第41話 恩返し(前編)
扉を叩く音は三度で止まった。
透が立ち上がるより先に、扉は外から押し開けられた。廊下の燭台の明かりを背にして、白い外套の神殿兵が四人並んでいる。先頭に立つ年かさの神官が手にした書付けを読み上げるように口を開いた。
「大神官様のお申しつけにより、夜明けの神前まで、ナルミイブキ殿を浄めの塔にてお預かりいたします。灯の視えぬ方を、候補の館に置いておくわけにはまいりませぬので」
浄めの塔。昼間に大広間で大神官が言った名前だった。灯の曇った者がその灯の浄まるまで籠もる場所。伊吹は椅子の背を掴んだまま、神官の顔を見た。意地の悪さは少しも見えなかった。この人は本当に、言いつけられたとおりに来ただけなのだ。それが分かって、かえって背中が冷たくなった。
「待ってください」
透が伊吹の前に半歩出た。
「夜明けまで猶予があると、大神官様は神前でおっしゃいました。それまで伊吹がこの部屋にいて、何の不都合があるんですか?」
神官は透のほうを見もしなかった。
「灯の視えぬ方のお言葉は、神前でも量れませぬゆえ」
透の肩がわずかに強張った。広間で自分も異界の者だと名乗ったときから、透の言葉はこの世界の誰にも量れなくなっている。神殿兵の一人が伊吹の腕に手を伸ばしかけて、伊吹はとっさに身を引いた。
殴り倒すのは簡単だった。この距離なら、四人とも床に転がせる。でもここで神殿兵に手を上げれば、夜明けに何を言っても無駄になる。拳を握ったまま動けずにいると、悔しさで奥歯が鳴った。
そのとき廊下の奥から音が届いた。
鎧の鳴る音だった。石の床を踏む重い足音が迷いもなくこちらへ近づいてくる。神殿兵たちが振り向いて、道を空けるように壁際へ下がった。
短く刈った金髪が燭台の光を跳ね返していた。雪の斜面で白蓮を背負って登りきった、あの銀の甲冑のままだった。アデーレは部屋の入口で足を止めると、神殿兵にも神官にも目をくれずに、まっすぐ伊吹を見た。その後ろに、従士のディートリヒが影のように控えていた。
「間に合ったな」
アデーレはそれだけ言って部屋に踏み込み、伊吹の前で片膝をついた。剣を鞘ごと抜いて床に立て、柄に右手を重ねる。手の甲の聖印がほのかに光を帯びた。
「シュタール家のアデーレ、この聖印にかけて誓う。ナルミイブキを、選定の終わりまで、いかなる手にも渡さない。手を伸ばす者があれば、我が剣が阻む」
燭台の火は一つも揺れなかった。ここは大聖堂の敷地の中で、神前だった。偽りなら声にならない。声になった誓いは世界が裁く。破ればアデーレの聖印が焼ける。
神官が書付けを持ったまま、口を開けては閉じた。
「アデーレ様、それは」
「聞こえたはずだ。選定の候補だった者に剣を向けてでも連れて来いと、大神官殿に命じられているのか」
神官はしばらく黙っていた。やがて小さく首を横に振った。言えないのだ。そこまでは命じられていないから。神殿兵たちは顔を見合わせると、神官に促されて一人ずつ廊下へ下がっていった。足音が遠ざかって、扉の向こうが静かになった。
伊吹はようやく息を吐いた。膝から力が抜けそうになって、椅子の背にすがった。それからまだ片膝をついたままのアデーレの前にしゃがみ込んだ。
「なんで、ここまでしてくれるんですか。アデーレさん、もう灯が消えてるのに。誓いまで立てて、これでもし何かあったら、アデーレさんの手が焼けるんですよ」
「巡礼路で、お前は白蓮に品を分けた」
アデーレは伊吹の言葉を遮って、ゆっくりと立ち上がった。
「自分の分が足りなくなると分かっていて、分けた。お前のお供に止められても、分けた。雪の稜線を、何の得もないのに引き返してきた。夜会では、殴れる拳を下ろした。……施療院の裏庭では、震える手を誰にも見せずに隠していた。私は全部見ていた。騎士が仕えるのは、ああいう者だ」
伊吹は何か言い返そうとして、言葉が出てこなかった。霧の尾根で、白蓮の手が冷たかったから温めた。それだけのことだった。誰かに返してもらうつもりなんて、少しもなかった。
「私、自分のことは自分で守れます。今までずっと、そうしてきたので」
「知っている。お前は一人で立てる者だ」
アデーレは剣を腰に戻して、口の端だけで少し笑った。
「だから誓った。一人で立てる者の隣に立つのが騎士だと、父が言っていた」
戸口に控えていたディートリヒがそこで静かに口を開いた。
「……お父上が立てられた誓いと、同じ言葉でございます」
アデーレは振り向かなかった。ただ甲冑の肩がほんの少しだけ下がったのが伊吹には見えた。騎士になりたくて、夜ごと一人で剣を振ってきた人の、生まれて初めての騎士の誓いだった。それを自分のために使ってくれたのだ。目の奥が熱くなって、伊吹は唇を噛んだまま深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、アデーレさん」
「礼はいらない。それより、まだ終わっていないぞ」
アデーレが顎で廊下を示した。耳を澄ますと、鎧の音とは違う足音がいくつも近づいてくる。杖の音と、軽い靴音と、それから聞き覚えのある早口の声だった。
「ちょっと、ベルント! そっちじゃないわよ、二階の一番奥! あたしが何回ここに来たと思ってるの」
扉の陰から、赤い髪がのぞいた。
リコリスだった。胸に分厚い革表紙の本を抱えて、後ろでベルントが息を切らしている。その後ろに、肩の上で小さな光を揺らしたシルヴィ。最後に朔の腕に手を添えた白蓮がゆっくりと廊下を歩いてきた。
伊吹は立ち尽くした。
見届け人の席にいるはずの人たちだった。もう誰のランタンにも火は残っていない。この選定で、伊吹のために何かをする理由は、誰にも一つもないはずだった。
「何よ、その顔」
リコリスが部屋に入るなり、扇の先で伊吹の鼻先を指した。
「幽霊でも見たみたいな顔して。言ったでしょ、閉幕まで見届け人の席で見ててあげるって。席に座ってるだけじゃ、見えないものもあるのよ」
リコリスは卓の上に、抱えてきた本をどさりと置いた。表紙に金の箔で何か書いてある。
「大聖堂の聖典の写し。商会の金で、神学院の書庫から一晩だけ借りてきたの。高かったわよ」
「……なんで」
「なんでって、あなたね」
リコリスは本を開いて、ページを乱暴にめくった。指が一か所で止まる。
「トオル、読んで。あたしが読むより、あなたが読んだほうがこの子は信じるでしょ」
透が卓の前に立って、リコリスの指の先を覗き込んだ。それからゆっくりと読み上げた。
「聖女は、この地に生きる者の中から選ばれる」
「そう。生きる者、よ」
リコリスは扇で本のページをとんと叩いた。
「あたし、あの回廊でこれを持ち出したわよね。生まれた記録のない娘が名乗ってたら、どうなるのかしらって。……ゆうべ最初から読み直してて気づいたの。どこにも、この地に生まれた者とは書いてない。生まれた記録がなくたって、今ここで生きてるなら、条文には何も引っかからない。灯守の告発は、最初から聖典の条文じゃなくて、帳面と古い記録を根っこにしてるのよ」
伊吹は聖典の文字を見つめた。読めない字だった。それなのにそこに書かれていることが胸の奥に落ちていくのが分かった。
「それに」
リコリスは扇を開いて、口元を隠した。
「あたし、施療院で一つ借りてるの。まだ返してない。借りっぱなしで消えられたら、帳面が一生合わないじゃない」
リコリスの目の縁は少しだけ赤くなっていた。その横で朔が懐から紙の束を取り出した。
「告発の書きつけの写しです。大聖堂の下働きの爺さんに頼んで、灯守の文書庫から写させてもらいました。白蓮様に麦を分けていただいたご恩の、最後の分です」
朔は紙を卓に広げて、一行を指さした。
「三つ目の証のところです。古き記録に曰く、異界より来たりし者、選定に関わりしとき、やがて災いとなる。ここだけ、墨が新しい。書いた手も違います。前の二行と後ろの一行は同じ人の字なのに、ここだけ線が硬い。あとから書き足されたものだと思います」
透が身を乗り出した。朔が指さした一行を、灯明に近づけて目を細める。
「……本当だ。慈悲の審判の病札と同じだよ。乾ききってない墨の光り方をしてる」
「でも灯守の長は、神前で誓ったんでしょ」
伊吹が言うと、透は首を横に振った。
「テオさんが神前で誓ったのは、四つ目だけなんだ。この候補の胸には灯が視えないって。それは本当のことだから声になった。でも三つ目は、巻物を読み上げただけ。文字は何も裁かない。誰かが書き足した一行を、テオさんは古い記録の言葉だと信じて読んだのかもしれない」
部屋が静かになった。シルヴィが肩の上のミルを両手で包んだ。
「……ミルが、聞いてたんです」
小さな声だった。
「この前、灯守の部屋の前を通ったときのこと、お話ししましたよね。あのとき、実はもう一つ聞いてたって、ミルが今夜になって教えてくれたの。夜遅く、灯守の人たちが帰ったあとの文書庫で、若い男の人の声がしたって。三つ目は書き足しておけばいい。誓うのは灯のことだけでいい。文字は誰も裁かないから、って」
伊吹の背中がぞくりとした。
「誰の声?」
「分からないの。ミルは顔までは見てないって。でも、灯守の人の声じゃなかったって」
シルヴィはミルを頬に寄せて、伊吹をまっすぐに見た。
「伊吹さん、わたし、ミルに盗み聞きさせるの、もうやめたの。でもこれは、ミルが自分で覚えてたことだから。……言わなきゃって思ったの。ミルがね、伊吹さんの肩、あったかかったって」
伊吹は何も言えなかった。喉の奥が詰まって、声にならなかった。
白蓮が朔の腕を離れて、一歩前に出た。閉じた目を、伊吹のほうへ向ける。
「伊吹様。夜明けの神前で、わたくしにも何か申し上げさせてくださいませ」
「白蓮さんまで」
「霧の尾根で温めていただいた手が、まだ覚えておりますので」
白蓮はふわりと微笑んだ。
伊吹は部屋の中を見回した。アデーレがいた。リコリスがいた。シルヴィが白蓮が朔がいた。みんな自分の火を失った人たちだった。それなのにこんな真夜中に、伊吹の部屋に集まっていた。
視界がにじんだ。今度はこらえきれなかった。涙が一粒、頬を伝って落ちた。
「……私、何もしてないのに」
「何もしてない人のところに、こんな夜中に誰が来るのよ」
リコリスが呆れたように言った。
「あなた、ほんと自分の帳面だけはつけられないのね」
伊吹は袖で目元を拭った。笑おうとしたのに、うまく笑えなかった。隣で透が伊吹と同じくらい驚いた顔をして、部屋の人たちを見ていた。




