第38話 すれ違い
透が戻ってきたのはランタンの火が一度、小さく揺れて、また元に戻ったあとだった。
伊吹は寝台の上で毛布をかぶったまま、扉の開く音を聞いていた。透は足音を殺して部屋に入ってきて、しばらく窓辺に立っていた。それから伊吹の寝台のほうを振り返る気配がした。
「伊吹。起きてる?」
伊吹は答えなかった。起きていた。透もたぶん、それを分かっていた。
「大神官様と、少し話してきただけ。選定のしきたりのこと。大したことじゃないよ」
伊吹は毛布の隙間から、透の顔を見た。窓から差し込む月明かりの中で、透はいつもの穏やかな顔をしていた。
瞬きが一度だけ止まった。
分かっていたのに、喉の奥がぎゅっと詰まった。伊吹は何も言わなかった。もう聞かないと言ったのは自分だった。聞いても、答えてもらえない。答えてもらえないと分かっていて聞くのは、もっと嫌だった。伊吹は毛布を頭までかぶり直して、透に背中を向けた。
透はそれ以上、何も言わなかった。
*
翌朝、食堂に下りると、伊吹たちの席には何も置かれていなかった。
ほかの席にはいつもどおり、焼きたてのパンと豆のスープが並んでいる。給仕の老人は伊吹と目が合うと、気まずそうに顔を伏せて、厨房の奥へ引っ込んでいった。しばらく待って、ようやく運ばれてきたのは、冷めたスープの椀が二つだけだった。
「……昨日まで、パンあったよね」
「うん」
透はそれだけ言って、冷めたスープを黙って飲んだ。伊吹も匙を口に運んだけれど、味がしなかった。何も悪いことはしていない。それなのに恥ずかしくて、食堂の誰とも目を合わせられなかった。
変わったのは朝食だけではなかった。廊下ですれ違う神官たちが伊吹たちを避けるように壁際に寄った。部屋の掃除に来ていた見習いの修道女は、今日は来なかった。中庭を通ると、噴水の縁に腰かけていた神官たちが、伊吹たちの姿を見るなり、ひそひそと何かを囁き合って立ち去った。
大神官に呼ばれた夜から、何かが変わったのだ。透はたぶん、その理由を知っている。伊吹は透の横顔を見て、それから目を逸らした。聞けば済むことを聞けないのが思っていたよりずっと苦しかった。
昼前、伊吹は部屋の卓に一枚の紙を広げた。
王都に来てから、毎晩つけている帳面だった。この世界の字は書けないから、日本の字で書いている。宿代、パン代、服代、ネネに買った丸パン。残りの金貨と銀貨と銅貨。その横に、円に直した数字を小さく書き込む。母の家計簿を、小学生のころから手伝ってきた。数字を書いていると、少しだけ落ち着いた。
ペンを持つ手がそこで止まった。
母さんの薬はあと四日分しかない。召喚された夜、礼拝堂の石段でそう思ったのを覚えている。あれから、もうひと月近くたった。
湊はちゃんと薬をもらいに行けただろうか。通院の日に、母さんに付き添えただろうか。あの子はまだ中学生だ。病院の受付で、お金の話を一人でできるだろうか。朝、母さんの指が開かないとき、湊は代わりに弁当を作っているのだろうか。
伊吹は紙の上の数字を見下ろしたまま、動けなかった。喉の奥が熱くなって、書いたばかりの数字が少しにじんだ。
金貨はまだ何枚も残っている。日本に持って帰れたら、母さんの薬代も、湊の制服代も、全部払える。それなのにその金貨を持って帰る方法がどこにもない。
「伊吹」
窓辺で本を読んでいた透が顔を上げた。
「何」
「今日、ネネのところに行かない? ずっと顔を出してなかったから」
伊吹は少しだけ迷ってから、紙を畳んで懐にしまった。
「……行く」
透がネネの名前を出したのはたぶん伊吹のためだった。それが分かったから、余計に何も言えなかった。
*
貧民街までの道を、二人は並んで歩いた。
どちらも口をきかなかった。それでも透は伊吹より先に行くことも、後ろに下がることもしなかった。伊吹も、歩く速さを変えなかった。市場の喧騒の中を、いつもと同じ肩が触れそうな距離のまま、二人は黙って歩いた。少し離れて歩こうと思えば、いくらでもできたはずだった。どちらも、そうしなかった。
大通りの角で、読売の売り子が声を張り上げていた。
「さあさあ、今日の読売だよ! ルーヴェの候補、その生まれ定かならず! 神託札三位の荒くれ候補、どこの町の出か誰も知らない!」
伊吹の足が止まりかけた。透が半歩前に出て、伊吹と売り子のあいだに入った。何も言わなかった。ただ伊吹の視界から売り子を隠すように立って、そのまま歩き続けた。
伊吹はそれを見ていた。昨夜は背中を向けたのに、透は今朝も当たり前のように前に立つ。それがありがたくて、ありがたいと思ってしまう自分が悔しかった。何も言えないまま、伊吹は透の半歩後ろを歩いた。
貧民街の空き地に着くと、子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん!」
ネネが真っ先に飛びついてきた。伊吹はネネを受け止めて、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
「元気だった? 手首、もう焼けてない?」
「焼けてないよ! ボルクさん、牢屋から出てきたけど、ネネのこと一回も蹴ってないの。誓ったから」
「そう。よかった」
自分の声が急に柔らかくなったのが分かった。さっきまで透の隣で、一言も出てこなかったのに。湊に話しかけるときと同じ声だった。伊吹は少しだけ驚いて、それから少しだけ笑った。
子どもたちは伊吹と透を取り囲んで、口々に神託札のことを聞きたがった。三位だったんでしょ。札の勝負だったんでしょ。どうやって勝ったの。
透は空き地の真ん中で、札の勝負の話を始めた。嘘を書いてもいい手紙ゲームだよ、と言うと、子どもたちは目を輝かせた。透は木の枝で地面に札の絵を描いて、紋と数を教えていく。いつもの透だった。子どもたちの前では少しも黙っていなかった。
ネネが伊吹の袖を引いた。
「お姉ちゃん。お兄ちゃんと、喧嘩してるの?」
伊吹は息を呑んだ。
「……なんで、そう思うの」
「だって、二人とも、いつもみたいにしゃべってないもん。お兄ちゃん、いつもならお姉ちゃんのほう、何回も見るのに。今日は一回も見てない」
伊吹は地面に札の絵を描いている透の背中を見た。透は子どもたちに囲まれて笑っていた。一度も、こちらを振り返らなかった。
「……喧嘩、なのかな」
伊吹は正直に言った。
「よく分かんない。怒ってるのか、怒ってないのかも、自分でよく分かんないの」
ネネは不思議そうに首を傾げてから、伊吹の手をぎゅっと握った。
「仲直り、したほうがいいよ。ネネ、お母さんと喧嘩したまま、仲直りできなかったから」
鼻の奥がつんと痛んだ。伊吹は何も言えなかった。ネネの手を握り返すことしかできなかった。
空き地の隅に、背の高い男の子が立っていた。チッチだった。いつものように腕を組んで、輪の外からこちらを見ていた。目が合うと、チッチは少しだけ迷うように視線を落として、それから、初めて自分から伊吹のほうへ歩いてきた。
「……あんた」
低い声だった。伊吹は少し驚いて、チッチを見上げた。伊吹とほとんど背が変わらない。ネネより四つか五つ上だろうか。
「口入れ屋の旦那たちが、話してた。ルーヴェの候補はこの世界の者じゃないって、大聖堂の灯守が言い出してるって。賭け札の倍率が、明日には引っくり返るって」
伊吹の背中が冷えた。
「それ、いつ聞いたの」
「今朝。旦那たちは、あんたが落ちるほうに賭け直してた」
チッチはそれだけ言うと、ふいっと顔を背けた。それでも立ち去らなかった。
「……妹の手首に薬を塗ってくれた礼。それだけだ」
チッチは踵を返して、空き地の外へ歩いていった。伊吹はその背中を見送った。お礼を言う暇もなかった。
*
日が傾きかけたころ、二人は候補の館へ戻る道を歩いていた。
やはり、どちらも口をきかなかった。けれど朝とは少しだけ違った。伊吹は透の横顔を、何度か盗み見ていた。
子どもたちの前の透は昔の透だった。地面に絵を描いて、気づいたことを全部しゃべって、子どもたちが分かるまで何度でも説明して。小学生のころの透はいつもそうだった。黒板の字の書き間違いも、給食の献立の数え間違いも、伊吹の靴下が左右で違うことも、気づいたことは全部、その場で口に出していた。うるさいくらいに。
いつから、あんなふうに黙るようになったのだろう。
伊吹は記憶をたどった。四年生の冬だった。透の両親が離婚したと、団地の大人たちが噂していた。それから少しして、透は気づいたことを口にしなくなった。給食の数え間違いにも、伊吹の靴下にも、何も言わなくなった。伊吹はそれを、ただ大人しくなったのだと思っていた。泣き虫が少しだけ大人になったのだと。
そうではなかったのかもしれない。
透は何かに気づいて、それを口にして、何かが壊れたのだ。だからそれ以来、気づいても黙るようになった。伊吹は今になって、ようやくそう思った。確かめたわけではない。透は一度も、その話をしたことがなかった。
隣を歩く透はいつもどおり穏やかだった。
伊吹は口を開きかけて、閉じた。もう聞かないと言ったのは自分だった。それでも聞きたいことが一つ増えてしまった。大神官と何を話したのかより、ずっと前のことを。
候補の館の門の前で、透がふと足を止めた。
「伊吹」
「……何」
「今日、来てくれてありがとう。ネネ、すごく嬉しそうだった」
瞬きは止まらなかった。
本当なのだ、と思った。それだけで胸の奥が少しだけほどけて、ほどけたことに伊吹は自分で戸惑った。何か言い返そうとして、うまく言葉が出てこなかった。代わりに、小さく頷いた。それだけで、二人は門をくぐった。
部屋に戻ると、卓の上に一通の書状が置かれていた。
蝋で封をしてあった。封には大聖堂の紋が押されている。透が封を切って、中の紙を読んだ。透の顔は動かなかった。それでも紙を持つ指先に、ほんの少しだけ力がこもっていた。透が緊張している。伊吹にはそれが分かって、胸がざわついた。
「何て書いてあるの」
「明日の朝、二の鐘のころ、候補はすべて大聖堂の前の広場に集まるようにって」
「試練?」
「書いてない。布告がある、とだけ」
透は書状を畳んで、窓の外を見た。大聖堂の尖塔のてっぺんで、大灯が夕日を受けて燃えていた。
*
翌朝、大聖堂の前の広場は人で埋め尽くされていた。
名乗りの儀の日よりも、多いくらいだった。屋台も楽隊もいない。ただ人々が押し合いながら、大聖堂の正面の階段を見上げていた。賭け札の板の前にも人だかりができていて、誰かが板のルーヴェの枠を指さして、大声で何かを言っていた。
候補たちは階段の下に一列に並ばされた。セレスティア、イングリット、ノラ、伊吹。見届け人の席にはアデーレと白蓮と、リコリスとシルヴィの姿があった。リコリスは扇で口元を隠したまま、伊吹のほうをじっと見ていた。
大聖堂の扉が開いた。
白い法衣の男が巻物を手に階段の上に現れた。布告官だった。その後ろに、灯守の神官たちが並んでいる。一番奥に、大神官が静かに立っていた。
布告官が巻物を広げた。広場がしんと静まり返った。
伊吹は手首の水色の紐を握った。手のひらが汗で湿っていた。怖い、と初めてはっきり思った。隣で透が小さく息を吸うのが聞こえた。




