第44話 二人一組(後編)
「呪いを解く方法は、ありますか」
透が言った。もう頁から目を上げていた。
司祭は本の後ろのほうの頁を開いた。
「呪詛返し、と申します。古い記録に、三つの条件が記されております」
司祭は指を一本ずつ折った。召喚の夜と同じ手つきだった。
「一つ。イブキ様が聖女となられること。十六の灯を集めた聖女だけが、神前で世界を裁く誓いを執り行えます。二つ。迷い灯の真の名を、神前で呼ぶこと。真の名を呼ばれた迷い灯は、宿主から剥がれて、黒い火の姿を晒します。三つ。聖女が神前で誓うこと。この火は、その名の者のものである、と。誓いは世界が裁きますゆえ、それが真であれば、イブキ様の胸の種火は元の持ち主へ返されましょう」
「真の名」
透が繰り返した。
「ウィレム、じゃだめなんですよね。それは宿の名前だから」
「左様でございます。そして」
司祭はそこで、言葉を切った。皺だらけの指が頁の一行の上で止まっていた。
「名は、一度しか呼べませぬ。呼び誤れば、迷い灯はその名を喰って、宿の灯に根を下ろし、二度と剥がせませぬ。ウィレム殿のお名前で試すことも、なりませぬ」
部屋が静かになった。
一度きり。伊吹は透を見た。透は唇を引き結んで、本の頁を見下ろしていた。指が一本だけ、卓の縁を小さく叩いていた。考えているときの透だった。
「……だったら」
伊吹は顔を上げた。
「大神官さんに言えばいいじゃない。全部。ウィレムさんの中に迷い灯がいて、私の胸に種火を入れて、召喚の夜からずっと脅されてるって。リネットさんだって証人になってくれる。神前で言えば、全部本当だって分かるでしょ。神殿の人たちが、あいつを捕まえてくれれば」
「捕まえた瞬間に、王都が沈む」
透が静かに言った。
「召喚の夜に、あの人が言ったこと、覚えてる? 私が倒れれば、種火はその場であふれます、って。あれは神前で言った言葉だよ。神殿兵が取り押さえても、大神官様が神前に引き出しても、あの人が倒れたら同じことになる。告発の夜には、指一本で市場の祠を消してみせた。誰かが動いたと分かった時点で、あの人はいつでも伊吹の胸を引ける」
「でも、大神官さんには、あの黒い火が視えてるんでしょ。だったら」
「視えてるよ。視えてて、大神官様が選んだのは、伊吹を選定から外すことだった。灯なき者は、やがて災いになるって」
透は伊吹から目を逸らさなかった。
「大神官様にできるのは、伊吹を浄めの塔に閉じ込めることくらいなんだ。それじゃ、火は消えない。ランタンの火が消えた日に、塔の中からあふれるだけだ」
「種火を元の持ち主へ返せるのは、聖女の誓いだけでございます」
司祭がかすれた声で言い添えた。
「今、この大陸に聖女はおられませぬ。大神官様にも、わたくしにも、どなたにも、その火を取り出すことはできませぬ」
リネットが唇を噛んだ。
「わたくしが神前で証言しても、先生の体を捕らえる理由にしかならないのですね。先生は、まだあの中におられるのに」
「……待って」
伊吹は卓の上に身を乗り出した。
「聖女の誓いならいいんでしょ。だったら、私じゃなくてもいいんじゃないの。セレスティアさんでも殿下でも、誰かが聖女になったら、その人に頼めば。セレスティアさんなら、事情を全部話せば、きっと聞いてくれる。あの人、そういうところはちゃんとしてるから」
司祭はゆっくりと首を横に振った。それから禁術の書の頁を何枚かめくって、一行を指でなぞった。
「それも、なりませぬ。……ここに、こうございます。種火は宿った灯に根を張り、その灯の一部となる。灯の中にあるものを外へ手放せるのは、その灯の主の言葉だけ、と」
「灯の主」
「聖女が神前で誓えば、世界が裁きます。けれど、誓いが動かせるのは、誓う者が己の灯に抱えているものだけでございます。セレスティア様が聖女となられても、イブキ様の胸の火はセレスティア様の灯の中にはございませぬ。よその灯の火を指して、これは誰それのものだと誓っても、世界は動きませぬ。……イブキ様の胸の火を返せるのは、聖女となられたイブキ様ご自身の誓いだけなのです」
「でも、ネネの誓いは聖女なら解けるって、ノラさんが」
「あれは約束だからだよ」
透が言った。
「ネネの誓いは、神前で人と人が結んだ約束なんだ。約束なら、裁く人が解ける。でも伊吹の胸の火は約束じゃない。伊吹の灯にくっついて、もう伊吹の一部になってる。だから、手放すって言えるのは伊吹だけなんだ」
透は少しだけ間を置いて、続けた。
「それにね、伊吹が負けたら、あの人の望みはそこで潰える。潰えた望みのために、あの人が種火を伊吹の胸に置いておく理由はもうない。セレスティアさんが聖女の誓いを立てる朝まで、待ってくれるとは思えないんだ」
伊吹は胸に手を当てた。服の上からでも、そこだけが熱かった。召喚の夜から、ずっとそこにある火だった。自分の中にあるのに、自分のものではない火だった。指先が細かく震えて、伊吹は服の胸元を強く握りしめた。
誰かに代わってもらうことはできないのだ。自分で勝って、自分の口で返すしかない。
伊吹は少しのあいだ黙っていた。それからもう一度顔を上げた。
「だったら、大神官さんに全部話して、頼めばいいじゃない。捕まえてくれなくていいから。種火を返すには、私が聖女になるしかないんでしょ。だったら今回だけ、私を聖女にしてくださいって。ずるいのは分かってる。でも、王都がかかってるんだから」
透はすぐには答えなかった。それからゆっくりと言った。
「伊吹。あの人が召喚の夜から、ずっと言ってたことは何だった?」
「……負けないでくださいね。勝たせろ」
「告発の夜には、その娘が資格を解かれれば私の望みも潰える、って言った。あの人は、伊吹が聖女になることを望んでるんだ。何のためなのかは、まだ分からない。でも大神官様から見たら、黒い火を胸に入れられた娘を、その火の持ち主の望みどおりに聖女にしてくれって、頼まれるのと同じことになる」
伊吹は息を止めた。施療院の裏の回廊で聞いた、大神官の声を思い出した。私の故郷は神前で結んだ誓いが破られた夜に、灯が一つ残らず消えた。
「……大神官さん、昔、あの火で故郷を」
「たぶん、そうなんだと思う。大神官様にとって、伊吹の胸の黒い火は、故郷を消した火と同じなんだ。頼んだら、大神官様は伊吹を勝たせない理由を、もう一つ手に入れるだけだよ」
透は少しだけ目を伏せた。
「それに、正直に言うと、俺にも分からないんだ。あの人がどうして伊吹を聖女にしたがるのか。俺たちは、あの人の望みどおりに勝とうとしてるのかもしれない。それでも、呪いを返せるのは聖女の誓いだけだから、勝つしかない」
伊吹は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込んで痛かった。
「じゃあ、誰にも頼れないってこと? こんなに人がいて、神前があって、嘘をつける人なんてほとんどいない世界なのに、誰も、あいつを止められないの」
「頼ることはできるよ」
透の声が少しだけ柔らかくなった。
「アデーレさんたちが来てくれたみたいに。リネットさんが隠れるのをやめてくれたみたいに。でも、あの人を止められるのは、伊吹が聖女になった日だけなんだ。だから、それまでは誰にも気づかれずに勝つ。あの人に、俺たちが名前を探してることを悟らせないまま」
伊吹は長く息を吐いた。悔しかった。それでも透の言うことが正しいのは分かった。
「イブキ様」
司祭が顔を上げた。さっきよりも、ずっと苦しそうだった。
「もう一つ、申し上げねばならぬことがございます。召喚の夜、わたくしは、聖女の御力で異界の門を開き、お二人をお還しできましょうと申し上げました。それは、偽りではございませんでした。けれど、わたくしは最後まで読んでおりませなんだ」
司祭は頁の最後の一行を、指でなぞった。リネットがそれを覗き込んで、読み上げかけて、口をつぐんだ。それからかすれた声で続けた。
「……門を開く者は、門のこちらに残る」
伊吹にはすぐに意味が分からなかった。
「聖女は、異界の方をお還しすることができます。けれど、門を開いた聖女ご自身は、還れませぬ」
司祭の声がそこで崩れた。
「申し訳、ございませぬ。わたくしは、お二人に、還れると申し上げてお呼びした。それなのに」
伊吹は立ったまま、動けなかった。
帰れない。聖女になれば、帰れない。負ければ王都が呪いに沈む。勝てば、湊のいる世界には二度と帰れない。
湊の顔が浮かんだ。夜中に布団をかぶって、スマホの明かりを漏らしながら異世界の話を読んでいた弟。帰る話にする。召喚の次の夜に、自分でそう言ったのだ。二つの月の下で、透の隣で。
膝から力が抜けそうになって、伊吹は卓の縁を掴んだ。手のひらが冷たかった。
「……じゃあ」
口を開いたのは透だった。
「伊吹が聖女になったら、伊吹は門を開いて、俺を還せるってことですか」
「左様でございます」
「伊吹は、残る」
「……はい」
透が立ち上がった。卓に手をついて、司祭のほうへ身を乗り出した。
「ほかに方法は? 書いてないんですか、ほかの聖女が門を開くとか、二人で一組なら二人とも還れるとか。何でもいい、一行でいいから」
「透殿」
「探します。三日あるなら、名前と一緒に、それも探す。伊吹だけ残すなんて、そんな」
「透」
伊吹が呼んだ。
透が振り向いた。顔が真っ青だった。伊吹は透の目を見たまま、卓の縁から手を離した。
「あんたは、帰って」
声は思ったより静かに出た。
「私が聖女になったら、あんたを還す。湊のところに行って、全部話して。私は元気だって。区役所のことも、奨学金のことも、全部あの子に教えてあげて。お母さんだって、あんたのこと待ってるでしょ」
「嫌だ」
透の声が狭い部屋に響いた。
「伊吹を置いて一人で帰るくらいなら、俺も帰らない。召喚されたのは二人だって、広間で言ったばっかりだよ。神様だって、最初から二人で呼んだんでしょ。だったら、一人だけ帰るなんて、そんなの」
「あんたが帰らなかったら、湊は誰から私のこと聞くの!」
伊吹は叫んでいた。
「あの子、私が光の中に消えるの見てたんだよ。目の前で。指まで触ってたのに。それからずっと、一人で待ってるの。母さんの薬もらいに行って、弁当作って、待ってるの。あんたがいなかったら、あの子は一生、姉ちゃんがどうなったか分からないままなんだよ!」
喉が詰まった。目の奥が焼けるように熱かった。伊吹は拳を握って、それでも透から目を逸らさなかった。
透も目を逸らさなかった。
「……分かってる。分かってるよ」
透の声が震えていた。
「でも伊吹だって、湊くんに会いたいでしょ。帰りたいって、名乗りの儀で大神官様に向かって叫んでたじゃないか。ここで黙ったら帰れないんですって。あれ、神前で、全部本当だったじゃないか」
伊吹は答えられなかった。
本当だった。今でも本当だった。帰りたい。湊に会いたい。母さんの手をさすってあげたい。言葉にしたら、きっとまっすぐに声になる。
部屋の中で、誰も何も言わなかった。リネットが司祭の肩を抱いていた。乾いた草の束が窓から入る風にかさりと鳴った。
伊吹は長く息を吐いた。
帰りたい。それは本当だ。それでももう一つ、本当のことがあった。
「……ネネがね」
伊吹は手首の水色の紐に、指で触れた。
「今朝、扉の外で叫んでくれたの。お姉ちゃんはここにいるって。リュシアンさんも、あのおじいさんの家族も。アデーレさんは剣にかけて誓ってくれた。リコリスさんは聖典を買ってきてくれた。シルヴィさんはミルの声を、白蓮さんは灯を、リネットさんは傷を見せてくれた」
ほつれかけた編み目を、一つずつ指で押さえた。
「私が負けたら、あの人たちの灯が曇るんだよ。ネネみたいな子から、先に消えるの。それに、ネネの誓いを解けるのは、聖女だけなんだよ。ノラさんが言ってた。貧民街の子は、みんなそうなんだって」
伊吹は顔を上げた。
「帰れなくても、勝つ。呪いも返す。ここにも守りたいものができたから」
燭台の火は一つも揺れなかった。声は最後まで、まっすぐに出た。
透は伊吹を見ていた。何か言おうとして唇を動かし、それから閉じた。透の目から、また一粒、涙が落ちた。昨日の夜と同じだった。それでも透はもう顔を背けなかった。
「……帰る帰らないは、勝ってから決めよう」
伊吹は少しだけ笑った。
「二人で。勝ってから、二人で決めるの。今決めたら、たぶん私たち、どっちも譲らないでしょ」
「……うん」
透は袖で目を拭った。それから卓の上の禁術の書に、もう一度目を落とした。
「三日で、名前を突き止める。それと、帰り道のことも。書いてないなら、書いてないところを探す」
瞬きは止まらなかった。
*
施療院を出ると、坂の上の空はもう高く晴れていた。
伊吹と透は並んで坂を下った。どちらからともなく、歩く速さが揃っていた。坂の下には市場の屋根が並んでいて、その外れに、ネネが案内してくれた祠の屋根が小さく見えた。
「透」
「うん」
「さっき、三日で名前を突き止めるって言ったよね」
「言った」
「たぶんあんた、これから三日、また何か黙ってやるでしょ。夜中に部屋を出ていったり、誰かとこそこそ話したり」
透は少しだけ黙った。
「……たぶん、そうなる。名前を探してるって、あの人に気づかれたら、それだけで伊吹の胸を焼かれるかもしれない。伊吹は顔に出るから、知らないほうが安全なこともあると思う」
「うん。そう言うと思った」
伊吹は足を止めて、透の前に回り込んだ。透の顔をまっすぐに見上げた。
「もう全部一人で抱えないで。……言えないときは、最後に全部話して」
透が目を見開いた。
「全部すぐに話せなんて言わない。言えないなら、言えないって言って。その代わり、終わったら全部。何を考えてたのか、誰に会ってたのか、どこで怖かったのか。全部、私に話して。それが約束できるなら、私、知らないまま門に立ってあげる」
透は長いあいだ伊吹を見下ろしていた。それからゆっくりと頷いた。
「約束する」
巡礼の帰り道で、約束できないと言った透だった。神託札の前に、できるところまではと言った透だった。その透が今、約束すると言った。
瞬きは止まらなかった。
伊吹は胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。軽くなったぶん、目の奥が熱くなった。伊吹はそれを隠すように、くるりと前を向いて歩き出した。
「破ったら、殴るから」
「知ってる」
透が笑って、伊吹の隣に並んだ。そのとき大聖堂の鐘が鳴り始めた。
一つ、二つ、三つ。いつもの時を告げる鐘ではなかった。坂の下の市場で、人々が足を止めて尖塔を見上げている。鐘は九つ鳴って、止まった。
広場のほうから、布告官の声が風に乗って届いてきた。
「大聖堂より、王都の民に告げる。選定の最後の試練は、三日ののちの夜に執り行う。最後の試練の名は――」
伊吹は透の袖を掴んだ。透も足を止めて、広場のほうを見ていた。
「九杯の儀」




