第42話 恩返し(後編)
空が白み始める少し前に、もう一度扉が叩かれた。
今度はひどく控えめな叩き方だった。アデーレが剣の柄に手をかけて扉を開けると、灰色の頭巾をかぶった見習いの修道女が一人、廊下に立っていた。
透が小さく息を呑むのが聞こえた。
慈悲の審判の日に、施療院の壁際で、セレスティアを見て顔を伏せた修道女だった。伊吹は思い出した。王都に来た最初の日にも、施療院の奥で、同じように顔を伏せて下がっていった人がいた。
修道女は部屋の中を見回して、伊吹のところで目を止めた。それからゆっくりと頭巾を下ろした。
淡い栗色の髪が肩に落ちた。伊吹と同じくらいの歳の少女だった。首筋から鎖骨のあたりにかけて、まだ新しい傷の痕が白く走っていた。
「夜分に、失礼いたします」
澄んだ、静かな声だった。
「わたくしは、リネットと申します。ルーヴェ公爵家の娘で、この選定で、ルーヴェの候補となるはずだった者です」
伊吹は息を止めた。
リネット。召喚の夜に司祭が言いかけて黙った名前だった。リネット様に古い言葉を教えておられた頃は。
「施療院で、告発のことを聞きました。それから、あなたが寝台の病人たちに手を当てているのを、壁際でずっと見ておりました。札が一の殿方の痛みも、役者の方の痛みも、あなたは自分の胸で引き受けておられた」
リネットは伊吹の前まで歩いてきて、少しだけ首を傾げた。
「わたくしの席で、あなたがあんなふうに戦っておられたのですね」
「……あなたの席を、取ったみたいになって」
「いいえ。わたくしは、自分で降りたのではありません」
リネットは首筋の傷に、そっと指を当てた。
「選定の少し前の晩でした。屋敷の書庫で、わたくしは襲われました。短剣を握っていたのは、ウィレム先生でした。わたくしに古い言葉を教えてくださった、穏やかな、優しい先生です。……けれど、あれは先生ではありませんでした」
リネットの声がそこでかすかに震えた。
「先生の顔をした、何かでした。笑い方が違ったのです。先生は一度も、あんなふうに笑ったことがなかった」
部屋の誰も、何も言わなかった。燭台の火だけがまっすぐに立っていた。
伊吹は召喚の夜の礼拝堂を思い出した。暗がりから出てきた男の、優しげな目元と、薄い笑い。以前のウィレム殿はあのように笑う方ではございませんでした。司祭はそう言っていた。
「わたくしは死んだと思われています。だから今まで、施療院に隠れていました」
リネットは背筋を伸ばして、伊吹を見た。
「けれど今夜で、隠れるのはやめます。夜明けの神前で、あなたがこの地に生きていることを、わたくしも誓います。先生のことは、そのあとで。……ルーヴェの司祭様と一緒に、すべてをお話しいたします」
*
夜明けの大広間は昨日よりも冷えていた。
正面の祭壇で大灯が燃えている。開け放たれた扉の向こうには昨日と同じように王都の人々がひしめいていた。夜を徹して待っていた人たちだった。祭壇の前に灯守が並び、その中央にテオが立っている。一段高い席に、大神官が静かに座っていた。
伊吹は祭壇の前に一人で立っていた。背後に透がいる。その後ろに、夜中に部屋へ来てくれた人たちが並んでいた。
「夜明けを迎えました」
大神官が穏やかに口を開いた。
「ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿。この地の者であると、神前に示す方は、おられますでしょうか」
最初に進み出たのはアデーレだった。甲冑を鳴らして祭壇の前に立ち、右手を胸に当てる。
「シュタール家のアデーレ、神前に誓う。この者は、今この地に生きている。霧の尾根で凍えた者の手を温め、己の品を分け、雪の山を自分の足で登った。この地に生きる者でなくて、何だというのか」
声は一音も途切れなかった。次に白蓮が朔に手を引かれて進み出た。
「蓮州の白蓮にございます。わたくしには、この方の灯が視えます。細く、遠くから借りてきたような灯です。けれど、温かい灯です。この方は今、この地で、確かに誰かを温めておられます。この者は、今この地に生きている。……私は、そう信じております」
大広間がざわめいた。灯の視えぬはずの候補に、灯が視えると、神前で言い切ったのだ。テオの顔色がわずかに変わった。
シルヴィがミルを肩に乗せたまま前に出た。小さな声だったけれど、震えてはいなかった。
「森の国のシルヴィです。この人は、わたしの精霊が泣いてるのに気づいてくれました。この者は、今この地に生きている」
リコリスが扇を閉じて、祭壇の前に立った。
「メルクールのリコリスよ。神前に誓うわ。この者は、今この地に生きている。それと、ついでに申し上げておくわね」
リコリスは聖典の写しを開いて、高く掲げた。
「聖典の条文は、この地に生きる者の中から選ばれる。生まれた者、じゃないの。告発の二つ目の証、教会の帳面に名前がないって話は、条文のどこにも引っかからない。商人の目で数え直しても、勘定は合わないわ」
声は最後まで途切れなかった。
朔が告発の写しを持って進み出た。大神官の前で膝をつき、三つ目の証の一行を示す。
「この一行だけ、墨が新しく、筆も違います。古き記録の言葉として読み上げられましたが、あとから書き足されたものです」
大神官は差し出された紙を受け取って、長いあいだ黙って見下ろしていた。
「……古い記録のその一文は、私も若いころから何度も読み解こうとしてまいりました」
大神官は静かに言った。
「いまだに読み解けぬ一語がございます。ですが、少なくとも、やがて災いとなる、とだけ書かれておるのではないようです。……そのように、私には思われます」
テオが目を見開いて、自分の手の中の巻物を見下ろした。何かを言おうとして、唇だけが動いた。言えないのだ、と伊吹には分かった。書き足しを知らなかったと言いたくても、確かめたわけではないから、言い切れない。
最後に灰色の頭巾の少女が進み出た。
祭壇の前で頭巾を下ろすと、大広間が大きくどよめいた。観覧の神官の誰かが「リネット様」と叫んだ。候補の列の端で、セレスティアが息を呑むのが見えた。いつもの微笑みがその顔からすっかり消えていた。
「ルーヴェのリネットにございます。この方は、わたくしの席で、わたくしの代わりに戦ってくださいました。施療院の病人の痛みを、自分の胸で引き受けて。この者は、今この地に生きている」
声は一音も途切れなかった。そのとき開け放たれた扉の向こうから、甲高い声が響いた。
「お姉ちゃんは、ネネの手首に薬塗ってくれたもん! ここにいるもん!」
ネネだった。人垣の足のあいだから顔を出して、顔を真っ赤にして叫んでいた。その隣でチッチが妹の肩を押さえていた。それでも止めようとはしていなかった。扉の外は神前の外だった。それでもネネの声はまっすぐに大広間の奥まで届いた。
「そうだ! 俺の胸を治してくれた!」
「うちの爺さんもだ!」
旅役者のリュシアンの声だった。入口の寝台の老人の、孫娘の声だった。声が次々に重なっていった。昨日、黙ったぞと叫んだ人たちと、同じ扉の向こうから。
伊吹は祭壇の前で、立ったまま動けなかった。
涙が止まらなかった。拭っても拭っても、あとからあふれてきた。泣くのはここじゃない。昨日はそう思ってこらえた。今日はもう、こらえ方が分からなかった。背後で透が伊吹の肩にそっと手を置いた。その手も少しだけ震えていた。
大神官が長い息を吐いた。
「……示す方が、あったようでございますな」
大神官は伊吹を見て、皺の奥の目をほんの少しだけ細めていた。
「この地に生きる者の中から。聖典の言葉に背くところは、ないものと思われます。ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿。選定の列に、お留まりなさいませ。浄めの塔のお話は、なかったものといたしましょう」
扉の外がわっと沸いた。
*
大広間を出ると、回廊に朝の光が差し込んでいた。
柱の陰でリコリスが扇を揺らしながら待っていた。伊吹が礼を言おうとすると、リコリスは扇の先で伊吹の唇をぴたりと止めた。
「売らないどころか、買い戻してあげたのよ。あなたたちの秘密。高くついたわ、聖典の写しの借り賃」
「リコリスさん」
「それに」
リコリスは扇を開いて、伊吹の肩越しに透を見た。
「婿に取る前に消えられたら困るもの。ねえ、トオル」
回廊にいた神官たちが一斉にこちらを振り向いた。
伊吹は口を開いた。神託札の礼拝堂では同じことを言われて黙るしかなかった。今度は黙りたくなかった。嘘ではなく、本当のことで言えばいいのだ。
「……それは、困ります」
声はまっすぐに出た。回廊の燭台の火は一つも揺れなかった。ここは神前だった。
リコリスが目を丸くした。それから扇の陰で、声を立てて笑い出した。
「あら、正直。困るんだ」
「困ります」
「ふうん。じゃあ、もっと困らせてあげようかしら」
リコリスは楽しそうに扇をぱちりと閉じて、回廊の向こうへ歩いていった。伊吹は顔から火が出そうになって、振り返らずに早足で歩き出した。
*
伊吹が前を歩いていた。
透はその三歩後ろを歩きながら、自分の手のひらを見下ろしていた。さっき祭壇の前で伊吹の肩に置いた手だった。まだ少し震えていた。
夜中にあの部屋に人が集まってきたとき、透は自分の目を疑った。アデーレも、リコリスも、シルヴィも、白蓮も、朔も。誰一人、透が呼んだのではなかった。策を立てて、手を回して、誰かを動かしたのでもない。みんな自分の足で来たのだ。伊吹のために。
十歳のあの夜から、透はずっと一人で考えてきた。気づいたことは黙って、自分の中だけで組み立てて、誰も壊れないように動かす。誰かが自分から手を貸しに来るなんて、勘定に入れたことは一度もなかった。
「透」
伊吹が足を止めて、振り向かずに言った。
「あの人、本気で言ってたよね。婿のこと。……あんた、どうすんの」
「冗談だと思うよ」
「……冗談じゃなかったですけど」
「また敬語になってる」
「うるさいです」
伊吹の耳が赤かった。透は思わず笑った。笑ってから、自分が笑っていることに少し驚いた。昨日の夜まで、もう二度と笑えないような気がしていたのに。
「それとね」
伊吹がようやく振り向いた。目の縁がまだ少し赤かった。
「リコリスさん、帰り際に私にだけ言ってたよ。あの目が見られなくなるのは惜しいからって。……あんたの目のことだよ」
透は立ち止まった。
胸の奥が急に熱くなった。リコリスは伊吹のためだけに来たのではなかった。朔もそうだった。ご恩の最後の分です、と言った朔の目は、ずっと透を見ていた。
自分のために来てくれた人がいる。
黙って、一人で抱えて、誰にも頼らないでいれば、誰も壊れない。そう思ってきた。でも黙っていたら、きっと誰も来なかった。昨日の広間で、隠れるのをやめて自分の口で叫んだから。夜中に伊吹に全部を話したから。だから今朝、この回廊を伊吹と二人で歩いている。
喉の奥が詰まって、透は空を見上げた。回廊の柱のあいだから、朝の青い空が見えた。
「……透?」
「何でもない。ちょっと、まぶしかっただけ」
瞬きが一度だけ止まった。
伊吹はじっと透の顔を見て、それから少しだけ笑った。何も言わずに、透の隣に並んで歩き出した。
候補の館の門の前に、誰かが立っていた。
白い髭の老人だった。法衣の裾を握りしめて、何度もこちらに頭を下げている。ルーヴェの司祭だった。その隣に灰色の頭巾を下ろしたリネットが、静かに付き添っていた。
司祭は二人の前まで歩いてくると、震える両手を胸の前で組んだ。顔が真っ青だった。それでも目だけはまっすぐに透と伊吹を見ていた。
「イブキ様、トオル殿」
しわがれた声が朝の空気の中で震えた。
「お話ししなければならないことがございます。……召喚の夜から、ずっと黙っておりましたことを、すべて」




