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負けたら王都が沈むので、嘘の通じない聖女選定を嘘つき幼馴染と頭脳戦で勝ち抜く  作者: 宵星 凪


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第37話 神前の問答

 大聖堂の奥の礼拝堂には窓が一つもなかった。


 四方の壁に燭台が並び、どの火もまっすぐに立ったまま揺れていない。この部屋は大聖堂のどこよりも古く、どこよりも深い神前だった。歴代の大神官が一人で祈りを捧げてきた部屋で、今では大神官その人と、灯守の長しか足を踏み入れない。


 大神官は祭壇の前の椅子に腰かけて、膝の上の革の帳面を開いていた。


 皺だらけの指で頁をめくる。名乗りの儀の日から、候補たちのことを一人ずつ書き留めてきた帳面だった。告解の間、ルーヴェの候補、手番三で沈黙。関所の巡礼、四位。慈悲の審判、二位。神託札、三位。どの頁にも、同じ一行が書き添えてあった。


 灯、視えず。


 卓の脇にはもう一つ、紙の束が置かれていた。灯守たちが三晩かけて書き上げた書きつけだった。古い記録の写しと、名乗りの儀の日の証言と、ルーヴェの教会の帳面についての問い合わせの返事。一番上の紙には灯守の長の手で、一行だけ書かれていた。


 ルーヴェの候補はこの地の者にあらず。


 大神官はその一行を、しばらく黙って見下ろしていた。扉が叩かれたのはそのときだった。


「ルーヴェのお供、トオル殿をお連れいたしました」


「お通しくださいませ」


 扉が開いて、灰色の肩布の若者が一人で入ってきた。案内の神官が扉を閉めて去っていく。礼拝堂には大神官と若者の二人きりになった。


 大神官は顔を上げて、若者を見た。何も視えなかった。


 この目は生まれたときから、人の胸に灯る火を視てきた。どれほど小さな子どもにも、どれほど年老いた病人にも、胸の奥には必ず火が一つ灯っている。大きさも色も揺れ方も、一人として同じ者はいない。それが人というものだった。


 この若者にはそれがない。


 名乗りの儀の日に初めて見たときから、ずっとそうだった。目の前に立っているのに、その胸のあたりだけが、暗い水を覗き込んだように何もない。七十年近く生きてきて、こういう者を見たのは初めてだった。


「夜分に、お呼び立てをしてしまったようで」


 大神官は穏やかに言った。


「どうぞ、お掛けくださいませ。長い話にはならぬかと存じますが」


「ありがとうございます」


 若者は勧められた椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いている。所作に乱れはない。けれど大神官には若者が礼拝堂の燭台の火を、入ってきてから一つずつ確かめているのが分かった。どの火も揺れていないことを、確かめているのだ。ここが神前であることを。


「この部屋は、大聖堂で一番古い神前と伝えられております」


 大神官は言った。


「ここでは、どなたも偽りを口にできぬものと聞いております。私も、そのようにして七十年近くを過ごしてまいったように思います」


 大神官は帳面を閉じて、若者をまっすぐに見た。


「あなたには、灯が視えませぬな」


 若者は何も言わなかった。表情も動かなかった。ただ膝の上で、ほんのわずかに指を折ったように見えた。身構えたのだろう、と大神官は思った。


「私の目は、人の胸の灯を視るようです。名乗りの儀の日から、あなたと、あなたの候補のことを、ずっと気にかけておったかと。あの娘の胸には、細い灯が一つ。どこか遠いところから借りてきたような、心もとない灯が。そしてあなたの胸には、何も」


 大神官は少しだけ首を傾げた。


「私どもは、神前では偽りを口にできぬものと教わってまいりました。……あなたは、どうでしょう」


「嘘はつけませんよ。神前ですから」


 若者は穏やかに答えた。


 声は一音も途切れずに礼拝堂に響いた。大神官は若者の顔をじっと見ていた。声は出た。神前の声として、確かに出た。けれどその一瞬だけ、若者の瞼がほんのわずかに動きを止めたように見えた。気のせいかもしれなかった。灯の視えない者の言葉が神前の裁きを受けるのかどうか。大神官にはそれを確かめる術がなかった。


「左様でございますか」


 大神官はそれだけ言って、卓の上の紙の束に手を置いた。


「もう一つ、お伝えしておくべきことがあるかと存じます。あの娘の胸には、灯のすぐ隣に、黒い火が視えるようです」


 若者の肩が初めて小さく動いた。この若者が自分のことでは少しも揺れなかったのに、あの娘のことでは揺れる。大神官にはそれがはっきりと分かった。


「名乗りの儀の日から、ずっと。灯に寄り添うようにして、冷たく揺れておるように視えます。灯なき者が選定に関われば、やがて災いとなる。大聖堂の古い記録には、そう書かれておるようです」


 大神官は紙の束の一番上の紙を、若者に見えるように少しだけ傾けた。


「灯守たちは、それを神前に申し立てるつもりでおるようです。ルーヴェの候補は、この地の者にあらず。……明日か、明後日か。いずれ、そうなるかと」


 若者は紙の一行を見ていた。字は読めるようだった。


 長い沈黙だった。燭台の火は一つも揺れなかった。


「書かれたものは、嘘をつけますよね」


 若者が言った。


 静かな声だった。けれど大神官にはその声の底に、熱いものが沈んでいるのが分かった。


「古い記録も、灯守の方々の書きつけも、文字です。文字は何も裁かない。大神官様のほうが、よくご存じのはずです」


「……さて。そうかもしれませぬな」


「伊吹は、災いなんかじゃありません」


 若者は椅子から身を乗り出した。両手を膝の上で握りしめていた。


「あの黒い火は、伊吹が自分で持ってきたものじゃない。伊吹のせいじゃありません。伊吹はこの世界に来てから、一度も誰かを傷つけるために力を使ったことはない。ネネの手首に薬を塗って、病人の痛みを自分の胸で引き受けて、泣いてる精霊のために自分の勝ちを後回しにした。あいつの心は、慈悲の台座に沈んだんです。神前で。大神官様も、ご覧になってたはずです」


 声は最後まで途切れなかった。


 大神官は若者を見ていた。灯の視えない胸の奥から、それでも何かが燃えているような声だった。七十年、人の灯を視てきた。灯の大きな者ほど、声が熱いものだと思ってきた。灯のない者がこんな声で話すのを、大神官は初めて聞いた。


「あの黒い火を」


 若者は声を落とした。


「大神官様は、前にもご覧になったことがあるんですか」


 大神官は答えなかった。


 沈黙は罪にあらず。神は一度口を閉ざした心を、重ねて暴かせはなさらない。大神官は膝の上の帳面に目を落としたまま、黙っていた。


 五十年前のことを、思い出していた。


 十の夏だった。故郷の町に当時の聖女がお出ましになり、その神前で、ヴァルディアの使節が和平を誓った。それから一年もたたないうちに、その誓いは破られた。破ったのは誓いを立てたその使節だった。誓いを破った男の胸で、灯が黒く堕ちるのを、十歳の大神官は見た。見えてしまったのだ。冷たく揺れる黒い火が人から人へ燃え移っていくのを。


 町はその夜のうちに地図から消えた。十歳の大神官は母の裾を握りしめたまま、震えて泣くことしかできなかった。


 あのとき随員の一人が吐き捨てた言葉だけを、大神官は今も覚えていた。忠実なる者が聞いて呆れる。誰の名のことなのか、十歳の子どもには分からなかった。使節の名を、大神官は知らない。ヴァルディアのどの記録をたどっても、その名だけはどこにも残っていなかった。五十年たった今も、分からないままだった。


 あの娘の胸の黒い火はあの夜の火と、揺れ方がよく似ていた。そう思うたびに、老いた胸の奥がしんと冷えた。


「……お答えは、いただけないんですね」


 若者が言った。責める声ではなかった。


「沈黙は罪にあらず、と申しますゆえ」


 大神官は顔を上げた。


「今宵、あなたをお呼びしたのは、問い詰めるためではなかったように思います。ただ、知っておいていただきたかったのかもしれませぬ。私が何を視ているのかを。そして、明日にも何が起きるのかを」


「どうして、俺に」


「あの娘に話せば、あの娘は正直に答えてしまうでしょう。この世界の者か、と神前で問われれば。……あなたなら、どうなさるのか。それを見たかったのかもしれませぬな」


 若者は長いあいだ黙っていた。それからゆっくりと立ち上がった。


「お話しいただいて、ありがとうございました」


 若者は深く頭を下げた。顔を上げたとき、若者はもう穏やかな顔に戻っていた。さっきまでの熱い声が嘘だったように、静かな目をしていた。


「一つだけ、申し上げてもいいですか」


「どうぞ」


「伊吹は、この選定に勝ちます。灯守の方々が何を書いても、どんな申し立てをしても。……俺が、勝たせます」


 声は途切れなかった。


 大神官は答えなかった。若者は一礼して、扉の向こうへ去っていった。


 礼拝堂に、大神官は一人で残された。


 あの若者はこの問答のことを誰にも話さないだろう、と大神官は思った。あの娘にさえ。いや、あの娘にだけは、決して話さない。灯のない胸に、それでも誰かを守る火を抱えている者はそういうものだ。大神官は昔、そういう人間を一人だけ知っていた。


 大神官は卓の上の紙の束を脇に寄せて、その下から、一冊の古い記録を取り出した。


 背の革がひび割れた、大聖堂の文書庫で一番古い記録の一つだった。選定のたびに、歴代の大神官が読み返してきたものだ。大神官は頁を繰って、何度も読んだ箇所を開いた。


 異界より来たりし者、選定に関わりしとき。


 その後に続く一文はもう誰も使わなくなった古い言葉で書かれていた。大神官は若いころから、この一文を何度も読み解こうとしてきた。ほとんどの言葉は読める。災い。灯。選ばれし者のそばに立つ者。


 ただ一つの語だけがどうしても読み解けなかった。


 選ばれし者を、導く者。そう読めば読める。けれどその語にはもう一つ別の意味が重なっているように見えた。導く者であり、同時に、何か別のものになる者。


 大神官は燭台の火のそばに記録を寄せて、その古い一語を、長いあいだ見つめていた。導き手。


 その語が誰のことを指しているのか、大神官にはまだ分からなかった。


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