第45話 九つの杯(前編)
九杯の儀の掟が明かされたのは鐘が鳴った翌朝だった。
大聖堂の奥の小さな礼拝堂に、残った四人の候補とお供が集められた。セレスティアとヨアン。イングリットとグレゴール。ノラと、お供のチッチ。伊吹と透。壁際には見届け人の席が設けられていて、アデーレとリコリスとシルヴィ、それから白蓮と朔の姿があった。リネットは灰色の頭巾をかぶったまま、扉のそばに静かに立っていた。
祭壇の前に、白い杯がいくつも並べられていた。
両手で包めるくらいの、陶の杯だった。縁に九枚の花弁の紋が浅く彫られている。その隣に、口の広い油壺が並んでいる。年配の神官が進み出て、巻物を広げた。
「これより、最後の試練、九杯の儀の掟をお伝えいたします」
礼拝堂がしんと静まった。
「その前に、古くからの教えを一つ、申し上げておきます。声は心を裁き、誓いは世界を裁き、文字は何も裁かない」
神官は一つずつ、ゆっくりと言った。
「神前で口にした言葉は、話す者の心で裁かれます。本人が信じておれば、事実と違うても偽りにはなりませぬ。聖印にかけた誓いは、世界の事実で裁かれます。本人がいかに信じておろうと、事実と違えば聖印が焼ける。そして文字は、何も裁かれませぬ。この儀は、その三つの上に立っております」
・その一 候補は空の杯を二つと、油を十目盛り受け取る。三日のうちに、二つの杯に好きなように分けて注ぐ
・その二 杯の口を布で覆って紐で縛り、結び目を封泥で封じる。封泥は神殿の作法に従い、右の親指で押す
・その三 紐に銘札を下げる。銘札は文字ゆえ、何を書いてもよい
・その四 杯は灯守が預かり、儀の夜、灯の間へ運ぶ。杯に触れてよいのは灯守のみとする
・その五 九つ目の杯は神殿が満たす。これを試しの杯と呼ぶ。中身は灯実の澱とし、澱を注がれた大灯は十目盛り曇る。銘札は慣わしにより「聖女の杯・満ちたる灯」とする
・その六 儀は一夜。各候補は大灯を一つ持つ。大灯の油は聖灯一本につき十目盛りに、これまでの試練で得た目盛りを加えたものとする
・その七 巡は九つ。巡のはじめに、すべての大灯が一目盛りずつ燃える。灯守がくじで杯を一つ祭壇に置き、銘札を読み上げる
・その八 問いの時。各候補は他の候補一人に、はいかいいえで答えられる問いを一つしてよい。沈黙は二目盛りを失う
・その九 誓いの時。誰でも杯の中身を聖印にかけて誓える。開けたとき当たれば二目盛りを得、外れれば五目盛りを失う。誓いは一夜に二度まで
・その十 競り。出す目盛りを伏せて書き、一斉に開く。最も多い者が払って杯を得る。同じ額で並べば杯は脇に置き、最後にもう一度競る。今の大灯の目盛りより多くは書けぬ
・その十一 杯を得た者は、封を切る前に、中身を注ぐ灯を神前で名指す。己の灯でも、他の候補の灯でもよい
・その十二 自らの杯を他の者に落とされた候補は、夜明けに売値の半分を受け取る
・その十三 神託の問い。各候補は一夜に一度だけ、誰にでも特別な問いを向けられる。神託の問いへの沈黙は四目盛りを失う
・その十四 最後の巡では、お供は耳打ちできない。最後の一杯は、候補ひとりの灯で選ぶ慣わしとする
・その十五 夜明けに大灯の目盛りが最も多い者を、聖女とする。途中で灯が尽きた者は、そこで選定を去る
神官が読み終えても、しばらく誰も口をきかなかった。
十五の掟。伊吹は頭の中で数え直そうとして、途中で諦めた。杯と、油と、封泥と、銘札と、競りと、誓いと、問い。一つずつは分かる。でも全部がいっぺんに頭に入ってこない。手のひらがじっとりと湿っていた。
隣で透が祭壇の白い杯をじっと見ていた。
*
礼拝堂を出ると、透は回廊の柱の陰に伊吹を連れていった。伊吹が口を開くより先に、透のほうから話し始めた。
「これはね、自分で詰めた福袋を、みんなで競り落とすゲームなんだ」
「福袋」
「うん。伊吹は十目盛りの油を、二つの杯に分ける。たとえば五と五でもいいし、九と一でもいい。それから杯に封をして、銘札をつける。銘札には何を書いてもいい。中身が一でも、九って書いてもいい」
「文字は何も裁かないから」
「そう。で、儀の夜には、みんなの杯がばらばらに祭壇に出てくる。誰がどの杯を作ったかは、誰にも知らされない。自分の字の銘札なら、自分の杯だって分かるけどね。それを競り落として、中身を自分の大灯に注ぐ。夜明けに一番油の多い人が聖女」
透は指を一本立てた。
「肝心なのは、中身が見えないことなんだ。銘札は嘘かもしれない。だから問いで確かめる。神前の問いには、この世界の人は嘘で答えられない。でも、本人が信じてることは、事実と違っても嘘にならない。それから誓い。聖印にかけた誓いは、本人がどう信じてても、事実と違えば外れる。声と、誓いと、文字。三つのずれを、全部使って競るんだ」
「……要するに、福袋の中身を、声と誓いと文字で探り合うってこと」
「うん。それと、もう一つ」
透は少しだけ声を落とした。
「落とした杯は、自分の灯じゃなくて、誰かほかの人の灯に注ぐこともできる。いい油なら自分に注げばいい。でも、九つ目の杯だけは違う」
「神殿が満たすっていう、試しの杯?」
「うん。中身は灯実の澱。油を搾ったあとの、黒い滓なんだって。燃えないうえに、注がれた灯を十目盛りも曇らせる。それなのに銘札には、慣わしで聖女の杯、満ちたる灯って書いてある」
「文字は何も裁かないから」
「そう。神殿の古い慣わしなんだって。大きな祭りや儀式のたびに、文字の嘘を見抜けるかどうかを試すために置かれる杯。だから、誰かがあれを落としたら、自分の灯には絶対に注がない。注ぐとしたら」
「人の灯に注いで、沈める」
口にしてから、伊吹は背中が冷たくなった。十目盛り。伊吹の大灯なら、それだけで半分以上が曇る。
「そういうこと」
伊吹は柱にもたれて、長く息を吐いた。
「告解の間が心の当てっこで、巡礼が騙し合いの山登りで、神託札が嘘つきの手紙。で、最後が福袋の押し付け合い」
「押し付け合いになるかどうかは、たぶん人による」
透はそう言って、少しだけ笑った。
*
準備の部屋は大聖堂の宝物庫の脇の、窓のない小部屋だった。
候補は一人ずつ呼ばれて、灯守の立ち会いのもとで杯を満たす。お供は付き添ってよいが、手は出せない。卓の上に、白い杯が二つと、十目盛りの線が刻まれた硝子の油差しが置かれていた。油差しの中で、灯実の油が淡い金色に揺れていた。
伊吹は二つの杯を前にして、しばらく動かなかった。
「透。どう分けたらいいと思う?」
「伊吹の好きにしていいよ」
「……策は」
「今はない。本当に」
瞬きは止まらなかった。伊吹は少し驚いて、それから小さく頷いた。
伊吹は油差しを持ち上げて、一つ目の杯に注いだ。一目盛り、二目盛り。硝子の線を一本ずつ数えながら、ゆっくりと傾けていく。九目盛りで止めた。残りの一目盛りを、二つ目の杯に注いだ。
「九と一?」
「うん」
伊吹は二つの杯を見下ろした。
「一個は、ちゃんといいのを作りたかったの。誰の灯に注がれても、ちゃんと明るくなるやつ。もう一個は、残り」
透は何も言わなかった。ただ少しだけ目を細めて、伊吹の手元を見ていた。
灯守が杯の口に白い布をかぶせて、麻紐で固く縛った。それから小さな壺の蓋を開けた。中には灰色がかった柔らかい泥が入っていた。
「封泥にございます。結び目にこれを盛って、右の親指でお押しくださいませ。神殿の作法にて、指はこう、縦に」
灯守が自分の親指で、押す向きをやってみせた。伊吹は泥をひとすくい結び目に盛って、右の親指を当てた。
「伊吹」
透が後ろから、小さな声で言った。
「強く、ゆっくり押して。指の腹の模様が、全部写るように」
伊吹は手を止めて、振り返った。伊吹は振り返りかけて、やめた。
透の声にはいつもの穏やかさの下に、ぴんと張った糸のようなものがあった。告解の間で耳打ちしてきたときと同じ声だった。何か理由がある。たぶん、今は言えない理由が。それが分かれば十分だった。
伊吹は親指に力を込めた。強く、ゆっくり。泥が指の腹にまとわりついて、ひんやりと冷たかった。指を離すと、灰色の泥の上に、細かな渦の模様がくっきりと残っていた。その渦を斜めに横切って、一本の線が走っていた。親指の古傷の線だった。
二つ目の杯にも、同じように押した。
それから銘札を受け取って、筆を取った。この世界の字は書けない。数の字だけは書ける。伊吹は一つ目の杯の札に「九」、二つ目の札に「一」と書いた。透に教わった、この世界の数の形だった。
「本当のこと書くんだ」
「書くよ。嘘、書きたくないもん」
伊吹は筆を置いた。
「文字は何も裁かないんでしょ。だったら、なおさら。誰にも裁かれないところで嘘書いたら、私、自分で自分を裁くことになる」
透は少しだけ笑った。それから何も言わずに、伊吹の手元の二つの杯を見下ろしていた。灯守が杯を受け取って、宝物庫の奥へ運んでいった。重い扉が閉まる音がした。




