第39話 告発
「大聖堂より、王都の民に告げる」
布告官の声が広場の隅々まで響いた。
「本日これより、大聖堂の大広間にて、神前の申し立てを執り行う。申し立ての中身は、選定の候補にかかわるものである。候補はすべて大広間へ。民は扉の外より見届けるべし」
広場がどよめいた。人々が一斉に大聖堂の扉のほうへ押し寄せていく。伊吹は神官たちに促されて、ほかの候補と一緒に階段を上った。透がすぐ後ろについてきた。
大広間は名乗りの儀の日と同じだった。正面の祭壇で大灯が燃え、その前に石の水瓶が置かれている。燭台の火はどれもまっすぐに立っていた。神前だった。ただ一つ違うのは観覧席が誰もいないことだった。代わりに開け放たれた正面の扉の向こうに、王都の人々が隙間なくひしめいていた。
祭壇の前に、灯守の神官たちが並んでいた。その中央に、背の高い痩せた神官が一人、巻物を手に立っていた。後ろの一段高いところに、大神官が座っている。大神官は膝の上で手を組んで、静かに目を閉じていた。
控えの列の端に、ルーヴェの司祭の姿があった。司祭は真っ青になって、胸の聖印を握りしめていた。
「灯守の長、テオにございます」
痩せた神官が名乗った。
「灯守の務めは、大聖堂の大灯と、選定の聖灯を守ること。そのために、我ら灯守は人の灯をおぼろげに視る目を、修練によって授かっております。大神官様には遠く及びませぬが」
テオは巻物を広げた。
「灯守一同、神前に申し立てまする。ルーヴェの候補、ナルミイブキは、この地の者ではない」
扉の外が大きくどよめいた。
伊吹の背中が冷たくなった。広場の人々の声が次々に聞こえてくる。嘘だろ。この世界の者じゃないって何だ。あの荒くれ候補が。
「その証を申し上げまする」
テオは巻物の文字を一行ずつ読み上げた。
「一つ。名乗りの儀にて、この候補が水瓶に手を浸したとき、祭壇の大灯より移った聖灯は一つのみ。かような候補は、大聖堂の記録に一人もおらぬ。二つ。ルーヴェのいずこの教会の帳面にも、この候補の生まれた記録はない。三つ。古き記録に曰く、異界より来たりし者、選定に関わりしとき、やがて災いとなる」
テオは巻物を下ろして、右手を胸に当てた。
「そして四つ目。これは灯守の長、テオが神前に誓いまする」
大広間が静まり返った。扉の外の人々も、息を呑んで黙った。
「この候補の胸には、灯が視えない」
声は一音も途切れなかった。
伊吹は動けなかった。膝が震えそうになるのを、拳を握って必死にこらえた。テオの言葉は神前で、まっすぐに声になった。誰も疑えない。この世界の人間は神前で嘘をつけないのだから。
「神前の作法に従い、申し立てられた候補に、ただ一つの問いを向けまする」
テオが伊吹のほうへ向き直った。
「ルーヴェの候補、ナルミイブキ。あなたは、この世界の者か」
伊吹は口を開いた。
はい、と言えば終わる。言えば声にはなる。伊吹の口からは嘘でも声が出る。けれど言いかけた瞬間に、胸の奥が焼けるのが分かっていた。この場で顔をしかめて胸を押さえれば、それで全部ばれる。それに、何より。
伊吹は嘘をつきたくなかった。
十二の冬に決めたことだった。父さんみたいにはならない。どんなに追い詰められても、自分の口からだけは嘘を出さない。ここで、この世界の何百人という人の前で、その一つを捨てたら。
伊吹は口を閉じた。
沈黙は罪にあらず。神は一度口を閉ざした心を、重ねて暴かせはなさらない。告解の間で、神官はそう言っていた。けれどこの場の誰もが伊吹の沈黙を、答えとして受け取ったのが分かった。
扉の外で、誰かが叫んだ。
「黙ったぞ!」
「答えられないんだ。本当に、この世界の者じゃないんだ」
「災いだって、古い記録に書いてあるんだろ」
声が次々に重なっていった。伊吹は拳を握りしめて、正面の大灯だけを見ていた。振り返れなかった。広場のどこかに、ネネがいるかもしれなかった。チッチがいるかもしれなかった。
「候補の沈黙を、神前に記しまする」
テオが巻物に何かを書きつけた。それから大神官のほうを振り返った。大神官はゆっくりと目を開けて、穏やかな声で言った。
「……申し立ては、神前にて聞き届けられたようです」
大神官は伊吹を見た。皺の奥の目がまっすぐに伊吹の胸のあたりを見ていた。
「古い定めに従えば、申し立てを受けた候補には、反証の機会が与えられるのでしょう。次の夜明けまでに、この候補がこの地の者であると神前に示す者がなければ、候補の資格は解かれることになるかと存じます」
資格を解かれる。伊吹の頭の中で、その言葉がゆっくりと形になった。選定から外される。聖女になれなければ、湊のところへ帰る道もなくなる。それより先に、胸の火が。
「資格を解かれた灯なき者は、神殿の定めにより、浄めの塔にてお預かりすることになりましょう」
大神官は大広間の奥の、窓のない壁のほうへ目をやった。
「大聖堂の裏手に建つ、古い塔でございます。灯の曇った者が、その灯の浄まるまで籠もる場所……と申せば、お分かりいただけるかと。もっとも、灯のない方の灯が浄まる日が来るのかどうかは、私にも分かりかねますが」
扉の外の人々がざわりと揺れた。伊吹にはそれが牢屋と同じ意味に聞こえた。浄まる日が来ないなら、出られる日も来ない。
「……異論のある方は」
大神官がそう言いかけたときだった。伊吹の隣で、誰かが一歩前に出た。
透だった。
伊吹は透を見上げた。透は伊吹の前に出て、祭壇の前に並ぶ灯守たちと、その奥の大神官と、開け放たれた扉の向こうの王都の人々とを、順番に見渡した。いつもの穏やかさはどこにもなかった。伊吹が一度も見たことのない透だった。
「異論があります」
透の声が大広間に響いた。
「ルーヴェのお供が、何を」
テオが眉を寄せた。透はテオを見なかった。まっすぐに、扉の外の人々のほうを見ていた。
「灯守の方々の申し立ては、本当です。伊吹はこの世界で生まれた人間じゃない。ルーヴェのどの帳面にも名前がないのは、当たり前です。伊吹はこの大陸のどこでもない、ずっと遠いところで生まれたんだから」
扉の外が大きくどよめいた。伊吹は息を止めた。
透は何を言っているのだろう。そんなことを言えば、申し立てを自分から認めることになる。伊吹を守るどころか、伊吹の首に縄をかけることになる。
「透、やめ――」
「でも」
透は伊吹の言葉を遮った。振り返らなかった。
「でも、それを伊吹一人のせいにするのは、違う」
透の声が震えていた。怒りで震えていた。伊吹は透の声がこんなふうに震えるのを、初めて聞いた。
「俺もです。俺も、この世界の人間じゃない。俺たちは、呼ばれてここに来たんです。自分で来たんじゃない。ある夜いきなり、知らない光に呑まれて、気づいたらこの世界の石の床に転がってた。伊吹は弟を夜道に残してきた。病気の母親を残してきた。帰りたくて、帰りたくて、それでも、この世界で困ってる子どもを見たら放っておけなくて、手を伸ばしてきたんです」
透は胸に手を当てた。神前だった。透の声は一音も途切れなかった。
「灯が視えないのは、俺も同じです。灯守の方々、俺の胸を視てください。何も視えないはずです。災いだって言うなら、伊吹一人じゃない。俺も、災いだ」
大広間が静まり返った。
透は息を吸った。それから王都の人々に向かって、腹の底から声を張った。
「伊吹一人に、背負わせるな。召喚されたのは、俺たち二人だ!」
声が大聖堂の天井まで響いて、それから扉の外へ抜けていった。
誰も何も言わなかった。広場を埋めた何百人という人々が一人残らず黙っていた。
伊吹は透の背中を見ていた。
いつも伊吹の後ろに立っていた背中だった。伊吹が前に出て、透は後ろで全部を読んで、伊吹には何も言わずに、一人で何かを抱えていた。その透が今、伊吹の前に立っていた。何百人の前で、自分も異界の人間だと、自分も災いだと、隠れるのをやめて、自分の口で言っていた。
小学二年のとき、いじめっ子の前に飛び出して両手を広げたのは、伊吹のほうだった。今は逆だった。
視界がにじんだ。伊吹は唇を噛んで、それをこらえた。泣くのはここじゃない。
大神官が長いあいだ透を見ていた。それからゆっくりと口を開いた。
「……灯の視えぬ方の言葉が、神前を通るのかどうか、私には測りかねますが。けれど、今の言葉は、確かに声になったようです」
大神官は少しだけ首を傾げた。
「申し立ては、お二人に向けたものとして聞き届けるべきかもしれませぬな。……夜明けまでの猶予は、変わらぬものと存じます。この地の者であると神前に示す者が現れなければ、お二人とも」
大神官はそれ以上言わなかった。
布告官が申し立ての終わりを告げた。扉の外の人々がざわめきながら散っていった。伊吹は透の袖を掴んだまま、しばらく動けなかった。今になって足が震えて、力が入らなかった。
見届け人の席で、リコリスが扇を閉じて、透をじっと見ていた。その隣で、白蓮が閉じた目を伊吹のほうへ向けていた。アデーレが腕を組んで、唇を引き結んでいた。
*
部屋に戻ったのは日が傾き始めたころだった。
二人とも何も言わなかった。透は窓辺の椅子に座り、伊吹は寝台の端に座った。広間で透が叫んだ言葉がまだ耳の奥に残っていた。ありがとうと言いたかった。けれど口を開いたら、こらえていたものが全部こぼれてしまいそうで、伊吹は唇を噛んだまま、静かに揺れるランタンの火を見ていた。
扉が叩かれもせずに開いたのは日が沈む少し前だった。黒い外套の男が音もなく部屋に入ってきた。
伊吹は寝台から立ち上がった。透が窓辺の椅子から立ち上がって、伊吹の前に出た。魔導師は二人を見比べて、薄く笑った。
「たいそうな見世物でございましたな」
穏やかな声だった。
「召喚されたのは、俺たち二人。……若者の口から、あのような言葉が聞けるとは。けれど、召喚した者の名だけは、口にしなかった。賢明なことです」
「何しに来たんですか」
透の声は低かった。
「夜明けまでに、あの申し立てを覆していただかねばなりませぬ。その娘が資格を解かれれば、私の望みも潰えますゆえ。……ですから、少しばかり、思い出していただこうかと」
魔導師が右手の指を一本、ゆっくりと持ち上げた。伊吹の胸の奥で、何かが爆ぜた。
召喚の夜と同じだった。凍えるように冷たいのに、内側から焼かれている。息ができなかった。伊吹は胸を押さえて、床に膝をついた。卓の上のランタンの火がぐらりと傾いて、細く縮んでいく。
「やめろ!」
透が魔導師に掴みかかろうとした。魔導師は指を上げたまま、一歩も動かなかった。
「よろしいのですか。私が倒れれば、種火はその場であふれますよ」
透の手が魔導師の外套の寸前で止まった。そのとき窓の外で何かが割れる音がした。
伊吹は床に手をついたまま、窓のほうへ顔を向けた。王都の市場のほうで、誰かが叫んでいた。一人ではなかった。何人もの怒鳴り声が重なって、夕暮れの空に響いていた。
透が窓に駆け寄った。伊吹も這うようにして、窓枠にすがった。
市場の外れに、小さな祠の屋根が見えた。ネネが案内してくれた祠だった。いつもなら日が沈むと灯明が灯るはずの軒下が、真っ暗だった。その前の通りで、人々が掴み合っていた。誰かが誰かを突き飛ばし、屋台がひっくり返り、商人らしい男が何かを喚いている。
「種火が少し揺れただけで、近くの祠の火はああなります」
魔導師は窓の外を眺めながら、穏やかに言った。
「祠の火が消えれば、神前も消える。神前が消えれば、誰でも嘘がつける。嘘がつければ、人は争う。……あふれれば、王都じゅうがああなりましょう。四十万の人々が」
魔導師はゆっくりと指を下ろした。
伊吹の胸から、痛みが引いていった。ランタンの火が元の大きさに戻った。窓の外の祠の軒下に、ぽっと小さな灯りがともった。祠守のおばあさんが震える手で灯明に火を入れ直したのだろう。通りの怒鳴り声が少しずつ静まっていった。
伊吹は床に座り込んで、肩で息をした。額から汗が落ちた。
「夜明けまで、あと半日」
魔導師は外套の裾を翻して、扉のほうへ歩いていった。
「お二人の知恵と、運に期待しておりますよ」
扉が閉まった。
部屋に、二人きりになった。透は窓辺に立ったまま、動かなかった。
伊吹は透の背中を見上げた。広間であんなに大きく見えた背中だった。その透が今は窓枠を握りしめて、小さく震えていた。胸がぎゅっと締めつけられた。怖いのは自分だけではなかったのだと、伊吹はそのとき初めて気づいた。
窓の外では日が沈みきろうとしていた。大聖堂の尖塔のてっぺんで、大灯だけが変わらずに燃えていた。
夜明けまで、あと半日だった。




