第43話 二人一組(前編)
施療院の奥に、薬草を干すための小さな部屋があった。
壁一面に乾いた草の束が吊るされていて、息を吸うたびに苦い匂いが胸に入ってくる。窓は一つだけで、朝の光が細く床に落ちていた。卓の上の燭台の火はまっすぐに立ったまま揺れていない。施療院は大聖堂の持ち物で、ここも神前だった。
「ここなら、ウィレム殿は来られませぬ」
司祭は扉を閉めて、閂をかけた。
「あの方は神前を避けておられます。大神官様のお目も。今朝の騒ぎのあいだも、館の奥のお部屋から一歩も出てこられませんでした」
リネットが窓の下の古い椅子を引いて、司祭に勧めた。司祭は座らなかった。伊吹と透の前まで歩いてくると、震える膝を折って、石の床に両手をついた。
「司祭さん、やめてください。そんなこと」
「いいえ。どうか、このままお聞きくださいませ」
司祭は額を床に近づけたまま、顔を上げなかった。
「召喚の夜、わたくしはお二人に、半分しかお話ししませんでした。禁術の書を神殿の書庫から持ち出したのは、わたくしでございます。それは本当です。けれど、わたくしが自分から望んで盗んだのではありませぬ。ウィレム殿に命じられたのです。逆らえば、わたくしの胸の灯を黒く曇らせる、と。あの方は指を一本持ち上げて、わたくしの胸を焼いてみせられました」
しわがれた声が乾いた草の匂いの中で震えていた。
「選定の、ふた月ほど前のことでした。その少し前から、ウィレム殿はお変わりになっていた。笑い方が変わり、灯実の油の料理に一度も手をつけなくなり、神殿の礼拝にお見えにならなくなった。わたくしは、お疲れなのだと思うことにしておりました。……思うことに、しておりました」
司祭の肩が小さく震えた。
「そして選定の少し前の晩、リネット様が、お屋敷の書庫で」
声がそこで途切れた。リネットが司祭の前に膝をついて、その皺だらけの手を両手で包んだ。
「司祭様。わたくしは、生きております」
「書庫の床に、血の跡がございました」
司祭はリネットの手を握り返して、ようやく顔を上げた。皺の奥の目から、涙がとめどなく流れていた。
「ウィレム殿は、リネット様は候補を降りて遠くへ行かれたと、公爵様に申し上げました。神前ではない、お屋敷の広間で。わたくしは、リネット様はもう、この世におられぬものと……。それなのに黙って、あの方の言うとおりに禁術を行うお手伝いをいたしました。リネット様の空いたお席の火を使って、お二人を、異界から」
伊吹は何も言えなかった。胸の奥がきりきりと痛んだ。召喚の夜に胸ぐらを掴んだ司祭の体が驚くほど軽かったことを思い出した。この人はあのときもう、ずっとこれを抱えていたのだ。
透が司祭の前にしゃがんで、目の高さを合わせた。
「ウィレムさんの中にいるのは、何なんですか?」
穏やかな声だった。司祭は涙を拭いもせずに、透を見た。
「……迷い灯、と、古い教えでは呼ばれております」
司祭は床に手をついたまま、ゆっくりと語り始めた。
「神前の誓いを破った者は、聖印を焼かれ、胸の灯が黒く堕ちます。そうして死んだ者の灯は、神のもとへ還れませぬ。行き場をなくして、曇りの地へ流れ着き、やがて人の胸に入り込む。宿った者の灯を消さずに、その隣に巣くって、体を内側から動かすのだと」
「灯を、消さずに」
リネットが呟いた。顔が真っ白になっていた。
「では先生は、まだ」
「はい。おそらく、ウィレム殿の灯は、あの方の中で今も灯っておられます。目を開けて、耳を澄まして、ご自分の手がしていることを、すべて見ておられる」
リネットは唇を噛んで、司祭の手を握ったまま俯いた。肩が震えていた。伊吹は思わず、リネットの背中に手を置いた。首筋の白い傷が目のすぐ前にあった。先生は自分の手がこの傷をつけるのを、中から見ていたのだ。そう思ったら、喉の奥が熱くなって、伊吹は奥歯を噛みしめた。
*
司祭は懐から、古い革表紙の本を取り出した。表紙の角が焦げて、留め金が一つ取れている。
「禁術の書でございます。神殿へお返しする前に、お二人にお見せせねばならぬところがございます」
司祭は震える指で頁を繰って、ある箇所を開いた。古い字がびっしりと並んでいる。伊吹には一文字も読めなかった。リネットが横から覗き込んで、静かに読み上げた。
「願いの言葉、一つ。神はその言葉を満たす魂を、異界より一つ呼ぶ。されど、一つの魂にて満たす者なきときは、二つの魂を一組として呼ぶ」
透が息を止めるのが分かった。
「わたくしどもが申し上げた願いは、聖女の座を掴み取れる者を、でございました」
司祭は透のほうを見た。
「異界の、どこにも、その言葉を一人で満たす方はおられなかったのです。ゆえに神は、お二人を一組としてお呼びになった。……召喚の夜、わたくしは、あなた様は巻き込まれたのだと思っておりました。そう申し上げてしまった。違ったのです。神がお選びになったのは、最初から、お二人でございました」
伊吹は透の横顔を見た。
透は何も言わなかった。開かれた頁の古い字を、じっと見つめていた。召喚の夜に、透は司祭の前で困ったように笑ったのだ。じゃあ俺は巻き込まれただけってことですね。それなら仕方ないです、手を伸ばしたのは俺のほうなので。あのときからずっと、透は自分のことを、そういうふうに思っていたのかもしれない。
「名乗りの儀で、お二人は一人の候補として結ばれたのです」
司祭は続けた。
「ほかの候補の方のランタンには、火が二つ灯ります。一つは神の火。もう一つは、その方が生まれ持った魂の灯を写した火。けれどお二人の胸には、この世界の魂の灯がない。イブキ様の胸の灯は、リネット様のお席の火を分けた借り物でございますから、大灯に呼ばれても応えませぬ。ゆえに灯ったのは、神の火の一つだけ。それを、お二人で支えておられる」
伊吹は自分の手の甲を見た。九枚の花弁の真ん中で、小さな炎が二つ、寄り添うように揺れている。名乗りの儀の日、透がこの二つの炎をじっと見つめていたことを思い出した。
「だから、透が遠くに行くと」
「はい。お一人では、黒い火を押さえきれませぬ」




