湊くんも、そう聞くの?」
「聞く。まだ半分も食べてないのに、明日の分ある?って。おいしいって言えばいいのに、それは絶対に言わないの。でもあれ、あの子なりのおいしいなんだよね。……分かるまで、ちょっとかかったけど」
伊吹は言いながら少しだけ笑っていた。笑っているのに、胸の奥がきゅっと痛んだ。召喚される前の晩も、湊は同じことを聞いた。あるよと答えて、鍋に半分残してきた。湊はあのスープを温め直して食べただろうか。
「……あるよ。おじいさんに頼んで、明日の分も取っといてもらう」
「じゃあ、明日の夜が明けたら、ここで食べる」
透はそう言って、またスープをすすった。それから匙を椀に置いた。
「伊吹。明日の夜、俺はたぶん、伊吹が首をかしげるようなことを何回も頼むと思う」
「うん」
「耳打ちだけで。理由も添えられないまま」
伊吹は卓に頬杖をついて、透の顔を見た。
「いいよ。首はかしげるかもしれないけど、手は止めない。私、顔には出るけど、足は引っ張らないから」
透は伊吹を見て、それから目を伏せた。
「……ありがとう」
透の声は少しだけかすれていた。伊吹は聞こえなかったふりをして、空になった椀を取り上げた。耳が熱かった。
*
二日目の夜更けに、大神官は奥の礼拝堂で、ルーヴェの司祭と向き合っていた。
窓のない部屋だった。燭台の火はどれも揺れていない。大聖堂で一番古い神前で、あの魔導師が決して近づかない場所でもあった。
老いた司祭は石の床に膝をついたまま、長いあいだ話し続けた。禁術の書を盗んだこと。ウィレムという男の中に、迷い灯が巣くっていること。召喚の夜、あの娘の胸に黒い火を一粒入れたこと。ランタンの火が尽きれば、その火があふれて王都が沈むこと。声は一度も途切れなかった。神前だった。全部、本当のことだった。
「トオル殿には、お止めいただきました」
司祭はかすれた声で言った。
「頼めば、大神官様に勝たせぬ理由を一つ差し上げるだけだ、と。誰かが動いたとあの男に知れれば、イブキ様の胸を引かれる、とも。……それでも、わたくしは参りました。ここなら、あの男の耳は届きませぬ。そして、あの方々をこの世界へお呼びしたのは、わたくしでございますから」
司祭は額を床に近づけた。
「どうか、大神官様。今回だけでございます。イブキ様を、聖女に。あの方の胸の火を返せるのは、聖女となられたあの方ご自身の誓いだけなのです。わたくしの罪は、いかようにも償います。ですから、どうか」
大神官は膝の上で手を組んだまま、黙っていた。
黒い火の正体はようやく分かった。それでも胸の奥のこわばりは少しもほどけなかった。むしろ、ずっと重くなっていた。
「……司祭殿。聖女の座は、私が誰かに与えられるものではないようです」
大神官は静かに言った。
「十六の灯は、夜明けに最も多くの灯を抱いた方のもとへ、ひとりでに集まると聞いております。私にできるのは、試練の卓を整えることだけ。灯そのものを、誰かの胸へ運ぶ手は、私にはございませぬ」
「では、卓を」
「傾けよ、と仰せですか」
司祭は答えられなかった。大神官は燭台の火を見つめた。
「仮に、傾けることができたとしましょう。……あの魔導師は、あの娘に負けるなと申したのでしょう。勝たせろ、と。資格を解かれれば己の望みが潰える、とも」
司祭の肩が小さく震えた。
「黒い火の主が、あの娘を聖女の座に据えたがっている。そのように思われます。何のためかは、私には分かりかねますが。……その望みを、私の手で叶えるのでしょうか。五十年前、私の故郷を灯ごと消したのと同じ揺れ方をする火の、望みを」
声は穏やかだった。それでも組んだ指先が白くなっていた。
「あの娘の言葉は、きっと一つも偽りではないのでしょう。あなたの言葉も。けれど、あの娘の胸に宿ったものまでは、私には信じきれませぬ。灯の視えぬお供の言葉は、量ることさえかなわない。……許されよ、司祭殿。私には、その頼みはお受けできかねるようです」
司祭が肩を落として去ったあと、大神官は一人で長いあいだ礼拝堂に座っていた。
あの娘の灯を、消させてはならない。消えれば、火があふれる。けれどあの娘を聖女にしてもならない。それが黒い火の主の望みであるなら。
灯を消さぬまま、聖女の座からだけ遠ざける。
大神官は卓の上の小さな鈴を鳴らした。ほどなくして、扉の向こうから痩せた背の高い神官が現れた。灯守の長、テオだった。
「明日の夜、杯を灯の間へ運ぶ役目は、あなたにお願いしたく存じます」
大神官は穏やかに言った。
「灯の間に入ったら、少しのあいだ、お一人に」
テオは深く頭を下げた。若いころから、大神官を父のように慕ってきた男だった。何を頼まれたのか、もう分かっているようだった。
*
儀の前夜だった。
伊吹は眠れなくて、部屋の窓辺に立っていた。透は卓に突っ伏して、赤いボールペンを握ったまま眠っていた。伊吹は自分の外套を透の肩にかけた。透は少しも起きなかった。
窓の外に大聖堂の裏手が見えた。
宝物庫のある棟から、灯の間へ続く渡り廊下。その屋根の下を、ランタンの明かりが一つ、ゆっくりと進んでいく。明かりを持っているのは痩せた背の高い神官だった。後ろに台車を押す若い神官が二人ついていた。台車の上に、白い布をかぶせた何かが並んでいた。
灯守の長、テオだった。
伊吹は窓枠に手をついた。杯だ、と思った。自分の「九」と「一」も、あの中にある。
テオは渡り廊下の途中で一度だけ足を止めた。後ろの神官たちに何かを言いつけると、神官たちは台車を置いて、来た道を引き返していった。テオは一人で台車を押して、灯の間の大きな扉の前まで進んだ。扉を開けて、中へ入っていった。
扉が閉まった。
渡り廊下にはもう誰もいなかった。灯の間の扉の隙間から、細い明かりが漏れていた。
なぜか胸の奥がざわざわした。伊吹は振り返って、眠っている透の背中を見た。起こそうかと思って、やめた。それからもう一度窓の外を見た。
灯の間の扉はそれから長いあいだ、開かなかった。




