第40話 心の暗闇
日が沈みきってから、透は一度も動いていなかった。
窓辺の椅子に腰かけて、膝の上で両手を組んだまま、じっと窓の外を見ている。部屋の燭台に火を入れたのは伊吹だった。透は明かりがついたことにも気づいていないようだった。伊吹は寝台の端に座って、その横顔をずっと見ていた。
この世界に来てから、透はいつも何かをしていた。祠のまわりを蝋燭を持って歩き、ボルクの手の動きを数え、天井の影を見上げ、札の数を指で折っていた。黙っているときも、頭の中で何かを数えているのが分かった。宿でも山の祠でも、夜中にふと目を覚ますと、透は窓辺で何かを考えていた。
今の透は何も数えていなかった。指の一本も動かさずに、ただ大聖堂の尖塔のほうを見ている。尖塔のてっぺんでは大灯が燃えていた。その下、市場の外れの祠の軒下にも、小さな灯りが戻っている。ほんの少し前まで、あの前の通りで人々が掴み合っていた。
夜明けまでに、この地の者であると神前に示す者がなければ。大神官の声がまだ耳に残っていた。
伊吹は胸がぎゅっと縮むのを感じた。怖かった。告発されたことよりも、浄めの塔よりも、何も考えていない透の横顔のほうがずっと怖かった。透が手を止めてしまったら、明日のことを誰が考えるのだろう。
伊吹は寝台から立ち上がって、部屋を出た。
食堂はもう火が落ちていた。厨房の奥に給仕の老人が一人だけ残っていて、伊吹の顔を見ると、朝と同じように気まずそうに目を伏せた。伊吹は頭を下げて、パンと水を少しだけ分けてもらえないかと頼んだ。老人は長いあいだ黙っていた。それから棚の奥から固くなりかけたパンを二つ出して、黙って伊吹の手に載せた。渡された水差しには温めた薬草茶が入っていた。
「……ありがとうございます」
老人は何も答えなかった。それでも伊吹が食堂を出るまで、厨房の奥からその背中を見送っていた。
部屋に戻っても、透はさっきと同じ姿勢のままだった。伊吹は卓にパンと水差しを置いて、杯に茶を注いだ。湯気が細く立ちのぼった。
「食べな」
透は振り向かなかった。
「……ごめん。今は、いい」
「いいから食べな。朝から冷めたスープしか飲んでないでしょ」
伊吹は杯を透の手に押しつけた。透は杯を受け取ったけれど、口はつけなかった。両手で包んだまま、膝の上に置いただけだった。
伊吹は透の足元の床に腰を下ろした。椅子の脚に背中を預けて、膝を抱える。透の膝が伊吹の肩のすぐ横にあった。しばらくどちらも何も言わなかった。
伊吹は右手の親指の古傷を、人差し指でなぞった。いつもの癖だった。不安になると、気づけばここをなぞっている。
「透。これ、聞いたことないでしょ」
伊吹は親指を透の目の前に上げてみせた。白く盛り上がった細い線が指の腹を斜めに横切っている。
「屋敷の窓辺で見てたよね、これ。あのとき、何も聞かなかった」
「……聞いちゃいけない気がしたから」
「じゃあ今、聞いて。私が勝手に話すから」
透がようやく伊吹のほうへ顔を向けた。伊吹は膝の上に顎を乗せた。
「中三の秋だった。湊がまだ六年生で、団地の裏の公園で、中学生三人に絡まれてたの。財布出せってやつ。湊、渡さなかったんだって。母さんの薬代のお釣りだったから」
話しながら、伊吹は自分でも驚くくらい落ち着いていた。
「一人がカッター出して、湊の顔の前で刃を出したり引っ込めたりしてた。私が着いたのはちょうどそのとき。走って、間に入って、気づいたら刃を握ってた。右手で、そのまま」
透が息を呑む音がした。
「痛かったはずなんだけど、全然覚えてないの。覚えてるのは、湊がわあわあ泣いてたことと、相手の子が真っ青になって逃げてったこと。それから、救急の看護師さん」
伊吹は少しだけ笑った。
「七針縫ったの。そのとき看護師さんが、泣きながら怒ってくれた。なんでこんな無茶するの、刃物は掴んじゃだめでしょ、あなたに何かあったら弟さんはどうするの、って。知らない人だよ。その日、初めて会った人。その人が本気で泣いてた」
声が少しだけ揺れた。伊吹は膝を抱える腕に力を込めた。
「大人に本気で怒ってもらったのって、あれくらいしか覚えてない。うちの大人は、父さんは、怒りもしないで出ていったから」
すぐ戻る。
十二の冬の病院の廊下がまた目の前に浮かんだ。消毒液の匂いと、母が運ばれていった処置室の扉。父は上着を掴んで、伊吹の頭に一度だけ手を置いた。すぐ戻る。そう言って廊下の角を曲がって、それきりだった。
「あの人、嘘ばっかりつく人だった。調子のいいことばっかり言って、母さんを笑わせて、あちこちからお金借りて。最後の嘘が、すぐ戻る。……だから私、嘘つかないって決めたの。どんなことがあっても、あの人と同じにはならないって」
伊吹は親指を握り込んだ。
「この話、誰にもしたことない。湊にも」
透は杯を握ったまま、黙って伊吹を見下ろしていた。燭台の明かりの中で、透の目の縁が少しだけ赤くなっているのが見えた。
「……なんで、今」
「あんたが黙ってるから」
伊吹は透を見上げた。
「あんたが黙ってると、こっちまで息が詰まるの。だから先に喋った。次は、あんたの番」
透は長いあいだ答えなかった。杯の茶はもう湯気を立てていなかった。
「……十歳のときだった」
やがて透がぽつりと言った。
「四年生の冬。父さんが出張だって言って、三日帰ってこなかった。その二日目に、駅前の本屋の帰りに、父さんを見たんだ。知らない女の人と一緒に、タクシーを降りるところ」
透の声は平らだった。平らにしようとしているのが伊吹には分かった。
「次の日、帰ってきた父さんに、母さんが出張どうだったって聞いた。父さんは、大阪は寒かったよって答えた。母さんはお土産のお菓子を受け取って、笑ってた」
「……うん」
「おかしいと思った。気づいたら、黙っていられなかった。俺、その頃は気づいたこと全部口に出してたから。伊吹も覚えてるでしょ。給食の数え間違いとか、黒板の字とか」
「……靴下が左右違うとか」
「うん」
透は少しだけ笑おうとして、うまく笑えなかった。
「だから言ったんだ。夕飯のときに。お父さん、昨日駅前にいたよね、大阪にいたはずなのに、って」
燭台の火が小さく揺れた。
「母さんが箸を落とした。父さんは何も言わなかった。言わなかったんじゃなくて、言えなかったんだと思う。それから半年で、離婚した」
伊吹は何も言えなかった。胸の奥がきりきりと痛んだ。
「俺が言わなければ、壊れなかった。少なくとも、あの夜は壊れなかった。だから気づいても黙ることにしたんだ。気づいたことを口にすると、何かが壊れる。黙ってれば、誰も壊れない。……母さんのほうに行けばよかったのに、父さんと暮らすって言ったのも、たぶん同じ理由。俺が壊したんだから、俺が残らなきゃいけない気がして」
昨日の帰り道で考えたことを、伊吹は思い出した。子どもたちに囲まれて笑う透の背中を見ながら、透は何かに気づいて、それを口にして、何かが壊れたのだと思った。当たっていた。当たっていたのに、少しも嬉しくなかった。喉の奥が苦しくて、伊吹は膝を抱える腕にもう一度力を込めた。
「それでね」
透は杯を卓に置いた。手が空いても、指を組んだまま動かさなかった。
「伊吹に、まだ話してないことがある。全部話す。たぶん、怒ると思う」
「聞いてから決める」
透は小さく頷いて、窓の外の暗がりに目をやった。
「召喚の夜。伊吹が部屋に戻ったあと、廊下であの人に言われたんだ。お前が、あの娘を勝たせろって」
伊吹は顔を上げた。
「名乗りの儀の日に、伊吹が床に倒れたよね。俺が司祭さんと部屋を出たとき。あとで少しずつ確かめたんだ。この館の中なら、どの部屋にいても、何時間離れてても、火は揺れもしない。大聖堂の回廊まで下りたくらいで、伊吹があんなふうになるはずがなかった。離れたせいじゃない。あれはあの人がわざと種火を引いたんだ。俺に見せるために」
伊吹は息を止めた。あの晩、床に這いつくばって見上げた、魔導師の薄い笑い。
「その夜、あの人の部屋に行ったんだ。あの人は名乗りの日に司祭さんと王都に来て、この館の廊下の奥に泊まってたから。告解の間の、前の晩。……伊吹、扉の陰で見てたでしょ」
「……見てた」
「取引したんだ。伊吹が勝ち続けるかぎり、指を上げないでほしいって。あの人は条件を出した。試練の前の晩に、俺がどうやって勝つつもりかを話しに来ること。それから、このことを伊吹には絶対に言わないこと。娘が知れば顔に出る。顔に出れば、神前で全部ばれる、って」
透は膝の上で、組んだ指に力を込めた。
「それからも、試練の前の晩は毎回あの部屋に行ってた。巡礼の前も、審判の前も、神託札の前も。俺の策は全部、あの人に先に話してある。あの人はそれを聞いて、楽しそうに笑うだけだった。……今日、あの人は指を上げた。でも約束を破ったわけじゃない。伊吹が勝ち続けるかぎり、って言っただけなんだ。資格を外されそうな今は、勝ち続けてることにならない。あの人は一つも嘘をついてない。最初から、ずっとそうだった」
透は一度だけ目を閉じた。
「それから、大神官様に呼ばれた夜のこと。大神官様には伊吹の胸の黒い火が視えてる。灯守の人たちが告発の書きつけを作ってることも、あの夜に聞いた。明日か明後日にはそうなるって。……リコリスさんが生まれを調べてることも、施療院の門の前で朔くんから先に聞いてた。全部、知ってた。知ってて、一人で何とかしようとして、何ともならなかった」
透の声がそこで途切れた。伊吹は膝を抱えたまま、しばらく床の木目を見ていた。
腹は立った。立たないわけがなかった。召喚の夜から、ずっとだ。試練の前の晩、透が「少し出てくる」と言って部屋を出ていくたびに、あの男の前で伊吹の勝ち方を話していたのだ。伊吹が何も知らずに寝ているあいだに。
それなのに怒鳴る気にはなれなかった。さっき聞いたばかりの、母親が箸を落とす音が、まだ耳の中に残っていた。
「透」
「うん」
「黙ってたのは、私を守るため? それとも、言ったら壊れると思ったから?」
透はすぐには答えなかった。それからゆっくりと言った。
「……両方。たぶん、後のほうが大きい」
瞬きは止まらなかった。
伊吹は立ち上がった。椅子に座ったままの透の前に立って、真上から見下ろした。
「壊れないよ」
声が思ったより大きく出た。
「あんたが何を言ったって、壊れない。十歳のあんたが言ったことで家が壊れたのは、あんたのせいじゃない。嘘ついてたのはお父さんでしょ。あんたは本当のことに気づいて、それを言っただけじゃない」
「でも、言わなければ」
「言わなかったら、お母さんはずっと騙されてたんだよ!」
伊吹は透の両肩を掴んだ。
「お土産のお菓子もらって、笑って、それが嘘だって知らないまま、何年も。そっちのほうがよかったなんて、私は絶対に思わない。……うちの母さんだって、すぐ戻るって言われて、何日も待ってたんだよ。病院のベッドで、ずっと廊下のほう見て」
喉の奥が熱くなった。伊吹は奥歯を噛んで、こみ上げてくるものを押し戻した。
「それに、今、全部聞いたよ。召喚の夜のことも、あいつの部屋のことも、大神官さんのことも、全部。……ほら。私、壊れてないでしょ」
透は伊吹を見上げていた。何か言おうとして、唇が震えていた。
伊吹は透の肩から手を離して、もう一度床に座り込んだ。今度は透の正面に、膝と膝が触れそうな近さで。
「……私も、一個黙ってた」
透がほんの少しだけ目を見開いた。
「巡礼の山道で、言いかけてやめたやつ。門の前でも、嘘がつけないって」
伊吹は自分の胸に手を当てた。
「つかないんじゃないの。つけないの。この世界に来てから、嘘を言いかけると、ここが焼けるの。告解の間で、いいえって言いかけたときが最初だった。ネネの痣に薬塗ってて、大丈夫痛くないよって言いかけたときも。リコリスさんの関所で、寒いだけですって言ったときも。……ずっと黙ってた。心配されたくなかったし、弱いって思われたくなかったから」
「知ってた」
透が小さく言った。
「施療院の門の前で、白蓮さんから聞いたんだ。蓮州の古い言い伝え。黒い火は、宿った人の嘘を喰って育つ。嘘を言いかけるたびに、胸を内側から焼くって」
伊吹は透の顔を見た。
「……あのとき、それだけだよって言ったやつ」
「うん。伊吹が自分から言わないことを、俺が先に言っちゃいけない気がして」
しばらくどちらも何も言わなかった。
それから伊吹はふっと息を吐いた。笑う場面ではないのに、少しだけ笑いそうになった。
「なにそれ。二人して、黙ってたんだ」
「……そうだね」
「おあいこじゃん」
透が初めて、少しだけ笑った。泣きそうな顔のまま笑っていた。
伊吹は膝を抱え直して、透の顔を見上げた。燭台の火が二人の顔のあいだで、まっすぐに立っていた。
「ねえ、透」
「うん」
「……十歳で、それに気づいたんでしょ。よく気づいたね」
透は何も返さなかった。
返せなかったのだと、伊吹には分かった。透は唇を引き結んで、膝の上の手を強く握りしめていた。肩が小さく震えていた。燭台の明かりの中で、透の目から涙が一粒、握った手の甲に落ちた。
伊吹は見ないふりをして、窓の外に目をやった。小学生のとき、ジャングルジムのてっぺんで泣いていた透を思い出した。あのときは下から手を伸ばしてやった。今は伸ばさなかった。伸ばさなくても、透がちゃんと自分で下りてこられることを、伊吹はもう知っていた。
しばらくして透が鼻をすする音がした。
「……ごめん」
「謝るとこじゃないでしょ」
「うん」
透は袖で目元を拭って、卓の上のパンに手を伸ばした。固くなりかけたパンをちぎって、口に入れる。伊吹もパンを取った。二人で黙ってパンを食べた。薬草茶はすっかり冷めていたけれど、喉を通るとほんのりと甘かった。
「湊はね」
パンを半分ほど食べたところで、伊吹はぽつりと言った。
「大学に行かせたいの。あの子、頭いいから。私と違って勉強好きだし。でも、うちじゃたぶん無理。母さんの薬代だけで精一杯だもん。私は高校出たら、すぐ働く。進学なんて、最初から私には縁がないし」
言いながら、帳面のことを思い出した。残りの金貨の数と、その横に円に直して書いた数字。持って帰る方法のない金貨だった。
「縁がない、ってことはないと思う」
透が言った。
「給付型の奨学金っていうのがあるんだ。返さなくていいやつ。伊吹の家くらいの収入なら、たぶん一番手厚い区分に入る。それと、授業料の減免。条件を満たせば、国立でも私立でも授業料がほとんどかからなくなる。湊くんだけじゃなくて、伊吹も使えるよ」
「……え」
「お母さん、四十歳は過ぎてる? だったら病気によっては、介護保険でヘルパーさんを頼めるかもしれない。通院の付き添いとか、朝の着替えの手伝いとか。区役所に相談すれば、伊吹が毎朝やってることを、少しは誰かに任せられる」
伊吹はパンを持ったまま、透の顔をまじまじと見た。
「……なんで、そんなこと知ってんの」
「父親が、そういう仕事だから」
透は少しだけ目を伏せた。父さん、とは言わなかった。
「って言っても、父親の仕事は会社の契約とか、そういうのばっかりなんだけどね。家の書斎に法律とか制度の本が山ほどあって、分からないことがあったら自分で調べる癖がついただけ」
それから少し照れくさそうに付け足した。
「……それに、中学のとき、こういうのを片っ端から調べたことがあって。伊吹の家、大丈夫かなって。会いに行く勇気はなかったくせにね」
瞬きは止まらなかった。
顔が熱くなって、伊吹はパンを口に押し込んだ。何か言い返そうとして、うまく言葉が出てこなかった。胸の奥がじんわりと温かくて、それはなぜか、泣きたいときの感じに少しだけ似ていた。
「……帰ったら、全部教えて。区役所とか、そういうの。私、そういうの全然分かんないから」
「うん」
「帰ったら、だからね」
言ってから、伊吹は自分の言葉に気づいた。夜明けまで、もう何時間も残っていない。その先に帰り道があるのかどうかも分からない。それでも声はまっすぐに出た。胸は少しも焼けなかった。伊吹は本気で、帰るつもりでいるのだ。
透がゆっくりと顔を上げた。
さっきまで窓の外を見ているだけだった透が、伊吹を見ていた。それから卓の上の燭台を見て、扉を見て、窓の外の大聖堂を見た。一つずつ順番に確かめるように。伊吹のよく知っている見方だった。
透は懐から、赤いボールペンを取り出した。元の世界から持ってきた、透のペンだった。
「夜明けまで、あと七時間くらいかな」
透は卓の上の紙を引き寄せた。伊吹が毎晩つけている帳面の、何も書いていない裏だった。
「この地の者であると、神前に示す者がなければ。……大神官様はそう言ったんだ。示す者、って。伊吹が自分で示せとは、一言も言わなかった」
ペン先が紙の上を走り始めた。少しずつ透がいつもの顔に戻っていく。
伊吹はその横顔を見て、長く息を吐いた。肩からすっと力が抜けた。透がまた考え始めた。それだけで、夜明けが少しだけ遠くなった気がした。
透が三枚目の紙を裏返したころだった。
遠くで真夜中を告げる大聖堂の鐘が鳴り終えた。その余韻が消えないうちに、館の階下で重い扉の開く音がした。いくつもの足音が石の階段を上ってくる。揃った、硬い足音だった。鎧の擦れる音が混じっていた。
透がペンを止めた。伊吹は立ち上がって、扉のほうを向いた。心臓の音が急にうるさくなった。
足音は廊下を進んで、この部屋の前でぴたりと止まった。
扉が叩かれた。固く、三度。
「ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿」
扉の向こうで、低い声がした。
「大神官様の命により、お迎えに上がりました。夜明けまで、浄めの塔にてお預かりいたします」




